僕ヤバとキムチ事件と Karte.59
キムチ事件
ニセコイをご存知でしょうか。
週刊少年ジャンプで連載された10年代の人気ラブコメで、アニメ化、実写映画化もされました。
一条楽と小野寺小咲の両片思い勢に、家庭の事情で楽のニセ恋人になった桐崎千棘らが加わり、どったんばったん大騒ぎだったマンガです。
物語のまだ序盤、楽と小咲が夜の海岸でいい感じになったとき “それ” は起こりました。
画像左から千棘、楽、小咲。
(画像は集英社・古味直志「ニセコイ」第5巻より)
「キスしてもいい…?」
普段は思いをひた隠す小咲から、とうとう零れてしまった情熱。
それを背後で聞いてしまう千棘。
緊張感がみなぎります。
そして次の瞬間、
楽が居眠り中で話を聞いていなかったことが、発覚します。
そりゃあ小咲の目も死にます。
(画像は集英社・古味直志「ニセコイ」第6巻より)
それまで ”眠い伏線” ゼロだったので、よもやよもやの展開です。
とはいえ、千棘が爆弾発言を聞いてしまった事実は覆せません。相性最悪のニセ恋人からスタートした彼女も、今や楽を憎からず思っています。
繊細なトライアングルが崩れてしまう一大事!
しかし千棘が認識したのは「キムチでもいい?」
千棘、ナチュラルに読者を煽ってる気が。
(画像は集英社・古味直志「ニセコイ」第6巻より)
小咲の情熱は、三人の関係になんら波紋を起こすことなく、夜の海の泡と消えたのでした。
読者の高まりきった感情を道連れに。
これを週またぎ、もっと言えばコミックスまたぎでやったのだから大反響です。
「好きな子が隣なら寝ないだろ」
「いくらなんでもキムチはひどい」
ネット上で面白おかしく取り上げられました。
ついには同じジャンプの「斉木楠雄のΨ難」までもがパロディ化。インパクト大のインシデントとなりました。
これが世に言う「キムチ事件」です。
僕は最終巻まで完走購入したコミックス・リアタイ派で、当時読んだ瞬間、確かに度肝を抜かれました。
ただ、作品のリアリティラインからすると ”さほど” 違和感無い出来事だったとは思うんです。
ニセコイが持つ可愛げや愛嬌と言えなくもありません。そういうの含めて、楽しめるマンガだったということ。そうでなければ25巻まで継続しないでしょう。
しかしながらこの事件、ある種のラブコメが持つ宿業を浮き彫りにしています。
登場人物の認知エラーが話を進める前提にあるとき、彼ら彼女らの知能や能力が低く思えてしまうという問題です。
多少低い程度なら、そこがまた面白い(読者がツッコミを入れて楽しむ余地がある)ともなりますが、ラインを越えれば興醒めです。
僕ヤバのように(食欲旺盛な山田の体型の維持以外は)リアリティライン高め設定なら、なおのこと。
何故、市川は両片思いに気づかないのか。
何故、(原や関根以外の)クラスメイトも気づかないのか。
ネット上の議論を見るに、ここらへんの説得力がないといけません。
以下、僕ヤバがキムチの壁をどう乗り越えようとしているのか、チラ見していきたいと思います。
なお、僕は現時点で「山田が両片思いを認識している可能性がある」派なので、今回の対象から山田を除外しています。
(参考:過去の山田の認識への言及 ↓)
市川京太郎にはワケがある
市川は自己評価が低い。
まずは、この大前提があります。
カースト頂点の山田が自分に恋愛感情を抱くわけがないと思い込んでいて、山田の気持ちに気づかないわけです。コミックス3巻前半くらいまでは概ねこれで説明がつきます。
とはいえ二人の距離が縮まれば、それ一辺倒では苦しくなるもの。
Karte.42冒頭では、抑えきれない “気づき” に悶々とする市川が描かれます。最近の山田の行動の前提に自分への好意があるのでは、と 「雑念」を抱くのです。なんとか抑えきれたのは、それらの行動に別の理由を見つけたからでした(誤解であって後にそれに気づく)。
いやいやそうは言っても渋谷でイブとかどうなの、あれは抑えきれないでしょ。
そう読者が思うタイミング(Karte.49)で、イマジナリー京太郎(心の中のもう一人の自分、的ななにか)が投入されます。
イマジナリーは聞き手として市川に対峙し、山田との可能性を問い、ぶっちゃけた心情を引き出すんです。
イマジナリーってリアリティライン的にどうなの? と当時思いましたが、市川がかわいすぎなのでどうでもよくなりました。
(以降の画像は秋田書店・桜井のりお「僕の心のヤバイやつ」各エピソードより)
まずは「可能性を感じている」ことを認める市川。その上で「でも山田は女友達との距離が近いので、自分との絡みもその延長線上にあるのかもしれない」といった旨、続けます。
この新しい見方は、読者にとって悪くありません。
組み立てとして新しくはあるものの、山田との可能性があることも、山田が女友達との距離が近いことも、市川がネガティブであることも、全て馴染みのことだからです。
読者は作品との共犯関係を継続したいので、同じ認識を持てればこれを支持したくなります。そう考えてもしょうがないよね、と納得したくなるのです。
結果として市川は気づききれないわけですが、話の進展につれ、認識も妥当に進展している格好なので(僕の感覚では)彼が愚鈍であるようには見えません。
また、ちょっと違うアプローチで挑戦的に挙げればKarte.15。
序盤屈指の印象的シーンですね。山田が市川の優しさ(泣いていた自分のために手書きメッセージを入れたティッシュを大量に用意してくれた)に気づき “いい表情” を浮かべているのに、市川は気づかない。一歩手前で、お菓子を食べてニヤついてるいつもの山田だという浅い理解にとどまっている。
そういう、すれ違いつつも恋の予感がする素敵シーンなわけですが、自己評価云々とは違ったレイヤーにも市川が気づけない理由が存在します。
山田の呑気さに脱力した市川が、目をつむって、見ていないからです。
これについては異論もあるでしょうが、市川視点の物語であってもカメラがそれと一致しているわけではないので、成立する表現です。ていうか、見てれば山田がメッセージ眺めてるの分かるから、なんらかリアクションあるんじゃないかと(おかしいのか? 自然だよな? 的な)。
「見ていない」シーンは他にもあります。Karte.38のラストシーン。
山田がテレパスだったら斬首刑。
市川の濡れた髪を拭いていたはずの山田の手は、今や彼の頬を愛撫しています。
6ページ前の偶然の道すがらでも、市川の濡れた頬に触れているんですよね。濡れ鼠の痛々しさに絡め取られ、思わず愛情がはみ出たのでしょう。しかしこの時は彼に驚かれて一瞬で終わりました。
対する今度は、自分のために急ぎカッパも着ず、更なる雨に打たれながら駅まで来てくれた。
そう思えば手を止められません。顔つきも変わります。ここで目が合って市川が何も感じなければ嘘でしょう。
でも、市川は見ていません。気づけません。目の近くを拭かれるとき反射的に目を閉じるのも、そんなときに意味のあることを考えないのも、人間ですから。
まあ何が本来のモチーフかとかはありますが、こういう地味な描写の積み重ねも市川の愚鈍化を防いでいます。
クラスメイトにもワケがある
クラスメイトにもバイアスがあると想像できます。市川と山田が付き合うわけがないという思い込みです。何か疑義があっても、カースト格差が事実を見えなくさせている、と一次的には解釈できます。
というか、二人の関係を育んだのは図書室、保健室、備品倉庫とクラスメイトの死角ばかり。そもそも決定的な部分は視覚的に見えていないんです。
持久走でイチャコラしたKarte.32なんていうのもありましたが、順位を争う競技中に接近があること自体はおかしくありません。
遠目に見れば追いつ追われつの白熱戦、山田選手のホールディングも闘志の証、と見えたかもしれません(これは無理かな)。
で、実は何気にこのエピソード、二人合意では初の手つなぎが実現しているんですが、うまいこと周囲は見てないんですよね。
見ない原のサポートも光る。
原の「みんな先に行っちゃったねー」がそれを示しています。そりゃあ授業終わったら教室戻りますしね。
このエピソードの続編であるKarte.33では、誤って山田が市川のジャージを着てしまいます。市川はいつバレるかとハラハラです。
しかしクラスメイトと対面しそうなときには、絶妙に名札が隠れています。
まあ見えてても食欲オーラの陰に隠れるかもしれませんが。
サスペンスだからというのもありますが、行き届いているわけです。
うん、見出しを立ててみたものの、二人がクラスメイトの前で何かということはやっぱり多くないんですよね。さっき書いたとおり死角で関係が育まれている。
だからたまに話しているところを見て、あの二人喋るんだ、いつの間に仲良くなったんだろうと囁く人がいるくらいかもしれませんね。クラスでは。局地的でちっちゃい話題? サンプルが少ないので未知数ですが、見えてる部分だけではそう思えます。
持久走をがっつり見てた人や、図書室に通っている人、原と山田グループの面々(ここら辺は気づいてもおおっぴらには言わないでしょう)あたりは、また違うんでしょうが。
そしてKarte.59
総じて前回更新分までは、キムチの壁を乗り越えていると(個人的には)考えられます。
Karte.58の市川モノローグにキムチ風味を感じたことだけは、念のため付記しておきますが。
「冬休みに少しだけ距離が縮まったような気がしてたのに」って言ってたアレ。全然「少しだけ」じゃないだろうっていう。
原でなくても「あぁ まだそういうスタンスか…」と言いたくなった人多いでしょう。
しかし、Karte.56でベッド上の拒否反応を味わっていることを踏まえれば、不自然ではないとも考えられます。かねてからの自己評価の低さを引きずって、まだまだ距離は遠いぞと思ったのかもしれません。まあ、市川はそろそろ気づいていい頃合いと思いますが……。
さて、そういった状況で迎えた最新作がKarte.59「僕はバラしてしまった」です。
このエピソードは調理実習回で、生徒が椅子と机に固定されていません。一緒の班になった山田と市川は、360度からの視線に晒されます。何かあって気づかれなければ、クラスメイトの認知能力が問われます。
しかしそこは桜井、歴戦の雄。
調理に夢中の(人材難ゆえ、そうならざるを得ない)足立と金生谷を前景にし、ガードを固めます。
真面目にやってる生徒は気づかないのです。
また、原を含めた3人セットで配置されているので、ぱっと見不穏なところがありません。ほわほわです。気づかなくてもしょうがない。
右の二人が意外とお似合いかも。
そもそも大前提として、市川は腕を怪我しています。
誰かが介助しておかしくないでしょう。
そして、こういうとき世話焼きの女子(男子でも同じ)がいることに違和感はありません。
だから三角巾に前髪をしまってあげるという冷やかされそうなアクションさえも、スルーされて不思議なし。事情はそれぞれ違えど、料理NGで “みそっかす” になっている2人がペアになることも自然です。
かつて、Karte.54でふたり合掌(市川の左手と山田の右手による初詣時の合掌。市川の怪我の功名)が披露されたとき「作者はこのシーンを描きたいから市川の腕を折ったんだな」という声がありました。
いや面白いけどそれじゃ桜井がサイコパスだろっ! と心でツッコんだ記憶があります。
ただ、今となっては、三学期にキムチの壁を越えるためだったのかもと思います。濃厚な冬休みを経てからの学校では、明らかに二人が醸す空気が “浮く” でしょうからね。
腕一本で安上がりにカモフラージュ出来ました(ってやっぱサイコパス感)。
とはいえ、市川が山田の腕を掴んで足立作のホットケーキを奪い、そのまま食べてしまったシーンは不穏すぎます。そこに足立が異議申し立てしなかったのにも違和感がありました。
おまえのことじゃないんです。
また、教室から普通に一緒に下校する二人の姿も、介助以上の事情を感じさせました。
この二つで一気に周囲の認知が進んだ気がするんです。
この状況でもなお気づかれていない “てい” で話が進むのであれば、クラスメイトに関してはキムチの壁を乗り越えられない予感がします。集団認知能力欠如事件です。
あるいは、みんな気づいているけどそれを口に出せていないというパターンなら収まりがいいですかね。「あの二人がそんなわけない」と気後れし、周囲の様子を伺ってしまう状況。
で、あるとき誰かがポロリと口に出したら「やっぱりそう?」「だと思ってた」的に決壊する感じ。うん、なんだかありそうな気がします。
ただ、そうであっても、足立だけはガチな気がするんですよね。現状、ホントにそんなことに気づいてなさそうな無邪気さ。
となると、取り残された彼だけキムチまみれという悲惨な状況になりますが……。
まあいいかな、料理好きそうだし(関係ありません)。
ていうか、今回、二人ともあまり関係を隠すそぶりがありませんでしたね。
もともと山田はあまり人目を気にしていなかったので、市川が変わったんでしょうか。自分と一緒にいることで山田の価値が下がるというネガティブな考え方を、やめたのかもしれません。
まだちょっと分かりませんが、そうだとすれば大きな変化です。