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棚橋弘至はもっともっと持って行っていい

 2021年1月18日、東京・後楽園ホール。
 メインイベントを勝利で飾り、四方に深く礼をした棚橋弘至は、大きく息を吐き、心を鎮めるようにしてから言いました。

「悔しいよね……悔しいです」

 勝者が言うセリフでないこと、この上ありません。
 しかし、場内にざわめきは起こりませんでした。誰もが、その意味するところを、分かっていたからでしょう。


 この日は、新日本プロレス後楽園大会三連戦の中日でした。緊急事態宣言下の月曜日です。終了時間20時の壁により、開始時間は繰り上げられ、試合数も減らされました。
 集客のハードルが高くなり過ぎたのは、否めません。

 結果としての入場者数は396人。

 平時の札止め1700人ほどですから、驚くほどの空席です。
 感染症対策体制の興行を半年経験し、少人数を見慣れた目からしても、ひどく寂しく見えました(前日日曜日は694人)。無観客興行を除けば、この団体この会場での最低動員数かもしれません。

 “エース” 棚橋の心中、察するに余りありました。ゼロ年代の団体暗黒時代から少しずつ埋めてきた客席を、またもこんな状況にされてしまったわけですから。

 ただ、こんな日にメインを締めるのが彼であったことには、宿命のようなものを感じます。
 今やメインを譲ることの方が多い彼が、この日はそこにいたということに、意味を見出したくなるのです。



☆ 暗黒時代の棚橋弘至

 棚橋弘至は新日本プロレス生え抜きのプロレスラー。“エース” を自認し、周囲もそれを是認する男。44歳。立命館大学卒業後、半年の練習生期間を経た1999年10月、23歳でデビューしました。デビュー3試合目で初勝利をあげたのは、非凡であることの証です。



 甘い顔立ちに、出来上がった体。試合も最初から悪くない。1年目から目を惹く選手でした。
 業界最大手の老舗団体の有望選手となれば前途も洋々に思えましたが、その業界最大手が揺らぎます。

 世紀が変わる頃にいっそう深刻になった、創業オーナーと現場のすれ違い。それにともない引き起こされた、選手や社員の大量離脱。
 これらによってリング上が混迷を極めると、観客動員数も激減し、老舗団体は大きく低迷していきます。世に言う「暗黒時代」です。

 団体は積極的な新戦力の登用に活路を見出し、有望な若手の番付を上げていきます。しかし一定ラインを越えたところで、一部のファンや選手から抵抗に遭います。
「まだまだそういう器じゃない」
 よくあるけれども厄介な話です。棚橋の場合は見た目と試合、二つの軽さもやり玉にあげられました。

 リング内では厳しい闘い、外からはブーイング。棚橋にとって苦しい状況が続きます。観客動員の落ち込みも止まらず「新日本プロレスは潰れる」と囁かれました。彼が29歳でIWGPヘビー級チャンピオンになっても、その状況は変わりませんでした。

 八方塞がりの状況でも、できることをやっていくしかありません。彼が目を向けたのがファンサービスや地方でのプロモーション活動です。
 特に後者は、のちに暗黒時代からの復興が語られる際に、最も重要視されるエピソードの一つになりました。当時の老舗団体でのそれは、選手の仕事と考えられておらず、棚橋が先駆者になったからです。

 彼が地方のテレビ、ラジオ、イベントに精力的に顔を出していたのは、当時のファンなら自然と知れたこと。ただ、オフをほとんど潰した上での無報酬であった事実については、(僕は)後の著書で知りました。
「声援を送ってくれるファンが会場にいないなら、外で自分のファンを作って会場に連れてくればいい」
 そういう思いもあったそうです。そう思わなければ、やっていられなかったということでしょう。
 孤軍奮闘の活動は地方の盛り上がりに一定の効果をもたらし、やがて先輩選手の理解と協力を得たといいます。棚橋が上の選手を動かした格好であり、彼が認められた証です。

 もちろん、それでリングがおろそかならば本末転倒の誹りを免れません。
 しかしコンディションを維持し、ブーイングを逆に利用しようと開き直った彼は、観客の感情を揺さぶるベストバウト級の試合を連発します。他選手とともに、新日本プロレスに行けば熱い試合が見られるという信用を積み重ねました。会場には徐々に新しいファンが増え、ブーイングも消えていくのでした。

 ゼロ年代が終わる頃には、団体の正エースが棚橋弘至であることへの、大きな異論は無くなっていました。

 当時の真壁刀義や中邑真輔にもそれぞれ讃えたいことがあるのですが、ここでは割愛します。

☆ 地方プロモーションで見た棚橋弘至

 そんな頃、棚橋の地方プロモーションを見に行ったことがあります。
 彼と後輩レスラーのトークイベントでした。
 冬のショッピングモール屋外特設ステージ。小雨降る、昼の催しです。

 イベントは、ゆるいご当地トークから始まり、プライベートや他団体絡みのリップサービスも披露される、ファン満足のものとなりました。翌日には一部トークのメディア掲載も見かけたものです。
 しかし僕の印象に一番残ったのは、そこの部分ではありません。

 トーク終了後、棚橋が客席にコールを要求したあとの話です。
 要求に呼応した客席がタナハシと連呼し始めると、彼はおもむろにシャツを脱ぎました。特別にライトアップせずとも分かる陰影見事な肉体が露わになった瞬間、その日一番の歓声が上がります。最後は、当地の名を叫んでからの定番フレーズ「愛してま〜す」。
 冬の小雨が身体にこたえる屋外に、半裸はなかなかのクレイジーに思え、強く印象に残りました。脱いだときの歓声にも「よくぞこんな状況で脱いだ」と蛮勇を讃えるような空気があったので、その旨メモに残しています。

 棚橋が脱がなくとも、誰が何を言うものでもないでしょう。まだ30代前半の彼でしたが、老舗団体エースの ”格” がありました。服を着ていることに何の違和感もありません。あの寒空の下であるならば尚更です。
 きっと、体を張って客を呼ぶのが自分の責務だと、愚直に思ったゆえの行動なのでしょう。

 そんなことが責務か、という異論も分かります。レスラーの本領はリングだと言われれば、それはまさに正論です。
 壇上の後輩レスラーに関して言えば、最後まで防寒着を着込んだままで、棚橋に追随することはありませんでした。
 それでも、たとえ一人であったとしても、体を張ることが明日につながるのだと、あの時のエースは信じたのでしょう。

 時はまだ、アリーナクラスのメインカード “IWGPヘビー級選手権” を、後楽園ホールで切ることもあった時代。会場の熱は回復傾向にあったものの、暗黒時代を脱したとは言い切れない、微妙な時期でした。
 いつか棚橋の心意気が報われてほしい。
 でもそれは難しいかも分からない。
 そう思いながら帰路につきました。
 あの暗黒時代が過去となった今、壇上にいた二人の立ち位置を比較すれば、報われたのだと分かるのですが。

☆ それからの棚橋弘至

 とはいえ、今の棚橋が栄光の只中にあるかと言えば、そうではありません。
 早熟と長身に恵まれ、試合のスケールも大きいオカダ・カズチカ。
 棚橋同様にブーイングを乗り越え、独自のポジションを築き上げた内藤哲也。
 10年代に頭角を表した彼ら後輩たちと真っ向勝負で何度もぶつかり、やがてじりじりと力負けし、今はトップ戦線から退いています。

 去年の大半は、デンジャラス・テッカーズとの抗争に費やしました。
 彼ら二人の悪漢を団体トップのタッグ屋と印象付けたのは、間違いなく棚橋です。
 彼らの膝攻めで戦闘不能にされる棚橋(彼は長年の蓄積で膝が壊れている)の姿が、連日、世界中のファンに配信されたからです。

 試合後のバックステージでは、次はもっと頑張るからとタッグパートナーの飯伏幸太(棚橋を「神」と呼び敬愛していたエキセントリックな後輩。天才)にすがり、叱咤される一幕もありました。痛々しさだけが残ります。別の日には、泣きながら「お前が神になれ」と政権禅譲するシーンまでありました。



 僕の娘は熱狂的な棚橋ファンですが、その頃は「もう棚橋の試合は見たくない。休んでほしい」と言っていました。そりゃあそうだと思いました。

 棚橋ほどの選手なら、もう少しあっさり道を譲ることもできると思うんです。でも本人がそれをよしとしていないように見えます。後輩が力をつけて自分を越えていくさまを、敢えて隠さず、長い時間をかけてファンに知らしめているように見えるんです。

 29歳のとき語ったことを実行しているのでしょう。新日本プロレスの「捨て石でもいい」「次の世代のための礎になる覚悟はあります」という言葉。IWGPを初戴冠したばかりなのに達観し過ぎだった、あのインタビューです。



 言葉を補えば、後輩の踏み台になることを厭わないという趣旨です。自分の道程を振り返り、期するものがあって、敢えてこういう話をしたのでしょう。

 読んだ当時、きわどい話に戸惑いながらも、大いにそうであってほしいと思いました。
 新日本プロレスに限ったことでなく、何も返さず団体を去っていく選手や、若い力の足を ”不当に” 引っ張る選手に、辟易としていたからです。後に残され、迷惑を被る選手たちの辛さのほうに共感していました。年を経た今も、概ね同じ気持ちです。

 しかし、それでも去年の棚橋については、返し過ぎだろうと思っています。好き嫌いの話もありますが、団体としてこれでいいのかと(余計なことでしょうが)心配になりました。

 滅私奉公で団体に身を費やしたエースの晩年がこれで、誰がそのポジションに憧れるのか。果たしてこれがロールモデルになり得るのか。もう少しエースの余禄のようなものがあっていいのじゃないか。 
 願わくば棚橋と団体には、未来のエースのために、エースに相応しい幕の引き方を示してほしい。
 そういう思いを抱いていました。

☆ 持っている男

 なんてことを言うと、あるいは棚橋に失礼なんでしょうか。まだまだ幕を引くつもりはない、ここからの逆転を見ろ、そう思っているのかもしれません。

 1月18日の話に戻れば、「今日、この後楽園ホールを俺は絶対に覚えておきます! 絶対に! みんなも『あのとき、後楽園ホールにいたんだぜ!』って誇れる日にします」と宣言しました。形は違えど二度目の暗黒時代とも言える今の時代に、打ち克つ気持ちに満ちています。

 思えば19年前のこの日は、当時のエースレスラーが退団表明をした日。その他有力選手、幹部社員ら多くの人間が追随し他団体に移籍したので、“ゼロ年代暗黒時代の開戦記念日” とも言える日です。
 その記念日に、現エースは、リングの真ん中で、団体とともに闘うことを宣言しました。20年代暗黒時代に対して、ファイティングポーズを取りました。
 やはり ”持っている" と言わざるを得ません。棚橋はエースをエースたらしめる物語を持っています。
 ならばその ”持っているもの” を存分に使ってみせてほしい。

 まずはNEVER無差別級選手権。1月30日には、愛知で新日本プロレス第三のベルトに挑戦します。
 チャンピオンは鷹木信悟。
 今をときめく昇り龍です。気迫、体力、一発の威力、マイクの切れ味、今の棚橋ではどれも勝てそうにありません(特にマイクはよく噛む)。

 でも、エースの闘いを見せてほしい。団体を背負って立つ団体の象徴を自認するなら、勝っても負けても、いま団体があるべき姿を体現してほしい。もう十分返しているのだから、返すことばかり考えないでほしい。
 棚橋弘至はもっともっと持って行っていい。そう思っています。


(個人的にはヒールに転向する棚橋も見てみたいのですが……)