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「推し、燃ゆ」を読んで #白熊文芸部


「推し、燃ゆ」は、主人公の推していたアイドルが、ファンを殴って炎上したことから始まる物語だ。
推しが燃えたから「推し、燃ゆ」である。シンプルなタイトルだ。

この作品を読んで思ったのは、これは単に「推し」を推すアイドルファンの悲哀を描いた物語ではないということだ。

「推し」を推す、という表現は近年メジャーになった表現と言えるし、こういった流行ネタを扱った作品は、基本的に廃れるのが早い。
例えば、芥川賞作家・綿矢りさのデビュー作「インストール」は、女子高生がパソコンの風俗チャットアルバイトをする男子小学生と出会うというストーリーなのだが、ホームページ、チャット、コンピュータウイルスというモチーフは、今見ると古いと感じられてしまうものだ。

閑話休題。

作品は「推し」という現代的なモチーフで描かれているものの、僕が読んでいて気になったことは、とにかく人生を真っ当に生きられない、落伍者の「生きづらさ」に対する哀しみだ。

そして、同時に、「推し、燃ゆ」はアイドルファンという存在について、肯定なり否定なりしようとする作品でもない。
なぜかというと、作中にはアイドルオタクが複数登場するし、その都度主人公のあかりと対比されているからだ。

たとえば同じ高校に通う「成美」。
成美はあかりとは違う地下アイドルグループのファンで、最終的に地下アイドルと「繋がる」、つまり実際に付き合ってしまう。
本人も「もしかしたら繋がれるかもしれないんだよ!」といった理由で推し活を始めていることから、本人の幸せの一つの形として描かれている。
そして、普通に高校に通いながら幸せを掴んだファンと、現実が加速度的に辛くなっていく主人公との対比がされている。

さらに、あかりのブログにコメントを残すアイドルファンたちもいる。
そういう人たちについて、あかり自身も「アイドルとの関わり方は十人十色」としていて、色んなファンのあり方を、俯瞰するように見ていることもわかる。

作中のアイドルファンたちは、アイドルという共通点だけで繋がっているだけの、様々な社会を生きる人物として描かれる。

つまり、この話は推しを持つアイドルファンの危うさについての話ではなく、様々なアイドルファンの中におけるあかり、現実に生きるあかりという人物そのものの悲哀の話だ。

***

あかりは、学校の勉強についていけない、周りになじめない人物として描かれる。自分のことを「病気」と示す表現も出てくるほどだ。
姉や家族からは、勉強ができないと見放され、周囲から「どうしてできないのか」と悲しまれるたびに、自分の無力感にあかり自身が一番困惑している。バイトも思ったようにできない。
僕が一番共感したのは、ここだ。「普通の人」が普通にできることをまともにこなせない、という悲しみ。

そんな中、あかりは子供の頃に見た「ピーターパン」のミュージカルに出ていた子役である「推し」、上野真幸の虜になる。
そして高校1年生になり、その「推し」がアイドルグループとして活動していることを知って、ファンになる。

ただ、先ほどは「あかりは色んなファンを俯瞰している」と言ったものの、あかり自身の推し方も、
「作品も人も、まるごと解釈し続ける」
という、かなり重い方法
だ。

あかりは「推しの見る世界が見たい」という理由で、推しの20年間の発言を全て集めたブログを始め、推しの行動をシミュレートする。
推しに少しでも近づくことで、「辛い自分」ではなくなる。
推しに対して一生懸命打ち込むことで、そんな自分が好きになれるし、推しを推している自分だけが、好きな自分でいられる、のだ。

初めて見た推しが「ピーターパン役」だったというのも示唆的だ。
「大人になんかなりたくない」と叫ぶ推しに、あかりは「大人になることに重さを感じていいんだ」と、生きづらかった自分を重ねる。

推し活など、そうした「生きがい」を見出すこと自体は、人間として健全なあり方だ。なにかに一生懸命になることで、自分を好きになるというのは、人としてとても素敵なことだと考える。

ただ、この物語は、それが奪われてしまう話なのだ。

現実を辛いと感じる落ちこぼれた人間が、唯一すがっていた生きがいすら、失われてしまうことの悲哀。
例えばそれは、僕が、配信活動や小説執筆活動を奪われてしまうことと同じだと思う。
日々を懸命に生きながら楽しみにしていた数少ないかけがえのないものが、YouTubeやTwitterといった外的要因によって、ある日突然奪われることで失われてしまったら
その悲しみは、一体どれほどのものなのかと、想像もしたくないほどだ。

***

作品の冒頭は、「推し」がファンを殴ったことから始まる。まさに最初からクライマックスだ。
推しの発言をすべてシミュレートしているあかりは、その行動を解釈することができない。
解釈できないから、推しに近づくことができない。推しとの距離が残酷にも明確になっていく。

推しが炎上し、ファン投票で最下位となってしまってから、あかりはますます推し活にのめり込むようになる。
自分を追い詰めることで、つらさと引き換えに、そこに自分の存在価値を求めるようになってしまう。
学業にも致命的な支障をきたし、留年のち退学となってしまうし、バイトも解雇されてしまう。

グループが解散を発表し、解散ライブが描かれるあたりから、この物語のスピード感はさらに加速し始める。
そして、ファンが特定した推しの住所まで行き、そこで知らない女が推しの洗濯物を取り込んでいるのを見て、あかりは「推し」はもう自分の解釈できない遠くに行ってしまったこと、人間に戻ってしまったことを悟る。

あかりは、「推しのいない人生は余生だ」、と地の文で語る。

それと同時に現れるのは様々な「死」のモチーフだ。
祖母の死、から始まり、遺影のような「推し」の写真、仏壇、墓地、成仏できない幽霊のような自分。

“自業自得。自分の行いが自分に返ること。肉を削り骨になる、推しを推すことはあたしの業であるはずだった。一生涯かけて推したかった。それでもあたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことはできないのだ。”

あかりは、推しの為なら死んでもいいと思ってきたものの、死んだら自分でやってきたことの責任を自分で取ることもできない、と嘆き悲しむ。

そして終盤、あかりは推しのいちばん重要な行動をシミュレートする。
それは破壊衝動
推しが人を殴り、表舞台を忘れてまで何かを破壊しようとした瞬間を真似て、最後に、自分で自分を壊そうと試みる。

しかし、そこであかりが唯一出来たのは、
「綿棒をケースごとぶちまける」
という、至って小規模な破壊でしかなかった。そこにもあかりの人間としての悲哀がある。

***

ただ、結末はそこまで悲観的なものでもないと感じた。

あかりは、破壊を行った後、初めて自分の荒れた部屋の様子を客観的に見る描写をする。
そして、ぶちまけてしまった綿棒を丁寧に片付けていく。

“綿棒を拾った。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。”

あかりは自分で自分を殺し、一度死んだのだ。
そして、自分で自分のお骨をひろい、『自業』を引き受ける覚悟をする。
綿棒を拾った後、空のペットボトルや、カビの生えたおにぎりも片付ける意志を示す描写もあり、これからゆっくりではあるけれども、部屋は片付けられていくのかもしれない。

作品は、あかりが「推し」を完全に失ってしまった後、あかりがどうなるのかは描かれていない。
でも、描かれていないということは、そこからは「解釈」のできない、あかり自身の物語が始まっていくのだと考える。

これは単純に、
「推しという外的なものに生きる意味を見出していた人間の末路」
といった筋書きに留まるものではないように感じる。

一度は生きがいを失い、文字の通り絶望のふちにあった人間が、そこからどう物語を続けるのかは、読んだ人間次第で、いかようにも変わるのかもしれない。

この本を読んでそう思った。

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