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天狗天空――黒田硫黄『大日本天狗党絵詞』

黒田 硫黄(くろだ いおう)

『大日本天狗党絵詞』(だいにっぽん てんぐとう えことば)

全四巻

講談社 1995~1997年

黒田硫黄は、唯一無二の漫画家である。

黒田硫黄は、大王であり偉大であり威容であり異様である。

この作品は、黒田硫黄の力作長編である。類例がみあたらない。

題名に「絵詞」とある。絵に詞(ことば)のついた物語。絵巻。それを現在の漫画の様式にあてはめて描いている。古い革袋にもられた新しい酒。そうとらえれば、最初の違和感は消える。

異様であり、初めて体験する世界のはずだ。それなのに、既視感がある。なつかしい世界なのだ。強い酩酊感がある。

天狗にさらわれた子どもが、山をさまようという話は、昔話や民話などにもあった。今回は、それが20世紀末の都会という場所になっている。

天狗は、人間の作り上げた人工的な都市で、生きのびることができるのだろうか。そして、神隠しにあった切れ長の瞳の少女シノブの自分探しの旅でもある。

深刻でありつつ、妙に自由な遊びの気分に、終始、浸されている。鳥のように空を飛びたいという子供の頃の願望も、冒頭で実現してしまう。

黒田硫黄の筆の絵が、やわらかくあたたかい。ペンのように輪郭線を固定しない。自由である。自己と世界との境界線が、つねに揺れ動いている。

これだけ書けば、もう書くことは、ほんとうは無い。あとの文章は、蛇足となるしかない。それを承知で書いていこう。黒田硫黄の一ファンとして、作家と作品を、令和の時代にアピールしていきたいからだ。

鑑賞の邪魔にならないように注意していきたい。

だいたい天狗とは何だろうか。自然界の怪異を説明する原理であったのだろうか。三界に家なきものたちであろうか。

天狗自身が自問自答する。自分たちは何者か。どこから来て。どこへ行くのか。

それが、みつからない都会では、自分たちで作るしかないだろう。大日本天狗党が結成される。政治の世界に乗り出していく。人間の世界との衝突が、避けられない。革命の物語となる。徐々にエネルギーが集中していく。内圧が増大する。権謀術数が渦巻く。

一巻、二巻とたくわえられてきた力が、三巻、四巻で爆発する。伏線が回収されていく。

登場する者たちは、人間も天狗も、いずれも志あるものたちである。しかし、彼らの行動に、人間界の革命の規範は、通用しない。ずれている。その中で、救世主を崇める十三人の使徒のように、自己の存在の核心となるものを求めてやまない葛藤は、ひどく人間的である。感情移入が可能である。

若く美しい女性と接する中年男の心情には、身につまされる思いをされる方が、きっといらっしゃるだろう。逆に、つきまとう中年男のしつこさに、へきえきしている女性の方からは、もっと自由にさせてほしいと、共感を得られる状況が、描かれているともいえる。

天狗たちの意志力の戦いが、波乱万丈に展開される。彼らの鼻は、次々とへし折られていくが、最後まで変わらぬ者もいる。自然と畏敬の念を覚える。

ここに、ふるわれる暴力の強度も、ハンパない。たとえば、天狗のつぶて。水切りの石は、子どもの頃に遊んだ。あれが、怪獣映画の規模で再現されている。こんな作り物の世間のすべてを、ぶちこわしたいという秘密の願望をいだく我々には、解放感がある。

そして、次のような哲学的(!)な文句が、あちらこちらに散りばめられているのも、黒田硫黄の漫画を読む醍醐味である。

「生きてる間に

食べるごはんのうち

死ぬまで覚えてるのは

何回分かしら」2巻6ページ

そして、黒田硫黄は、オノマトペの天才でもある。

リモコンでテレビをつけると「つぴゅん」という音がする。「ぷちゅん」と切れる。

チンドン屋のカネは、

「チンチキチキンどチンチチンチキ」

ときこえる。

自動車は

「るるるるるるるる」

と坂道を登る。

この漫画家は、世間の無数の物音とともに、この世界の肌触りを、通念に曇らされていない自分独自の感覚によって、とらえることができる。思考や論理によらない世界像の直感的な把握が新鮮である。

黒田硫黄は、映画が大好きである。映画の記憶が、随所に自在に散りばめられている。たとえば、OVA版『機動警察パトレイバー』の、有名な立ち食い蕎麦屋のシーンのパロディなども、内部に仕組まれている。


写真/Keita   文/笛地静恵

#好きな漫画家 #天狗 #黒田硫黄 #革命  

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