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「ベールキン物語」あらすじ解説【プーシキン】

1831年、日本でいえば江戸時代後期の作品です。残念ながら名作ではありません。良い文学読んだ時に特有の充実感がありません。しかし重層的な才能豊かな作品だということは感じられます。


あらすじ

6章からなっています。本来章番号はないのですが、分かりやすくするために本稿では番号振って説明します。序文として置かれる「出版社より」も章の一つとして見ます。

1、出版社より

このたび刊行となりましたベールキン物語集の準備のために、作者である故ベールキン氏の略歴を調査しました。ご友人の紳士よりご返答をいただきました。

「本月15日付の貴信、23日に拝受しました。ベールキン君は領地が近所でした。軍隊を退役して領地経営をしたものの、家政婦頭を村長にすえるようなたるんだ経営でした。それでも善良な人物なので私は彼が好きでした。彼は多数の手稿を残しており、この物語は処女作と思われます。本人の言によれば様々な人から聞いた、おおむね事実の物語であるそうです。
1828年風邪をこじらせ、彼は私の腕の中でなくなりました。私は高齢でもあるし、これら情報を利用される場合にも小生の名前は伏せていただきたく存じます。1830年11月16日」

2、射弾

連隊の駐屯していた場所にこわもての男性が居ました。シルヴィオという名でした。射撃の名手でした。毎日ピストルを練習していました。名手なのに若い将校が彼を屈辱しても、なぜか将校を許していました。決闘すれば絶対に勝つのに。不思議です。その彼が突然旅立つと言います。旅立つ直前に決闘をしなかった理由を私に説明してくれました。

「昔、ある男性から平手打ちを受けた。屈辱だから決闘したのた。最初に撃った相手の弾は外れた。次は私が撃つ番だが、相手は平然とサクランボを食べている。なんだか面白くなくなって自分は射撃を中止した。撃つ権利は保留した。その相手の居場所がわかったので、これから殺しにゆく。この案件があるので他の人と決闘するわけにいかなかったのだ」

シルヴィオと別れて数年後、ある若い伯爵夫婦と出会いました。良い人達でした。射撃の話をするうち、シルヴィオという名前を出すと伯爵は非常に驚きました。なんとシルヴィオの決闘相手は伯爵だったのです。伯爵は説明してくれました。

「奥方の留守中にシルヴィオが押しかけてきた。自分はせめて妻が返ってくる前に撃ってくれと懇願したが、シルヴィオはもう一度決闘しようと強引に誘い込んだ。今回も自分の初弾は外れた。そこへ妻が帰宅した。妻を傷つけたくなくて動揺している自分を見たシルヴィオは満足して、今回も自分の弾を撃たずに引き上げた。シルヴィオはその後オスマントルコからのギリシャの独立の戦いに参加して戦死したそうだ」

3、吹雪

領主の娘マリヤは、貧しい陸軍准尉ウラジミールと恋仲になりました。二人で駆け落ちしようと計画を練りました。マリアが家を脱出して教会で落ちあい、その場で結婚しようと。
駆け落ち当日、マリアは教会に出発しましたが、結局なにもおきずに自宅に帰りました。実はウラジミールが吹雪で道に迷い、教会に到達できなかったのです。ウラジミールはその後ボロディノの会戦で負傷しました。

その後領主の父が死にました。マリアは別の男性ブルーミンと知り合いになります。ブルーミンはマリアに愛していると告白しますが、同時に実は自分は結婚している、相手の名前もわからないが既婚なのだと伝えます。なんでそうなったと聞くマリアに、ブルーミンは昔のことを語ります。

「ある雪の日出かけて、吹雪で教会に迷い込んだ。そこには女性が待っていたから、軽はずみにもなにも言わずに新郎の気分で綺麗な娘さんと結婚式を挙げてしまった。娘さんは接吻の直前で相手が違うことに気づき、気を失った。私は逃げ出した」

マリアは驚きます。可哀そうな奥様がその後どうなったかご存じないのですか? ブルーミンは答えます。それが、村の名前も知らず、一緒だった従者も後に行軍中に死んだから、その女性を探し出す手立てがないのです。マリアは彼の手を取って言います。あれは、あなただったのですね。なのにあなたは、私に見覚えが無いと言うの? ブルーミンは蒼白になり、彼女の足元に身を投げました。

4、葬儀屋

引っ越しをしたモスクワの葬儀屋アドリヤンは、お向かいのドイツ人靴屋から銀婚式の招待を受けます。出席するとドイツ系職人や、ロシア人巡査などが居ます。乾杯につぐ乾杯で盛り上がります。ロシア人巡査が「どうだい葬儀屋さん、お客さんの死人たちの健康を祝って乾杯したら」と冗談を言います。周りはゲラゲラ笑うのだが、言われたアドリヤンは侮辱と感じます。自宅に帰って腹を立てて言います。

「あいつらを引っ越し祝いに呼んで宴会でもてなそうと思っていたが、もうやめた。それよりも仕事のお客を招いてやる。れっきとした正教徒の死人さんたちを」

翌朝葬式の連絡を受けたアドリヤンは一日駆けずり回ります。夜になって自宅に戻ってくると、誰かが家に入っているのを見ます、それも連続して何人も。不審に思って自宅に入ると、家の仲は人であふれています。死人で一杯だったのです。全て自分が過去に埋葬した死人たちです。骸骨たちが抱き着いてきます。アドリヤンは失神します。

目が覚めると朝でした。まだ宴会の翌日でした。全ては夢でした。

5、駅長

ある駅馬車の駅に寄ったところ、老いた駅長の美しい娘さんに魅入られたことがありました。

後年駅に再度立ち寄ると、娘さんは居なくなっていました。なにが起こったのか、老駅長に酒を飲ませて話を聞きだしました。

「ある日青年将校が来た。体調が悪くなってしばらく駅で寝込んでいた。そのくせ食欲だけは旺盛だった。数日後回復して、娘を教会に送ってゆくと言う。娘は恐がっていたが、自分がが大丈夫だと言うと娘は将校についていった。それっきり娘は帰ってこなかった。目撃者の証言によると、娘は泣いていたが、自分の意志でついていっているようだった。

娘を探した。ペテルブルクに居るとつきとめた。将校が居た。娘を返してくれと懇願するも、金を握らされて追い出された。再度訪問すると今度は娘が居た。娘は自分を見るなり失神した。自分はまたも追い出された。友人は訴訟を勧めたが、身を引くことにした」

さらに数年後、訪問してみると既に駅は廃止されていました。駅長は死んだそうです。少年にお墓に案内してもらいました。夏にきれいな奥さんが、子供三人と尋ねてきて、お墓参りをしたそうです。奥さんはとても裕福そうで、お墓に長い間つっぷして、そのあと司祭さんに供養料を渡して帰っていったそうです。

6、百姓娘

ベレストフは領地経営が上手く、工場を立てて現金収入を伸ばしています。近所の領主のムーロフスキーはイギリスかぶれが激しく、そのせいで領地経営としては上手くいっていません。ただし金融への理解は深く、よそから上手にお金を引っ張ってきて凌いでいます。考え方が違いますから、二人は大変仲が悪い状況です。

そこへベレストフの跡取り息子アレクセイが帰ってきました。ムーロフスキーの娘リーザはなんとか知り合いたいと考えます。でも親同士が仲が悪いので簡単ではない。お世話係のナースチャと作戦を練ります。田舎娘の恰好をして、アレクセイの通り道で待ち構えます。アレクセイは女好きだから声をかけるはずと。
田舎娘アクリーナという設定で実施、まんまと成功します。アクリーナとアレクセイはだんだん親密になります。アクリーナ(実はリーザ)が文字が読めないというと、アレクセイは読み書きを教えます。リーザには家庭教師が居ますので文字はもともと読めます。だから物凄い勢いで学習します。インチキなのですが、アレクセイは驚きます。

ところで、仲が悪かった双方の父親が、だんだん仲良くなりました。アレクセイの父親は息子に、ムーロフスキーの娘と結婚しろと強要します。アレクセイはもうアクリーナ(実はリーザ)と結婚したいと思っているので、ムーロフスキー家に直接乗り込んで縁談を断ろうとします。アレクセイがそこで目にしたのは、、、めでたし、めでたし。

重層的な物語

脈絡もなく物語が並んでいるように見えますが、それでも各物語が重層的だとはすぐに気づきます。一筋縄では理解できなさそうです。

「出版社より」は当月23日に拝受した手紙の返信を16日に書いている。タイムリープです。

「射弾」はこわもてのシルヴィオが伯爵を二度まで許し、礼儀知らずな将校とも決闘しません。つまりシルヴィオは3回も相手射殺のチャンスを見送ります。実は善良な人なのです。弾を撃たない射撃の名手です。最終的にギリシャ独立を支援して戦死します。

「吹雪」は、相手に気づかないブルーミンも問題ですが、マリアのほうが実は問題です。マリアは教会でブルーミンの顔をはっきり見て「あの人じゃない」と驚いて失神したのです。その時マリアはヴェールをかぶっていますから、男性からは顔を見づらい。つまりブルーミンよりもマリアのほうが相手の顔を憶えておかなければならないはずです。でも忘れている。忘れているくせに相手を非難する。

「葬儀屋」の主人公はアドリヤンという名前です。ヤンがつきますからおそらくアルメニア系でしょう。周りの職人はドイツ系です。巡査はペテルブルク近辺の人です。彼らはモスクワに居ます。つまりロシア中心に集合しているのです。いかにも意味ありげです。

「駅長」は作中娘の失踪を悲しんで、「身を持ち崩すくらいならいっそ死んでくれたらと願う」とか言います。ひどいです。実際には娘は子供を三人産んでお金持ちの奥様として幸福に暮らしています。賢い娘さんです。駅長本人は酒におぼれて死にます。娘が泣きながらも自分の意志で男について行ったということは、駅長も相当問題のある人物で、娘もここに居てはだめだと思っていたはずです。だいたいお金持ちなら父に送金してもよさそうです。でも娘は送金していない。つまり「送金した分だけ飲んでしまってかえって死期を早める」と思っているのです。二人で生活していた時には、父の酒乱に相当苦労したのでしょう。

「百姓娘」は、イギリスかぶれの地主ムーロフスキーがカギです。英国式庭園と作り、馬丁にイギリスのジョッキーの身なりをさせ、イギリス人の家庭教師をつける。それで得意なのは経営というより金融。イギリスそのままですね。つまりムーロフスキーは人ではなくて国なのです。イギリスそのままです。1831年の作品ですが、当時からイギリスは金融の国だと(一部の鋭い人は)認識できていたのですね。

各話短いのですが、なかなか深いです。

反復構成

作品を並べてみると

このようになります。

1~3でひとまとめ、
4~6でひとまとめです。

ベールキンという死者を語る「出版社より」、死者が家に集う「葬儀屋」

「射弾」はシルヴィオが死にますが、敵は結婚します。「駅長」は駅長が死にますが、娘は幸福に結婚します。

「吹雪」は偶然ですが結婚していた二人が再会します。「百姓令嬢」は自然に結婚します。

以上で構成読み解き終了となりそうなものですが、反復構成でまとめてみても、特に新しい情報が付加されません。単に同じ流れが反復しているだけです。これだけの解析では不十分です。全編を貫く主題が見えてこない。

時間物語

反復構成を一旦忘れて6章すべてに共通する主題を考えます。「時間」は全てに共通します。

「1、出版社より」は前述のごとくタイムリープです。

「2、射弾」はシルヴィオが弾丸発射の権利を三度保留する話です。

「3、吹雪」はあいまいになっていた結婚式当日という過去を数年後に明らかにする話です

「4、葬儀屋」は過去の死人たちと再会する話です。

「5、駅長」は作者(語り手)が三度駅長を訪ねる話です。

「6、百姓娘」はありえない速度でリーザが読み書きに習熟する話です。時間圧縮です。

6つの文章すべてが、時間がらみのネタになっています。
ただ「2、射弾」と「5、駅長」がちょっと性格が違う。SF的なニュアンスが少し小さい。この二つの章は対になっています。

他「3、吹雪」と「4、葬儀屋」は過去を引き出す物語。「1、出版社より」と「6、百姓娘」は読み書きの速度の問題ですのでこれも対です。「時間物語」という観点から見れば、本作は対称構成を採用しています。

対称構成

対称構成の作品は、

というかたちになります。漱石の「坊ちゃん」「草枕」「三四郎」「夢十夜」、シェイクスピアなら「ハムレット」「ジュリアス・シーザー」などです。

6章構成の場合は、対称構成でも反復構成でも第二章と第五章が対になります。6章構成の場合のみそうなります。

本作を対称構成と見るとどうなるでしょう。冒頭の「出版社より」と末尾の「百姓娘」が対称であるならば、ベールキンは生きている、しかも女性である、ムーロフスキー家の娘リーザである、となります。

故人(とされる)ベールキンは領地経営がたるんでいます。でも実は領地の人口は増えています。たるんではいるが、悪くはないのです。金融に特化したムーロフスキー家そのままです。「1、出版社より」の中で、ベールキンの女性にたいするはにかみぶりは、さながら「処女」のようであったと書かれています。ベールキンが女性であったと暗示しているのです。ムーロフスキー家の女性はリーザです。
リーザは作中読書家として描かれています。かつ百姓娘のコスプレをできるほど機転が利いて、構想力があります。白粉塗りたくって正体隠したりもします。彼女なら、これくらいの物語は書けるでしょう。

ベールキンは家政婦頭を村長に任命しています。末尾「百姓娘」で該当する人物を探すと、リーザの世話係ナスーチャとなります。ナースチャとリーザは非常に親しいですから、リーザがふざけて「25ルーブル札と50ルーブル札の見わけもつかない(第一章)」と書いても不思議ではありません。この第一章と第六章を対にして意味を取る仕掛けが、本作最大の工夫になります。

仕掛けと言っても非常に読み取りにくいものですから、別の解法も用意してあります。

「1、出版社より」の手紙はネナラドヴォという地名からのものです。

「3、吹雪」も元来ネナラドヴォ在住の女性の話です。両者は地名が共通している。

そしてもしも反復構造にさえ気づけば、つまり「3、吹雪」と「6、百姓娘」がパラレルとさえ気づけば、

「1、出版社より」と「6、百姓娘」の関係にも気づけます。

つまり、

となります。
親切なのか身勝手なのかよくわからない工夫ですが、これはようするにアマチュアリズムです。不特定多数の読者を想定しているのではなく、自分の事をよく知っている知人たちを念頭に置いて書かれるものですから、商業的にソツのない作品に慣れ切った我々には少々遠く感じられます。しかし本作の場合対称構造に気づくより反復構造に気づくほうがはるかに難易度が低いですから、プーシキンなりに誠実ではあるのです。そして「1、出版社より」と「6、百姓娘」の関係にも気づけば、本作の趣旨は八割がた理解していることになります。

女性が作者という設定の物語、本作は土佐日記に少し似ていますね。作者は男性、でも作中での作者は女性。しかし「ベールキン物語」のほうが土佐日記よりもさらに複雑で、作中の作者は女性なのですが、表面的には男性のように描かれています。土佐日記が女性に成り切った男性の書いた物語ならば、ベールキン物語は男性になりきった女性を暗示させる男性の書いた物語、土佐日記が二重なら本作は三重です。作品の内容も土佐日記は作者実体験がベースですが、本作は全て創作です。

はるかに重層的ですね。

土地と歴史

土佐日記が旅行物語であるように、本作も土地、場所が重要な要素になります。

「2、射弾」のシルヴィオは復讐に満足して後ギリシャのトルコからの独立戦争に参加して戦死します。
「3、吹雪」で教会にゆきつけなかった最初の男性は、その後ボロディノの戦いで負傷します。ボロディノの戦いはナポレオンを迎え撃ったロシア軍が健闘した戦いです。
「4、葬儀屋」は前述のごとくアルメニア人とドイツ人とペテルブルク近辺の人がモスクワに集う話です。
「5、駅長」の自宅には「放蕩息子の帰還」の絵が飾られています。「放蕩息子の帰還」はイエスの語った例え話です。イエスの話ですから当然想定される舞台はパレスチナです。
「6、百姓令嬢」はムーロフスキーはイギリスかぶれ、その娘はロシアの田舎娘の恰好をします。

小さな作品ですが、世界を俯瞰する作品なのですね。ちなみに冒頭の「出版社より」には原注が加えられており、続く五編のタイトルが列挙されているのですが、その順序では

となっています。それで場所を確認しますと、

となります。この並びでは、意味するところは「ロシア誕生歴史物語」です。二つの根源、ヘブライズムとヘレニズムから発生した文明が周辺の人々を集め出してやがてナポレオンのロシア侵入という災難を克服してイギリスとも付き合い始める。ヘブライズムとヘレニズムという問題は、その後ドストエフスキーが発展させました。

「地下室の手記」あらすじ解説【ドストエフスキー】|fufufufujitani (note.com)

文学事始(ぶんがくことはじめ)

しかし作者はこの並び方を採用しなかった。現在の並び方は、タイムリープの手紙で始まり、急速に読み書きをマスターする話で終わります。急速なのは見せかけなのですが、とにかく読み書きをマスターした少女が物語を書く、それがベールキン物語というタイトルでして、冒頭にループします。時系列構造から、時間ループ構造に変化させています。

ループの輪っかの中身は、

「2、射弾」と「5、駅長」の対、つまりヘブライズムとヘレニズム、および「3、吹雪」と「4、葬儀屋」の対、つまりボロジノ、ナポレオン戦争以降の新生ロシアです。

「3、吹雪」の元の恋人はボロジノで負傷、新しい恋人も軍人さんですから、ナポレオン戦争前後の話です。「4、葬儀屋」はナポレオンによる大火後のモスクワでの話です。ここが全体の折り返し地点で、ナポレオン戦争後にモスクワにアルメニア人の主人公と、ドイツ人、ペテルブルク近辺の人が集います。本作の主題は、ロシア文学の誕生です。

ギリシャ、パレスチナから断続的に継続する時間の果てに、ナポレオン戦争という大きなイベントを経て、アルメニアからドイツまでの人々が集い、最終的にイギリスの影響を受けて、大きな文化が不自然なほどの速度で誕生する。その文学の誕生を描いたのが本作です。誕生した文学は冒頭にループします。そして冒頭はタイムリープの話です。もしも後続が続かなければ本作はただの宣言倒れに終わったのでしょうが、後続が続きました。本作のヘブライズム、ヘレニズム論はドストエフスキーに行き着き、ナポレオン戦争への言及はトルストイの「戦争と平和」に行き着きます。

「戦争と平和」あらすじ解説・1【トルストイ】|fufufufujitani (note.com)


追記

ドストエフスキーの「貧しき人々」を解析するつもりで、作中に出てくるベールキン物語の「駅長」を読まなきゃ、と思って本作を手に取りました。光文社の、「スペードのクイーン」とセットになっているやつです。この二作以外にプーシキンは読んでいません。

Amazon.co.jp: スペードのクイーン/ベールキン物語 (光文社古典新訳文庫) eBook : プーシキン, 望月 哲男: 本

「そんな奴の解読は信用できない」と言われそうですが、その考え方は間違っています。人間は、プーシキンのような広い心を持たなければいけません。もっともプーシキンは視界の射程は遠くとも、むやみに決闘が好きだったようで、さぞかし遠い射程の銃撃が得意だったのでしょうが、最終的に銃弾食らって死んでしまいます。太宰治の男性的なバージョンですね。太宰よりはこっちのほうがまともな気もしますね。
光文社の本には解説がたくさんついていまして、「同時代のロシア文学における西洋文学への追随を批判し、新しい自国文学の創設を訴えている」という解釈も存在しているようです。かなり適切です。最初が手紙、最後が読み書きマスターの話ですから、文学の誕生と見るのが基本です。もっともニュアンスとしては真逆です。ギリシャ、パレスチナから現代イギリスの優れたところまでも取り込んで、ロシア文学の本作は誕生したのだ、と読むべきです。現にイギリスかぶれの領主の娘が真の作者です。イギリスかぶれのムーロフスキー一族とは、シェイクスピアが好きなプーシキンそのものです。本作は小さな作品ですが、貪欲な、貪婪な、湖いっぱいのウオッカを飲み干しているような、底なしの感じを受けます。反復構造と対称構造を戦略的に重ね合わせている作品は、私もはじめて読みました。
しかし最初に書いたように、文学として名作ではありません。素人臭い。才能豊かな素人です。プーシキンは貴族でして、作家としてメシを食っているわけではありません。ドストエフスキーがロシア最初のプロ作家と言われています。

実はロシア映画の俳優たちも、たいがい「非常に才能豊かな素人」という印象を受けます。全員脇が少し甘い。そして全員世界の平均的な俳優よりも才能豊かです。そういうお国柄なんでしょう。才能あるアマチュアの国なんですね。

ちなみにですが、ドイツ俳優は全員絶望的に下手です。自然な身振りが全くできないのですが、もしかするとそもそも民族文化の中に自然な身振りがない、ぎこちない不自然な身振りが自然な身振りとみなされている国、なのかもしれません。フランス人は端役に至るまで全員プロです。プロ根性のようなものをひしひしと感じさせます。よっぽど普段から嘘ばっかりついて生きているんでしょう。イタリア俳優になると、嘘をついて演技をする勤労意欲さえ喪失している感じです。適当に普段通り会話して、時々ハイテンションになりさえすれば任務終了と心得ています。それでいてそれなりに説得力のある演技になっているのですから、文化力が非常に高いのでしょう。英米系は紋切り型です。シェイクスピア劇の影響が強いのでしょう。ゆえに時々出現する才能豊かな俳優は、全員じゃないですが多くは不良タイプになります。日本人俳優がどうなのか、つまり日本文化がどうなのかは、私が日本人なので客観的に見れませんからわかりません、あしからず。


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