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ヱリ子さん日記〜2022年9月②「生きている背中」

「頑張っているひと」
 9月になってから幼稚園に2分ほど遅刻していく日が増えた。低血圧のせいか極端に早起きが苦手なのは今に始まったことではないが、それにしても体を起こすのがとても難しい。起きてしまえばコップ一杯のお湯を飲み、トイレに入りながら泡だらけで顔を洗い、洗い流すときにピアスと時計を先につけて子供と自分の洋服を出し、弁当3つと朝食とスムージーを並行して作りながら、部屋を片付けたり洗濯機を回したりする。下の子は身辺自立ができているほうなので、難なく着替えを終えて、自分で体温を測って「おてちょう」に記入し、持ち物を自転車のカゴへ運び、ヘルメットをつけて待っている。
 この(よく言えば)マルチタスクが嫌いではないのだけれど、タイムチャレンジは限界を迎えているようだ。とにかく、信号に引っかかると遅刻する。改めなくてはマズイと思うのだが、変な自信がついてしまい、気づいたら「タイムチャレンジ」している。会社にさえ遅刻しなければかまわないと、どこかで思ってしまっているのだろう。 
「やばいよ、お母さんまた幼稚園遅刻しちゃうかも。最悪だよね、どうしよう」自転車を漕ぎながら半泣きで言うと、子はしばらく考えて言う。「ちがうよ、ちこくしちゃうひとは.......ちこくしちゃうひとは.....疲れてるのにがんばってるひとだと思う」ああ、ごめん息子よ。
 遅刻も増えたが、よく火傷もしている。9月に入って2度目の左手の火傷を3時間きっちり冷やしきり、さっぱりとした気分で台所に立つと、「ヱリぞう、また火傷しないようにね。しすぎでしょ」と冷蔵庫の前にいた夫が言う(実を言うと、今年に入ってから6回目くらいなのだ)。わたしはいくぶんの自信をもって「仕方ないよ、最近頑張ってるから」と言ってみる。「いや、世の中の頑張ってるひと、みんなそんなに火傷してるわけじゃないでしょ」と即座に返ってきた。わたしは口の中でもごもごやってから、結局黙って冷たい水で洗い物をはじめる。火傷にはきっと、冷たい流水が効く。

「生きている背中」
9月某日
 若き舞台俳優さんの自死をTwitterで知る。演出家から受けたパワハラに起因するPTSDを患っていたそうだ。劇団側のホームページを見ると過去に公開したという謝罪文が残っていた。加害者なりに誠実に振舞おうという努力が見て取れたが、加害の罪に苛まれる者としての苦悩の色はうすく、「傷ついてしまったらしい演者の心を癒やす努力をしなければ」といった他者性を軸にした文面だった。
 演出家から演者に対するパワーハラスメントの最も恐ろしいところは、そこに身体的剥奪を伴う点だと思う。演者に繰り返し“自分好みの”ジャンプを強いた演出家によって、演者の身体はついに尽きるまでレイプされてしまった。演劇指導という名目のもとに、言葉のナイフで繰り返し脅され、からだの自主性を奪われ、相手の意のままに身体を侵されてゆく。さらに救いようがないのが、両者の立場上、少なくとも最初のうちはこの構造に演者自身も加担してしまう。演出家の期待に答えなければと懸命になる。そのうち境界を越えて、気がついたら被害者になっている。共犯関係が生じているために、被害体験の認知が極めて複雑になってしまうのではないか。加害側も、いつ頃から加害性を帯びていたのか自覚しにくくなるのだろう。心理学に明るくない私でも、そのくらいは容易に想像がつく。考えてみれば、拙作「だ」の冒頭にも、それに似た関係性を描いていた。
 見知らぬ若き青年の訃報に傷ついたまま六本木駅のコンコースを歩いていると、壁面いっぱいに新しい絵画が飾られていた。首から上のない人間の背中の絵。首へつながるべき部分は太い線で迷いなく閉ざされていて、この人物が前方に深く首(こうべ)を垂れているとは、私には思えなかった。首を絶たれた背中は静止しているが、今にも動き出しそうな躍動の予感を孕んでいる。健康な死者である。頭を失い、そこに詰まっていた苦悩を手放し、これからきっと新しい身体の自由を獲得する。亡くなられた俳優さんが、誰も知らない場所で身体の自主性を取り戻し、じぶんの思う演技に自由に身を任せられたらいいなと思った。その人はきっと今、新たな身体の黎明を待っている。こんなふうに健康な、生きている背中で。そうならいいと思う、本当に。

六本木駅ミッドタウン側コンコースにて


「Matriarchのこと」
 いつからか、Matriarchという英単語が好きになった。女棟梁、女番長といった意味合いで、小説中よりも本や映画の紹介文によく出てくる。発音もいい。mの柔らかな音から始まり、喉に引っ掛けるようなchの強みで終わる。男の場合はPatriarchだが、私はMatriarchのほうに俄然ドキドキする。これはもう、偏愛というほかない。ちなみに、固有名詞ではないのでmatriarchと小文字で表記すべきところだろうが、私のひたいの奥(ここは映画のスクリーンのようになっていて、色々なものが映る)にある偏愛文字集にはMatriarchとして刻まれているので、そう表記しようと思う。筆頭が大文字のほうが俄然強さが増して、女棟梁らしいではないか。
 Matriarchとして真っ先に思い浮かぶのは、「天空の城ラピュタ」のドーラだ。タイガーモス号の船長として息子たちを率いる母親で、一族の誰よりも強靭な肉体と精神を持つ悪たれである。低くしゃがれた声音や野犬のような目つきは獰猛で恐ろしいのに、仁義や温もりがその裏側に太く流れていて、なんとも信頼がおける。従順さのかけらもないのに根っこが素直、ずる賢くて茶目っ気がある。
 是枝裕和監督作品「万引き家族」でシバタ・ハツエ役を演じた樹木希林さんの訃報にも、Matriarchという単語が使われていた。私はその訃報で、はじめてあの映画の彼女がMatriarchだったことに気がついた。ああそうだ、そうだったか、私はなんてぼんやり者なんだろう。Matriarchは人に媚びない、世の中の流れにも媚びない。ただ自分の生を自分の考えで、豪胆に悔いなく生きる。だから法律だって破る、そして人を愛し包摂する。だって悔いなく生きるのだから。私はきっと、その突き抜けた太い心に憧れている。
 余談だが、その昔「妖怪人間ベム」というテレビアニメがあった。いくら人間を助けても、肝心なところで妖怪のからだが邪魔をする。人の影に隠れて生きるほかないベムたちは、「はやく人間になりたい」と醜く叫ぶ。もしも彼らがほんとうに人間のからだを手に入れ、長きにわたる疎外から生じたあのヘドロのような懊悩を手放したなら、きっとMatriarchのように生きるだろうと私は勝手に信じている。

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