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日本人は人権を知らない

アメリカの人種差別に反対するデモがすごいことになっている。
こうした状況に言及して「日本では差別というのは身近ではないかもしれないが……」というような発言をいくつか目にして、僕がふと思い出したのは「人権標語」のことだった。

日本全国のさまざまな自治体で「人権標語」を公募して、受賞作を看板にして街頭に立てたりしている。特に田舎で多いような気がする。名目は「人々の人権意識を啓発しよう」。
ところがこの「人権標語」の受賞作を眺めてみると、日本の社会に「差別から必死で目を背けようとする」意識があることが透けて見えてしまう。

「守ろうよ みんなの笑顔 やさしさで」
「いじめはね 相手の心 傷つくよ」
「あいさつで みんな笑顔の まちづくり」
「大切に 色とりどりの 個性たち」

これは今僕が即興で適当につくりあげたやつだけど、受賞作は本当にみんなこんな感じ。共通点は「具体的なことは何も言わない」。腫れ物に触るように、核心を避けて、誰にも響かないようにした言葉選び……。
信じられないことに「人権」の言葉を掲げながら、「女性」も「外国人」も「虐待」も「障害者」も「よそ者」も、何一つ出てこないのだ!
本当に人権啓発を目的とするなら、選ぶべき標語はもっとあるだろう。僕が思いつくのをあげてみると……

「お父さん、外人嫌いは差別だよ」
「老人会 お茶を入れるの女だけ」
「まだ言うの?『都会のやつは信じない』」
「定年後 どうして妻だけ家事するの?」
「女子力は 女子とは関係ないチカラ」
「『男なら男らしくしろ』いらん世話」
「もうやめて こどもは親の ペットじゃない」

こういう標語は絶対に入選しないし、看板になって町に置かれることはない。
なぜだろうか?
クレームがあるからだ。こんな看板を置くな、不愉快だ、怒る人がいる。
なぜ怒るのだろう?
それは、図星を指されているから。つまり、普段から差別をしている人が「あなたの行動は差別ですよ」と指摘されると不機嫌になり、怒り狂う。

つまり、人権標語ではトラブルを避けて、クレームが入らないようなものを選んでいる。人権を啓発する標語が、啓発すべき人間に刺さってしまうとクレームになるから、誰にも刺さらないように配慮する。差別者に配慮して選ぶ人権標語。これが日本の現実。

人権標語に関わる公務員だけを責めているわけじゃない。そういう空気が日本の社会にあることそのものが問題だ。
差別反対や人権啓発は、そもそも原理的に「多数派に立ち向かう」という構造だ。それが「空気を読んで多くのみなさまに迷惑をかけず、波風を立てずに生きる」ことを是とする日本のムラ社会とはとても相性が悪いのだろう。

さいわいなことに、情報化社会が進むにつれて日本のムラ社会は徐々に崩壊し始めている。田舎の閉鎖的な環境にいても、世界のジェンダー事情や人権について学ぶことができる。
でも、日本のメディアのあり方や公的なシステムづくりは、まだまだまったく足りていない。

まずは現状を、認識することから。これが第一歩。

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