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変わる市川と 変わらぬ山田と 【僕ヤバ Karte.61】



 熱い展開でしたね、Karte.61。
 予告の時点で記念碑的な回になると思っていましたが、ここまでクライマックス感あるとは思いませんでした。
 原が、関根が、ついでに言ったら神崎が、市川と山田の正念場のため立ち上がって、力を貸す。
 バトル物少年マンガの決戦前のようでした。
 大人から見れば小さくも捉えられる出来事ですが、彼らにとっては天王山。以下、そのつもりで振り返ります。

☆ 変わる市川

 前回から自責の念に駆られ気落ちしている山田は、今回、更に「秋田けんたろう」を失くしてしまいました。
 二人の関係をささやかに象徴する、お揃いの秋田犬ストラップ。
 対市川で失点を重ねる(と本人は思っている)山田にとっては、絶対に失くしたくないものでしょう。
 この行方を探し、山田の心に安寧を取り戻すのが、今回の闘いのテーマになります。

 闘いに向かう市川は、かつての姿からすっかり変わっていました。

 当初は方策に悩んでいた彼ですが、当事者でない原(と神崎)が先んじておこなっていた当て無き努力を目の当たりにし、腹を決めます。


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(以降の画像は全て秋田書店・桜井のりお「僕の心のヤバイやつ」Karte.61から引用)


 その表情や言葉は、これまでの彼に無いものでした。
 原との関係育成中の神崎が対抗意識を抱くレベルの堂々ぶりです。
 山田を助ける姿勢は彼にとっていつものことですが、対外的にそれを剥き出しにしたのは、これが初めてじゃないでしょうか。

 以前、市川について「山田との関係を隠す気持ちが無くなったようだ」と書きました。「自分と一緒にいることで山田の価値が下がる」というネガティブ思考を捨てたのかと推測しました。

 今回、原を前に「ありがとう」「俺が探す」と言い切った事実は、その推測を裏書きするものでしょう。
「ありがとう」は、当事者意識が言わせる言葉。
 自分が一番ストラップを探すべき人間で、一番山田を救える人間だと、胸を張っているのです。

 とはいえ、市川にも探す当てはありません。雪で視界を遮られ、片腕も使えず、できることも限らています。見つかる可能性はかなり低いはずです。
 しかし、それでも彼は、道端の雪をかき崩すのをやめません。

 かつて、必然性の無いことはしないのがポリシーと自認した男(Karte.12)が、“意味がない こんなこと” を闇雲に続けます。


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 世の中に絶対は無いと言っていた男(Karte.28)が、絶対はあるのだと声を張ります。


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 矛盾や不合理を飲み込んで、前に進むしかない時がある。
 そういう気持ちが自分を、そして大切な人を救う時がある。
 青すぎて理屈がちだった市川に、別の色が宿っていました。

 市川は確かに変わったのです。

☆ 変わらぬ山田

 かねてから山田には、学園カースト頂点なのに対市川には自信無さげだと思える時がありました。これについては、市川のクール(に見える)な対応に自信を失くした部分があるからだと感じ、そう書いたことがあります。
 また直近では、Karte.60で介助の失敗に落ち込むさまを見て、彼女に内面化された理想の市川の目を気にし過ぎではないかと思いました

 その印象は、今回も変わりません。

 ストラップが無いと口にしてしまい、市川に「家出るときはあったのか?」と心配された時の、彼女の表情は雄弁でした。彼は他意無く言ったのに、これ以上失望されたくないと怯えているように見えました。


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 街路樹に吊られたストラップを市川が発見したあとも、あまり状況は変わりません。

 泣きながらありがとうを繰り返す山田に対し、「山田と会えなかったら見上げなかった」と返す市川。
 確かに、下を向きながら道路を探していたところで彼女にぶつかり、それで見上げて目についたのは事実です。
 だから市川の言葉は、狭義に文字どおりの意味に受け取れます。
 そして同時に、Karte.57で山田が送った「だって市川が自分で学校来てなかったら 私や他の子とこうして喋ることもなかったでしょう?」と対置される、彼女へのエールにも聞こえます。
 もっと大きく言えば、受験失敗以来ずっと俯いたままだった日々を山田が変えてくれたから、という意味にも捉えられるでしょう。

 後者二つを “意図して” 言ったとは思いませんが、人には、受けた贈与を返したい心理が刷り込まれています。それらの思いが無意識に言葉に乗ったとなっても、おかしいとは思いません。また、これまでの経緯から、彼女がそういう受け止めをしたっていいと思います。

 しかし、山田は最初の意味にしか取らないようでした。後者二つの意味を取れるなら、山田は躊躇なく親愛のハグが出来たでしょうが、それを "ぐぐ" と抑えるんです。「自分にそうする資格があるのか」と、葛藤しているように見えました。


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 山田の喜びが市川にとっての一番の報いであろうことも、これまで山田が市川の心をどれだけ救ってきたかということも、彼女には見えていないのかもしれません。前回と同じ様相です。
 一方の市川は、前回思っていて言えなかった「気にするな」を(当初の形ではありませんでしたが)今回、言うことができています。

 とすれば、今や、より重い鎧を着けているのは山田の方です。失点を防ぐための重装は彼女の枷になっていて、鉄面は著しく視界を遮り、目の前の市川を見えなくさせています。

 これも「恋は盲目」と言うんでしょうか。
 いや、その言葉はもっと情熱的かつ危うくも美しいもので、こんな呪いのような状況を示すものではないはずです。

☆ そしてKarte.62へ

 ハグをためらった山田は、直後に市川を自宅に誘います。冷えた体を温めていって、という話です。

 自宅への招待自体に、そこまでの驚きはありません。
 Karte.42では、家にゲームをしに来ないかと誘おうとしました。間宮や南条の登場で、最後まで言うこと叶いませんでしたが、そう言おうとしたことは明らかです。
 またKarte.56では、今度は私のアルバム見せるねと、文脈的に自宅への招待を示唆する言葉を投げかけてもいます。

 今回気になったのは、山田の握りしめた拳。


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 先に挙げた二つのエピソードには無かった描写です。
 Karte.54の初詣回に、少し似ています。
 市川のダブルブッキングにより、期せずして市川一家と遭遇しそうになった際に、大きく息を吐き、拳を握り締めたあの瞬間です。
 直後、彼女は一家の前に自ら躍り出て、芸能活動で培ったのであろう(中二としては)完璧な社交を見せました。
 あの拳は、大きく一歩を踏み出す決意の証だったのでしょう。

 だから次回の山田は、躊躇の姿勢から一転、大きな一歩を踏み出そうとするのではないか。
 そういう予感があります。

 山田の考える大きな一歩が何かは分かりません。それに市川がどう反応するかも分かりません。
 ただ、ありていに言えば、弱っている相手に急接近となる状況に、フェアな印象はありません。Karte.15で市川が匿名の他者として用意したポケットティッシュ、それを代表とする市川の行動原理、その全ての真逆に位置するアプローチです。

 山田は今、市川に嫌われたくないという思いに支配されている気がします。ストラップを自力で見つけられなかった “借り” もできました。今の彼女には、市川が望むことなら何でもしてしまいそうな危うさがあります。

 そんな状況で二人の関係が進んだとしても、幸せな展開であるとは思えません。少なくとも、この作品がこれまで積み上げてきたものとは、相反する展開でしょう。

 あるいは、そういう禁を破ったところにブレイクスルーがあるという話かもしれませんが、一方で、作者に何らかの手立てがあるとも思えます。果たしてどうなるんでしょうか。
 見守っていくしかありません。(終)




 最後に、少し踏み込んだ物言いを。
 Karte.60の際に触れたことの繰り返しになるんですが、やはりKarte.43が引っかかります。

 あの時の市川の突き放しがハグで有耶無耶になったから、山田の市川理解が止まっている。
 作者の意図は分かりませんが、今の今僕が読むと、そういう受け止めになってしまいます。

 何が市川の地雷か分からない。
 また避けられたらどうしよう。
 そんな思いが澱のように残っていても、彼を理解し自分を信じることができるのか。平時はともかく有事になると、そう考えてしまうわけです。心の機微で読ませるマンガゆえ、ごくごく個人的にはモヤモヤします。

 山田が市川に嫌われるのを恐れているのなら、彼にははっきり言ってほしい。「あの時好きになるのが怖くて嫌いになろうとしたのに無理だったんだ。絶対に嫌いになれないんだと思う」と吐露してほしい。
 そう、勝手に思っています。
 その後の長期展開が難しそうなのが難点ですが。


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