ネガティブな感想を言うのはやめにしたこと。

どこかで一度書いておきたいな、と思ったので、唐突ですが、書いてみる。


僕はライターという仕事柄、比較的よく劇場に通っているし、最近はありがたいことにテレビドラマに関するお仕事もいただくようになったので、ドラマも出来る限りチェックするようにしているんだけれど、感想をアウトプットするとき、ネガティブなことは言わない、ということを心がけている。

昔はごく普通に、「ここが自分にはつまらなかった/物足りなかった」ということをバサバサと書いていたんだけど、ある頃から徐々にそういう発信をすることに抵抗を感じはじめて、特に、ここ数ヶ月はぴたりとやめてしまった。

その理由の大部分は、自分のツイートの及ぶ範囲が、自分がコントロールしきれない程度に広がってしまったから、ということにある。

こう書くと、「何だよ日和ってるのかよ」と思われちゃうかもしれないけれど、別にそういうことでもない。単純に、誰かが見て不快に思うようなことを、不特定多数に向けて発信する必要性を感じないからだ。

そりゃあ僕も人間なんで、作品を見てつまらないと思うこともあるし、それこそテレビに映るだけでチャンネルを変えたくなるほど苦手なタレントさんもいる。でも、それをわざわざ公衆の面前で拡声器を手にブツクサ言うことに、あまり意義を感じないのだ。

一度、自分をフォローしてくれている人はどういう人なんだろう、とフォロワーさんの一覧を眺めてみたことがあった。そしたら、何となくの属性はあるんだけれど、その中にも「おお、この人は俳優の××さんのことが好きなのか」「ああ、この人は○○という作品が好きなんだ」と、いろんな嗜好が見えて、想像以上に多様な人たちが自分のツイートを読んでくれているんだ、と意外に思った。

そして、そんなふうに、一人ひとりを眺めていたら、ざっくり1.2万人のフォロワーさんではなく、それぞれの場所で、それぞれに好きなことがあって、それぞれにしんどいことがありながら、それぞれに日々を生きる、一人ひとりの人生みたいなものが約1.2万通りあるんだ、ということが実感として沸いてきて、どう言えばいいんだろう、できる限り、その1.2万通りの人生や想いを、僕は尊重したい、と思ったのだ。

当たり前だけど、僕がつまらないと感じた作品や、僕が苦手にしている人のことを、好きな方もたくさんいると思う。大切に、大切に、慈しんでいるのだと思う。僕もエンターテイメントが大好きなので、その気持ちはよくわかる。自分の「好き」を汚されたり踏み荒らされることは、とても苦しい。

もし僕が何かを見てつまらないと感じたとして、そのツイートを見た誰かがそんな気持ちになるのだとしたら、僕は嫌だ。だから、ネガティブな感想は口にしない。そう決めたのだ。

こう書くと、何だか窮屈に聞こえるかもしれないけれど、そんなことはない。言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンなんて、ちっとも思わない。

なぜなら、誰かを嫌な気持ちにさせてまで、そもそも僕はつまらないと感じたことを主張したいわけじゃないからだ。僕にとっての「つまらない」はそれくらい、さして価値のないことなのだ。それだったら、みんながほのぼのと自分の見聞きする世界を楽しめる。そっちの方が、よっぽど大切だし、守りたい。


(ここまでは、プライベートも含めたツイートの話。ここからは、仕事として書く記事についても対象を広げて話をしていきます)


そもそも僕は批評、というものを別に好んでいないし、僕にとっては必要性がそんなにない。もちろん、批評こそが芸術を育てる母であるという意見もごもっともだし、別に否定する気もない。それはそれで、僕のあずかり知らないところで、どんどん発展していってくれればいい。単純に、僕はその輪に入る気はない、という声明だ。

僕自身、よく舞台やドラマを見てレビューやコラムを書くことはあるのだけど、正直、僕はそれらを批評だとは思っていない。いち観客(視聴者)の感想という立ち位置でいたいし、多少高尚な言い回しをするとしても考察程度。もっと言うなら、スタンスとしては、つくり手に向けてラブレターを書いている感覚がいちばん近い(便宜上、「作品評」とカテゴライズされることがあるのだけど、それは僕のコントロールできる範囲外の話なので脇に置いておく)。


要は、僕は「愛」が好きなのだ。こう文面にするとアホみたいだけど、世界がもっと優しい愛でいっぱいになればいい、と本気で思っている。だからせめて自分の書く文章くらいは、愛をこめたい。

それは何も褒め殺しにするわけじゃない。つまらなかったものを無理矢理信念を曲げて面白かったと書いたことはない。どんな作品にも目を凝らせば、豊かなところや、愛しいところ、鋭いところや、切実なところは確かにあって。それをなるたけ見落とさずに発見し、こぼれ落とさないように拾い上げ、読む人に届く言葉で称えたい。それだけだ。そして、それを読んだ人が、せめてその日1日くらいは、愛に溢れた暮らしができたら、なんて上出来な仕事だろうか。そう思って原稿を書いている。

逆に言うと、自分がどうしても書きたくない人のことや、面白いと思えない作品についてのお仕事はお断りさせていただいている。嘘はつきたくないし、自分を曲げたくはないから。もちろん、思ってもいない言葉を並べて、それなりの文章をあつらえることくらいはできるけれど、そうしてしまうことは、本気で心をこめて書いた他の自分の原稿に対して失礼だし、何より本気でいいと思って書かせていただいた作品や人について礼を欠く。だから、おこがましいなと思いつつ、書きたくないものに関しては書かない、とあるときから決めた。その分のエネルギーは、もっと僕が愛するものに向けて、ポジティブに、余すことなく注ぎたい。


もちろん僕はまったくもって聖人君子ではないので、クソつまらないなって作品は世の中にゴロゴロしているし、不幸にもそういう作品に自分の貴重な時間とお金を費やしてしまった結果、電柱を蹴飛ばしたくなった夜は数え切れないほどある。あるいは、この豊富なボギャブラリーを総動員して悪し様に罵りたい人もいる(性格悪いな)。

でもそれは、わざわざ不特定多数の人が見るネットでやらなくていい。ツイートなんかせずに黙ってスルーすればいいし、あとは気の合う友人を呼び出して、酒でも呑みながら、ああだこうだ言って、自分が何にムカついたのかも忘れるくらいべろんべろんに酔っ払って、またけろりと次の日から生きていけばいいんじゃないか。というのが、僕の考えだ。


事なかれ、なのかもしれない。やっぱり日和っているのかもしれない。骨太、とは程遠いだろう。そんな僕の浮かれたツイートや記事を見て、「深みがない」とか「主義がない」と笑う人もいるかもしれない。

まあ、でも、それはそれでいい。笑われるのには慣れている。人生なんて、道化くらいでちょうどいい。玉の上で笛でも吹きながらバカみたいに笑っている。むしろ、そっちの方が幸せそうだ。


どうしてもギスギスしてしまう世の中だから、せめて、愛がなくちゃ、ね。どうせつながれるなら、僕は誰かと愛でつながりたい。なーんて大甘なことを本気で祈りながら、今日も今日とて生きていくのだ。


追伸、今いちばんの気がかりは、朝からこんな長いnoteをダラダラ書いている時間があるなら、とっとと原稿送ってくれよと思っている人がいるんじゃないか、ということです。今すぐ! 今すぐやりますので!!(平身低頭)

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