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「好き」について考える。

自分のTwitterのつぶやきを検索してみたら、「好き」という言葉を発しているものがものすごく多くておどろいた。

僕ほど普段から「好き好き」言ってる人も珍しいんじゃないだろうか。

Twitterだけじゃなくて、LINEでも、実際に口にするのでも、僕は四六時中「好き」という言葉を使っている気がする。

というわけで「好きな人に好き好き言う人」のあだ名を持つ文月煉が、自分のつぶやきを掘り起こして僕自身が「好き」ということについてどう考えているのかまとめてみた。

手前味噌で申し訳ないけど、ふだん「好き」という言葉を何気なく使ったり、その言葉に縛られたりしている人には、面白い考察が結構あるんじゃないかと思う。

「好き」の概念について

「好き」っていう気持ち、恋愛以外にもいっぱいいっぱいあると思うんだよな。そのひとつひとつをていねいに整えて生きていくのがしあわせだと思うんだ。
「あなたが好きです」という言葉に、あいてのしあわせを願っている、ということ以上の意味をもたせる必要なんかない。
「好き」だからといって、何かゴールをもってそれをめざすべきとは限らなくて、ただ、「好きを好きのままもっておく」みたいなことも、大切だし素敵だと僕は思ってる。
「あなたが好きです」と言うとき、「恋愛的な意味ではなくて」とか「 loveではなくて、likeの方だから」なんて、言いたくないなあ。どんな意味でもあなたが好きだし、likeでもloveでもあるよ。loveにあってlikeにないものは、独り占めしたい気持ちなんかじゃないでしょう?
loveとlikeはグラデーションで、明確な線引きなんてないし、そもそもloveはlikeの上位互換なんかじゃない。
「好きです」とか「付き合ってください」という言葉に、「ほかの人のことは好きにならないと誓います」とか、「あなたのことだけを何よりも優先して行動します」とか、「あなたにわたしとセックスする権利を独占させます」とか、これら全部の意味を「自動的に」セットなものだと思い込んでしまうような雑な人間関係は、僕はつくりたくない、と思う。それぞれの感情をひとつひとつ確認し合うことは「めんどくさい」と思う人もいるかもしれないけど、僕はそうしていきたい。
「恋人関係になることを目的としていない、とても好きな人」が、僕にはいる。片想いともちがう。目的への途上なわけじゃなくて、僕が好きであることを知った上で受け入れてくれているという、今の状態がすでにゴール。満たされている。
「つきあっている人」「愛する人」「好きな人」。どれも同じようでいてニュアンスが違う。「何人?」と聞かれてもなかなか難しい。

僕がふとしっくりきた表現は「いとしい人」。「つきあう」みたいに定めることもなく、能動的な意志による「愛する」とも違う。「好き」よりは少し特別な。
「いとしい」

こういう人が好き

批判されるかもしれないけど書いちゃうけど、「僕のまわりにはメンヘラ気味の人が多い」というよりは、「メンヘラなんて自分とは関係ない。自分は全く違う」という人とは仲良くなれない、ってことなんだと思うんだよな。この世の中で傷ついたり悩んだりしながら生きてる人が好き。
付和雷同せずに自分の頭で考えている人が好きだなーと、あらためて思う。そういう人は、悩みやすくてときどき苦しそうだけど、そういう人が好きだ。
僕は繊細で、人のいろんな感情に敏感な人が好きなんだと思う。そして、そういう人はみんな、生きづらそうなんだよね……「生きづらそうな人が好き」なのとは違うのだけど、結果的にそう見える。
無器用に、いっしょうけんめい生きてる君が好き。
僕はかわいいものやひとが好きだ。「可愛い」ってすごい言葉だな。愛することができるもの。
美しくても整っていても、かわいいと思えないものは、僕は苦手なようだ。
最近、外見的な好みと性格というか人間的な好みが一致するようになってきた。見た目が好きな人は人間的にも好き、人間的に好きになった人は見た目も好み。ほとんど外れない。


「好き」がたくさんあるしあわせ

「好きであること」にめんどくさい重荷がセットにならなければ、人は他人を気軽に好きになれるのではないか。それっていいことなんじゃないかな。人を好きになることも好かれることも、しあわせだ。
誰かのことが好きで、それを伝えることが、それ以上のめんどくさい見返りや、責任や、約束を伴わない、シンプルなものであればいいな。愛しい気持ちがあって、差し出して、受け取る。ただそれだけ。
僕は「好き」をたくさんふりまいてはいるけど、決して安売りしている気はしないな。ひとつひとつ、手触りのある「好き」だ。
僕が人に優しくするのは好かれたいからなんだけど、好かれたいってそんなに悪いことじゃないと思うんだ。嫌いな人が増えるより、好きな人が増える方がしあわせでしょ?僕のことを好きになった人は、好きな人が増えるじゃん。
「好き」と伝えて、「私も」と言われたり「はいはいありがと」とか、「知ってるよ」とか、「うれしいよ」とか、そういうのが返ってくる、「好意を拒まれない体験」って、本当に本当にうれしいものだな。
人を嫌いになることがなかなかなくて、人を好きになることは多すぎるので、本当にどんどん好きな人が増えていってる。ふと周りを見渡せば、好きな人があちこちにいて、それ以外の人は目につかないから、世の中がどんどん生きやすくなっていく。
僕が解き放たれていちばんしあわせだと感じる縛りは「恋人がいたら他の人に好きだって言っちゃいけない」みたいなやつ。好きだなぁ愛しいなぁと思ったら「好きだよ愛しいよ」と言えるしあわせ。僕がこんなだって知っている人たちは、そう言うと「ありがとううれしいよ」って返してくれる。

好きな人との関係

僕の複数恋愛の考え方の中で、「合意」を強調することにはやっぱり違和感がある。初めに前提としての自己紹介と相互理解は必要だとは思うんだけど、関係性の維持の中で逐一報告と合意が必要、ってことになったらそれは「監視」に他ならない。それが不要になる「信頼」こそを築きたい。
僕は、僕と、関係している人たちのこれまでの努力と、文字通りの「愛」のおかげで、そういう信頼にたどり着いていると思う。それが本当にうれしいし、もうカテゴライズのための言葉を必要としていないのかもしれないな、とも思う。僕を表すなら「好きな人に好きって言う人」とかそれくらい単純でいい。
「信頼」ってのはさ、自分が信じている人が決して失敗しないだろう、と思うことじゃなくて、失敗したり、愚かなことをしたりしても、それも含めて受け入れたいということなんだと思うんだよね。そういう意味で、監視しようとは思わないし、「許可」や「合意」なんていらない。
恋人や好きな人たちは「信頼したい」と思える人たち。外ではなかなか他人を信頼できない。信頼ベースで仕事ができれば楽なのに。
好きな人とは、ギブアンドテイクなんかじゃなくて、利用し合う関係がいいと思うんだよね。好きな人に利用されるのもよろこびだから、その時点でお互いにメリットが成立している。giveが、その時点で喜びだからtakeになっちゃっているとも言える。

「好き」の効用

「あなたといるときの自分が好き」なんて言い方をしたら、なんだかナルシストのようで言いにくい人も多いと思う。でも本当はそういう視点がいちばん大事なんだろうなと思う。「自分のことが大好き」なんてちょっと言えないけど、「こういうときの自分は、好きかも」みたいな感覚を積み重ねて生きたい。
「好き」って言うたび、言われるたびに、MPがぐーんと回復する。
好きな人たちからのメッセージを食べて生きる。
心から好きな人たちが「あなたがいてくれてよかった」「あなたに会えてよかった」と言ってくれるものだから、僕も「僕が生きててよかった」と思ってしまったよ。

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