「筆先三寸」日記再録 2004年10月
2004年10月1日(金)
昨晩のこと。
なおちゃんの誕生日にはまだ1ヶ月以上あるのだが、本人のたっての願いでプレゼントの前倒しを行うことになった。
もちろんブツは、「ポケットモンスター・アドバンス・エメラルド」(GBA)である。
当然ながら、ともちゃんは、いくら誕生日だといってもお兄ちゃんだけの特典を容認するはずもなく、私は仕方なく30日発売の「ナルティメット・ヒーロー2」(PS2)で手を打つことにした。なんで便乗組のほうが高いのか。
ともかく、そんな約束を子どもたちとしていたので、ヨドバシカメラでそれらを購入の上、少し早めに帰った。
帰宅して玄関を開けたとたん、パジャマ姿の子どもたちが、「おかえりー」と叫びながら飛び出してきた。
二人とも目がキラキラ輝いている。表情は笑みを含み、ワクワクドキドキで舞い上がってしまっている。
その瞬間が写真に撮れていたら一生大切にしたくなるような、ご飯だったらお茶碗に5杯はいけるような、それはそれはこちらの表情まで緩んでしまうような顔つきだった。子どもたちのそんな表情が見られてすごくうれしかったし、今もまぶたに残っている。
サイによると、子どもたちは夕方から楽しみにしていたらしい。それで、お父さんの帰宅から自分たちの就寝までの時間をフルに使えるよう、常にないほどの速攻で宿題や勉強を終えてしまい、お風呂さえ夕食がすむなり誘い合って二人で入ったという。いじらしいというのか、げんきんというのか。
で、お父さんはさっそく対戦でともちゃんをコテンパンにしてしまい(7連勝ぐらい)、バリへこみにしてしまいましたとさ。
2004年10月2日(土)
とくに、我の強いえらいさんばかりの会議で、しかも何かを決めたり進めたりしないといけないような会議だったりして、その会議室の片隅であくびをかみ殺しながら、愚にもつかないというのか意地の張り合いというのか、さっぱりかみ合わない議論のメモを取りつつ、妙なほうへ転がりだした結論の行く末を心配していると、ほぼ必ず、「船頭多くして船山に登る」という格言が頭に浮かんで、そこはかとなく暗い気分になったりするのだが、この格言だって、「プロフェッショナルが力を合わせると不可能も可能になる」とポジティブにとらえることもできるなあと思うと、暗かった気分が少し明るくなったりもするが、出てくる結論は予想通り最悪。
2004年10月3日(日)
今日はなおちゃんの運動会でした。
もう4年生なので、お遊戯関係については、YOSAKOIソーランを模したようなものを演じていました。曲も威勢がいいところへ、子どもたちはなかなか元気がよくて見ごたえがありました。横綱の土俵入りのようにガツンと腰を割って踊るところなんかは、もう立派な「少年」です。その姿をビデオに撮りながら、私まで誇らしいような、やっぱりさびしいような、なんとも変な気分でした。
子どもがかわいいのは「つ」のつく間、と言います。なおちゃんは今月の誕生日で、とうとうつかなくなります。
そういえば、こないだ、なにを聞いたのかは忘れましたが、なおちゃんに「まあな」と答えられてドキッとしました。本当にいよいよ「こども」を抜け出す時期がやってきたようです。
街で赤ん坊を見かけると、そういや二人ともこんなに小さいころもあったよなあと思い、おしゃぶりをくわえてキャッキャッと笑っていた姿を思い出しもするのですが、結局ここまで無事大きくなってくれてよかったというところへ落ち着きます。
結構遠いのに、今日は実家の両親が、なおちゃんの晴れ姿を見にやって来ました。
やはり孫というものは格別なのでしょうか。
敬老席に座った両親の楽しげな顔つきを見ていると、金子光晴の『若葉のうた』を読み返したくなりました。
2004年10月7日(木)
ちかごろ、細木数子がゴールデンタイムのテレビでのさばっているのをよく目にする。見るたびにむかむかして仕方がない。
西太后もびっくりのでかい態度で、「大殺界」だの、「地獄に落ちる」だの無責任に言い散らして、共演するタレントや素人を震え上がらせている。
まあ、そもそも占いとはそういうものだといえばそれまでかもしれないが、水星人だの金星人だの結果責任の取りようもない中身の本を売るという、人の不安をあおって財布から小銭を掠め取る手口は、金額こそ違え霊感商法となんら変わるところがない。
それをありがたがって毎回買い、あのばあさんに何億もの年収を与える方もどうかと思う。愛読者は、一度ほかの「星人」の本を買ってみるといい。きっと同じようなことが書かれていて、自分のこととして読めばきっと同じように「あたってるー」となるはずである(これを社会学では「予言の自己成就」という)。
しかしこういった商売は細木数子に限らない。稲垣メンバーの出ているテレビに登場する霊能者なども同工である。明らかにカメラや光のいたずらに過ぎない「心霊写真」を指して、「これはきっと昔ここで死んだ男性の……」などと言う。本来の写真の持ち主の不安や恐怖をかきたてるばかりである。以前など、どう見ても後の壁に貼られたポスターの顔写真なのに(ポスターの縁の一直線が人の間から見て取れた)、地縛霊だとかなんだとか抜かしていた。ああいうのは、プロの写真家も横において、いっしょに分析なり解説なりさせないとだめだ。
ところが、そうはいうものの、私は「霊能者」なるものをすべて悪だというわけではない。
たとえば、「スピリチュアル・カウンセラー」と自称する江原某という人間がいる。よく売れているらしい著作の方は読んだことがないのでそちらの判断は保留するが、かなり前に見たテレビ番組で行っていた施術(というのかセラピーと呼ぶのか、作業なのか商売なのかは知らない)にはちょっと感心した。
その番組で、その男は、小学生の子どもを亡くした家族のもとを訪れていた。(ただし以下はうろ覚えなので、ディテールには自信がない。)
もちろん家族の悲嘆はこの上もなく大きい。それなりの月日はたっているはずなのに、息子の思い出を淡々と話す両親の言葉に私は胸をしめつけられた。そこへやってきたのが、私が初めて見る江原某だったのである。
残された家族は、今も死んだ男の子のことを毎日気遣っている。寂しくはないか、つらくはないか、私たちのそばにいられなくて泣いているのではないか、と。だから、この男が、死んだ子どもがかわいそうだの寂しがってるなんて言いやがったらただじゃおかねえ、私は本気でそう思ってテレビをにらみつけていた。
男は、型どおり仏壇に線香を上げると、振り返って部屋を見回した。
「あ、そこにいますね。こちら見ています」いきなりだった。驚く家族。
男は、子どもの姿を追うようにあちこち部屋を移動し、家族のいる部屋に戻ってきて、そばに見える階段を指差した。
「あそこに座ってこちらを見ています。よくしてたポーズじゃないですか」
母親はうなずいて涙をぬぐう。
そこからがたぶんこの男の真骨頂だった。男の子の声がさも聞こえているように、本人の靴を出してくれだの、好きだったバナナをテーブルに置けだの。家族は戸惑いながらそれに従っていた。
そして、男は子どもの言葉を伝えはじめた。
「ありがとう、って言ってます」
そうなるともう、家族の嗚咽はとまらない。芝居じみたと言ってよいほどの優しい目つきで、男はどんどん話す。さみしくないよ、ぼくは幸せだったよ、みんな元気でね、と次から次へと死んだ子どものものだという言葉を伝える。
見ていて感心したのはここである。感動もした。男に子どもの声が実際に聞こえるはずがない。しかし、男はどうにも抜け出せない家族の悲しみを見抜いて、この家族に必要な言葉をかけ続けた。この家族が、死んだ子どもにかけてほしいはずの言葉をかけ続けた。そして、私にはこの家族が、男の(伝える子どもの)言葉によって、見る見る癒されていく様子が手にとるようにわかった。
男は、決して不安を与えなかった。供養や祈りを強要しなかった。こうしないとこんな悪いことが起こるなどとは決して言わなかった。それにも感心した。どこぞのクソ坊主や今は亡き宜保愛子(こいつもどうしようもなかった)とはえらい違いである。
そうか。私はそこで初めて本心から気づいた。だから今なお恐山のイタコを訪ねる人が後を絶たないんだ。だから19世紀のヨーロッパであれほど降霊術が流行したんだ(あのコナン・ドイルもひっかかっていた)。
そんな形の癒しを求める人々には、科学は無力である。いくら霊の存在を否定しようと、ブッダでさえ彼岸の存在を認めなかったと諭そうと、彼らの悲しみが和らぐことはない。彼らの、「確信」に寄り添って、悲しみという、執着という、「妄執」を絶つ以外にないのである。
だから私は、実のところ「霊能者」を一概には否定しない。
細木数子みたいなのはちょっと許しがたいけどね。
2004年10月10日(日)
我が家においては、やはり日曜日の朝もテレビはつけっぱなしで、基本は「特捜戦隊デカレンジャー」から「ふたりはプリキュア」、(30分休んで)「いいとも増刊号」という流れなのだが、最近はともちゃんでさえ前半90分の子ども番組を見ようとしない。単に惰性でつけているだけである。
と、前振りをしておいて、ここで私が書きたいのは「プリキュア」のオープニングの話なのだが(しかしまあ私も「ケロロ」だの「プリキュア」だの、まるでエルメスに出会う前の電車男のようである。同人イベントこそ行かないが……て、昔は行ったか。)、そこにワンカットだけ、飯を食っている最中でさえ箸を止めて見入ってしまうほどお気に入りの個所がある。
同時に流れている主題歌でいうと、「失敗なんて、メじゃない!」のところ、画面上では敵に吹き飛ばされた二人が、ぐるぐる回転しながら宙を飛び、工事中のビルの骨組みの垂直の部分を、同時にだんと踏みしめて、身体は水平のまま顔だけきっと敵のほうに向ける、というシーンである。
まるで歌舞伎の見得のようで、見るたびに「おお」と感じてしまうのだが、お気づきのとおり、これはエヴァの第9話にあった初号機と弐号機の同時攻撃を思い出させる。
だからどうだ、という話でもあるが、次の瞬間の反撃を予想させるストップモーション(つか、カット割り)の使い方としてはひとつの完成形だと思う。これはこれで、すでに類型に堕しているような気もするが、この手のドキッとするようなかっこいい瞬間って、あんまり文章ではお目にかからない(主役の決め台詞や剣豪の撃剣シーンもちょっとちがう)。それがメディアの差というものだろうが、文章でも出会ってみたいものではある(なんかライトノベルにはありそうだ)。
そして私は「プリキュア」の本編は見ない。セーラームーンとほぼ同じでちょっと、あの、いくらなんでも、大人が見るような、その、むにゃむにゃ。
2004年10月11日(月)
▼先日、未読本の山から引っ張り出して、クリストファー・プリーストの『奇術師』(ハヤカワ文庫FT)を読んだ。
しかし、ネタバレを避けながらこの小説を解説するなどという芸当は、私には不可能だ。だから感想だけにするが、こんなに面白い小説が、(あちこちの紙媒体の書評を目にしても)ほとんど「凝りに凝ったミステリ」という文脈でしか語られないのは、現代SFにとってとても不幸なことだと思う。早川だって苦し紛れか、FT(ファンタジー小説主体のラインナップ)に入れてるし。元SF者の僻みかもしれないが、「SFの周縁でも、今日こんな豊かな実りが得られるようになった」と、誰か言ってくれないか(大森望以外で)。
あと、プリーストは、イリュージョンをとてもよく勉強しているよ。
▼手品つながり。さっきテレビで、前田知洋という人が出るマジックの特番をやっていた。クロースアップ・マジックが流行するのはいいんだけれど(マリック以来十数年ぶり?)、みんな(ふじいあきらとかも)「アンビシャス・カード」やりすぎ。とくにさっき見た前田さんは、他のでもダブル・リフト使いすぎのような気がする。素人相手だと思って、ゲット・レディもあからさまで。
ま、アンビシャス・カードは、テーブルもいらないし、現象はわかりやすいし、テレビ(のしかもツカミ)向けなのはわかるけれど、私でも見てるだけで手順が読めて、技術的に無理なくできるようなネタで引っ張るのはどうかと思う。
ヒロ・サカイあたりの力技のほうが、オリジナリティに対する気合ではずいぶん上だぞ。
2004年10月12日(火)
▼夜遅く、駅から家に向かっていると、まちじゅう金木犀の匂いでむせ返るようだ。毎年のことだけれど、ああ秋も深まったなあと思う。
(というようなことが、17字で書ければ俳人になれるのに。)
▼この日記にはアクセス解析をつけてないのでとても歯がゆいのだけれど、だれかそこそこの大手が直リンしてくれているらしい。だれだろう。なんだかすっきりしないので、だれか教えて。
▼ ローマ字で日本語入力していて、「築く」と「基づく」がいまだに覚えられない。ていうか、2回に1回は「きづく」とか「もとずく」と入力してしまう。「近づく」と「気づく」はさすがににやっと覚えたが。
小学校のとき、「“鼻血”は“はなぢ”と読み仮名をつけます。“はなじ”ではありません。だって、“血”は“ち”と読むでしょう」と聞いたときの違和感がいまだにあって、そのへんから「じ」と「ぢ」、「づ」と「ず」の使い分けに自信がなくなってしまったのかもしれない。
どうしてあのとき、「先生、じゃあ“地面”はどうですか」と反問しなかったんだろう。
たいていのIMEでは、「稲妻」は「いなずま」だし、「躓く」「頷く」は「つまずく」「うなずく」だ。でも、「新妻」は「にいずま」じゃなくて「にいづま」だし、「小突く」は「こずく」じゃなくて「こづく」だ。わけがわからない。「躓く」「頷く」だって、「爪・突く」「項・突く」だろうに。
歴史的仮名遣いだと、「ちょうちょう」と「てふてふ」みたいに現実の発音と表記の乖離はあるにしても、さすがにこのあたりはしっかりしていて、単語ごとに読み仮名が変わるなんてものはほとんどない。
丸谷才一がどこかに書いていた話だが、現代的仮名遣いでは「“おおぎ(扇)”で“あおぐ”」となって、この名詞と動詞はぜんぜん別の単語なんだけれど、歴史的仮名遣いでは「“あふぎ”で“あふぐ”」になって、「“はたき”で“はたく”」「“はさみ”で“はさむ”」みたいに両者の関係がよくわかるようになっている。
だからといって歴史的仮名遣いに帰れとか、歴史的仮名遣いのほうが優れているとか言うつもりはまったくないけれど、なんとかならんか文部科学省。
2004年10月13日(水)
▼日記への直リンは、親切な方に早速教えていただきました(持つべきものはやさしい読者であることだよ)。なんと「カトゆー家断絶」さんだったとか。そらアクセスも増えるわ。トップじゃなくて、「戯言」(10/10)のほうだけど、それでもすごい威力。脱帽。
▼ 仙台市が、ごみの分別を推進するためのイメージキャラとして「ワケルくん」なるものを採用している。
ずいぶん前にはウェブでも話題になったので、知ってる人も多いかもしれない。最近、みうらじゅんが『ゆるキャラ大図鑑』なる本を出したりするぐらい、自治体というものはマスコット・キャラクターなるものを好むのだが、この「ワケルくん」だけは、古臭いキャラばっかり採用する自治体のキャラクターにしては出色の出来だと思う(使い方も)。
そこで私も同じジャンルのキャラクターを考えてみた。
「分別戦隊ワケルンジャー」
ふだんは、ゴミの回収車に乗っていたり、焼却工場やリサイクル工場で働いている自治体職員だが、事件があれば即座に変身して駆けつけるのである。
メンバーはそれぞれ、
クリーン・レッド………熱血漢のリーダー。もちろん「燃えるゴミ」担当。
クリーン・ブルー………クールなサブリーダー。「不燃ゴミ」担当。
クリーン・イエロー……巨漢で力持ちのカレー好き。タンスでもひょいと持ち上げるところから「粗大ゴミ」担当。
クリーン・グリーン……小柄なエコロジスト。古紙やアルミ缶などの「資源ゴミ」担当。
クリーン・ピンク………紅一点の女性キャラ。「調査&指導」担当、ていうか早い話が「解説」のアシスタント。
秘密基地から発進する巨大合体ロボは、「メガ・クリーナー」と「ギガ・スイーパー」。ロボの必殺技は、「大回転稲妻焼却炉斬り」や「光子力分別リサイクル砲」など。
そして、最大の敵が、いろんなゴミで世界を埋め尽くそうという悪の秘密結社「ムチャステロン」。分別拒絶怪人「イッショクタン」やゴミ増量怪人「ムダスキー」、大幹部「不透明暗黒袋将軍」、巨大戦艦「フホートーキ」を擁する。
これらが清掃局のホームページや広報紙を舞台に、日夜熱い戦いを繰り広げるのである。
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2004年10月17日(日)
▼風邪ひいた。
水曜日あたりにやばい感じがしていたと思ったら、案の定、木曜日にビッグウェーブがやってきて、会社で座ってるのもつらくて結局早退。金曜日なんて起き上がることもできないまま、布団から休みの連絡を入れるハメになってしまった。
土日もずっと寝ていられればよかったのだが、諸般の事情でそうもいかず、これを書いている日曜の夜もなお本調子からはほど遠い。
今週も仕事大変なのになあ。明日の朝には治ってますように。
▼上の「ワケルンジャー」ですが、掲示板ですでにあるとのご指摘をいただきました。やるな、福井市。なので、未承諾広告は撤回します。自治体の皆様すいませんでした(とりあえずアップする前に一回でもググっとけばよかった。と思っても後の祭り)。
▼30年以上前に見たテレビ番組の実験がいまだに心にひっかかっている。
それはNHKの子ども向けの番組で、たしか「レンズはさぐる」というタイトルだった。基本的には科学番組で、いろんな生き物や天体など、いわゆる「理科」周辺のトピックを実験や観察を行いながら面白く紹介するものであったように記憶している。
その日は「雨」がテーマだった。ほかにどんな事象が取り扱われていたのかは、さっぱり記憶にないが、ひとつの実験だけはいまなお鮮やかに覚えている。被験者(というか実験者)が、赤いジャージを着た早野凡平であったことまで覚えているのである。
そのときの設定はこうだった。
「雨の中を、走るのと歩くとのでは、どちらがよく濡れるか」
そりゃ、歩く方だろう。子ども心にそう思った。いっしょに見ていた兄も、同じ意見だった。
テレビの中で早野凡平は、遠くにある倉庫のような建物に向かって、結構な降りの中を、まずゆっくり歩いた。彼は、建物の中に入ると、脱いだジャージをタライのようなものに入れて、改めて着替えてのちスタート地点に戻った。今度は走って建物に向かう。建物に着くと、さっきと同じように脱いだジャージをもうひとつのタライに入れた。
そして、両者を計量したのだが、これがなんと同じ重さ(濡れ方)だったのである。
それを見ていた私と兄は、同時に突っ込んだ。歩いた方が濡れるやろー、と。
時間の経過で、降り具合に微妙な差があったのかもしれない。秤(体重計のようなものだった)の誤差の範囲に吸収されたのかもしれない。
そう思ったが、NHKのきちんとした教育番組である。画面上の実験こそいい加減なものであったとしても、明確な根拠があったはずだ。
以来30余年、雨の中を歩くたびにあの実験を思い出す。そして考える。
雨が「一様に」降っているとすれば、体に当たる雨粒は走っても歩いても、「前方投影面積×移動距離」の空間内にあるものだけである。ゆえに、それらをすべて衣服が吸収するとすれば、濡れる量に違いはない。
しかし私たちは現実に小雨の中を走る。そして実際、小走りの方が濡れ方は少ないと感じる。
これはもう先ほどの類推が誤っていると考える以外にない。
問題はおそらく「体の厚み」と「時間」である。雨の中に立っている時間が短いほど、濡れる量も少ないことは論を俟たない。
私はいつもここでつまずく。しかししかし、体に触れる雨粒は先の空間内にあるものだけではないのか、と。
歩く人間が通り過ぎる間に肩にかかる雨粒と、走る人間が地面に落ちきる前に蹴飛ばす雨粒の差を計算すべきなのか。
話はいつも堂々巡りで終わってしまう。文系の悲しさである。
「できるかな?」の中の人とか代わりに計算してくれないかな。
2004年10月18日(月)
座っているだけでも肩で息をしているような状態。熱はないので、インフルエンザとかじゃないと思う。この間、朝方急に冷え込むようになったので、そのへんでの風邪、というやつかも。昨日も一日寝ていればよかった。
なんでそんな具合なのに一日中出かけなければならなかったのかというと、日曜日は河川敷の大きな公園で、ともちゃんの出るお子様サッカー大会があったのだった。
町じゅうから何十というチームが集まる大きな大会で、ともちゃんももちろんレギュラーメンバーで出場した。
とはいえ、本格的なルールではない。なにしろ選手は年長さん(5~6歳児)ばかりである。1チーム8名で、コートはフットサルサイズ、ゴールもハンドボールサイズで、オフサイドなし(誰も意味がわからない)、スローインなし(蹴って戻す)の、お楽しみルールである。
そんなもののためにふらつく体にビデオを抱えて家族一同、朝の7時から夕方4時まで参加したのである。
でも試合を見ているのは楽しかった。小さな子どもたちが全員で団子になって、ボールについてあっちへこっちへ、もうなんか磁石で砂鉄をかき回しているような状態である。他人の足でも味方のボールでも平気で横から蹴っ飛ばすし、キックインやコーナーキックのたびに誰が蹴るかで本気でもめる。ゴールキックを手で受けちゃったり、後ろから両手で人を突き飛ばしたりのやりたい放題で、子どもたちの一生懸命な姿がとても面白かった。おまけにまわりの親たちは、眉目麗しいお母様方までが、「行けー! 蹴れー! シュートやー!」と、にぎやかなことこの上なかったし。
私はてっきり、ともちゃんなんて真っ先に団子に飛び込んで、ボールをかっさらいにいくもんだと思っていた。けど、ともちゃんはいつもボールを囲む団子から離れているのである。こぼれ球はきちんと押さえるものの、いつも集団のやや外側をちょこちょことついて回っている。
あれえ、意外とそういう(おれがおれがとにかくおれがという)積極性はないんだ。もっと俺中心のワンマンプレイヤーだと思ってたのに。まさかこぼれ球からパスをつないでどうこうなどと考えているわけはないので、これは「やや控えめ」もしくは「なにもそこまで」という、「ちょっとひいた感じ」の現れであろう。ふうん。ともちゃんもそうなんだ。これがなおちゃんならよくわかるんだけど。
最後の試合では、ともちゃんがゴールキーパーを務めた。これは先とは違って、ボールによく食らいついていったので感心感心。とくにゴールエリア外では、慎重にエリア内に蹴りこんでから手でつかむという、ルール的にも芸の細かいところを見せたりしていた。その前の試合のキーパーなんて、えらく飛び出したまま、すぐにボールをつかみに行って、ハンドとられ放題だったのに。
結局全部で4試合あって、ともちゃんチームはなんと全勝した。チームにたった一人、すっごく上手な子がいて、全部その子のおかげで勝ったようなものだったけれど。ただまあそんなことだから、スコアは「3-1」とか「2-0」といった地味なもので、「7-0」とか「9-1」とかが続出したほかのチームに得失点差で及ばず、上位入賞はできなかった。
ともちゃんは、あんまり得点に絡むことはできなかったものの、とても楽しかったらしい。それはそれでまあよしとしよう。
私は強い日差しの中、半分ぐったりしながら一日中ビデオを回していた。おかげで、「よく日に焼けた半病人」という変なものになってしまったのであった。
2004年10月19日(火)
プロ野球のことなんかぜんぜんわからないけど書いてみる。
その、なんだ、ライブドアとか楽天とか、仙台で新球団を作る話になってるけど、元をただせばパ・リーグは儲からなくって、みんな赤字垂れ流しの、親会社も傾きの、で苦労してるって話でしょ。ダイエーがホークスを持ちきれなくてソフトバンクが買収したがってるとか。
そんでさ、球団減らすかどうかはともかく、1リーグにしてみんな巨人戦ができるようになれば、テレビ放映だの観客動員だのに絡む金が入って潤う、だからパ・リーグはみんな1リーグ制を歓迎、セリーグはどこも巨人戦が減るので反対、ってわっかりやすい話じゃなかったっけ。
でも、球団が減ると選手も減る(プロになれる人間が減る)し、球団がなくなると地元も楽しみがなくなるし、古くからのファンは悲しむので、いろいろもめて来年も2リーグ12球団で行くことになった、と。
だったらさ、パ・リーグにも巨人つくっちゃえばいいんだよ。あれだけ儲けてて、あれだけ人気選手抱えてて、あれだけファンがいるんだよ。2つに割っても十分持つだろう。すると、セ・リーグは今までどおりでいけるし、パ・リーグも巨人戦ができて、客も増えるしテレビ放映も増えるしで一息つける。
巨人ファンも巨人が勝って喜ぶチャンスは2倍に増えるし、アンチ巨人も巨人の負け姿を見るチャンスが2倍になるので、スポーツ新聞もテレビも喜ぶんじゃないか。
ただ、さすがに両リーグとも巨人が優勝しちゃえば、日本シリーズは紅白戦みたいになるので、そのときは両リーグの2位球団でプレーオフをやって、巨人はセ・パの混成軍にして日本シリーズを戦えばいい。
それと、チームの中身だけど、セの巨人はおおむね今までどおりで、パの巨人は、大阪ドームをフランチャイズに関西人チーム(清原監督、桑田ピッチングコーチ、4番に中村紀とか)で組むのはどうか。
八方丸く収まるし、面白いと思うんだけどな。
2004年10月20日(水)
▼すんごい台風。まさに帰宅時間に大阪直撃。おかげでえらい雨風の中を帰宅するはめに。台風の目にでもあたったか、ニュース映像ほどではなかったものの、結局びしょぬれになった。誰に恨み言をいうわけにもいかないけれど、なんか腹立つ。ほんとにもう。
9時とかには台風の中心部はすでに岐阜方面へ抜けていたのだが、家が揺れるほどの強い風が吹いていた。ちょっとマジびびってしまった。今年はたくさん台風が来たけれど、こんな暴風は初めてだ。
▼またもや大昔の話で恐縮だが、今もおりにふれて思い出すことがある。
中学生のころ、何の時間だったか、先生が黒板に小ぶりな円を描いた。
「いろんなことをたくさん勉強すれば物知りになって、知らないことやわからないことが少なくなると思いますか」
先生は一拍おいた。
「まったく反対です。勉強すればするほど、知らないことやわからないことがどんどん増えていきます」
そこで先生は、黒板の円を指した。
「この黒板全体が、いろんな事実や知識の世界としましょう。そしてこの丸が、ある人の知っていることのすべてとします。で、その人の“知らないこと”や“わからないこと”というのは、この丸の外側すべてじゃなくて」
ここで先生は、短くなったチョークを横に寝かせて、円周部分をぐるりとなぞった。
「これだけなのです。疑問や質問、つまり自分が知らないとわかっていることが内側にあって、答えが外側にあるといえばいいでしょうか。それが自分の“知らないこと”なのです」
先生は黒板の、円から遠く離れたところにチョークで印をつけた。
「こんなところにある問題は、そもそも存在することも、自分が知らないこともわからないのですから、その人にとって知らないことでもなんでもありません。だから、あまり物を知らない人ほど、なんでも知っているような顔をするのですね」
先生はそこで少し微笑んだ。
次に先生は、先ほどの円の外側に大きな円を描き足した。
「そこで、勉強したり本を読んだりすれば、こんな風に知識は増えます。けれどこの円周部分、知らないことやわからないこともどんどん増えていきます。本当にきりがありません」
このあと、どんな話になったのかは記憶にない。だから勉強しましょうになったのか、丸が大きくなるのは楽しいという話になったのか、わからないことが増えても安心という話になったのか。まあ、いずれにせよそんなところだろう。
ただ、この丸のたとえ話が妙に印象に残っている。実際の個人の知識空間がどんな形をしているのかは知らないが、なかなか的を射たわかりやすいたとえだと思う。
今は、このたとえを少しふくらませて考えることが多い。「円」のスケール・メリットについてである。
この円を3次元の空間内に斜めに置いて、傾いたお盆のようなものとして思い浮かべるのである。
そして本や雑誌や学校の勉強やテレビや映画やネットやカルチャーセンターなど、あらゆる知的情報(もちろん「考え方」や「リテラシー」「感性」「経験」など文字情報以外のものを含む)を上から降ってくる雨や砂のようなものだと考える。
本を読んだり映画を見たりすると、ものすごい量の情報が上からなだれ落ちてくる。もちろん全部覚えたり解釈したりできるわけはないので、大半は流れ落ちてしまう(だから空間内の円盤は傾いている)。それでもいくらかは雨粒や砂埃のように円盤上に残ることになるのだが(それを「新たに得た知識」とする)、単純に円盤が大きいほど残るもの、引っかかるものも多い道理である。その後、円盤は引っかかったものを取り込んで少しだけ大きくなる。
早い話が、同じものを見たり聞いたりしても、いろんなことを知ってる人間ほど得るものや感じるものは多い、という当たり前の話ではある。自分よりはるかに賢い人間やバカな人間と、読んだ本や観た映画、聞いたニュースがかぶっていて、感想や意見を言い合った経験がある人にはよくわかるんじゃないだろうか。
私はそのたびに、上記のような絵を思い浮かべる。私の丸は今どのくらいの大きさだろう、とか。私がいつも、わからないことや知りたいことに取り囲まれているように感じるのは、きっと丸がでかいせいだと自分を慰めたり。
「わが生や涯(かぎ)りあり、而して知や涯りなし。涯りあるを以て涯りなきに随う、殆きのみ」って、荘子さんは言うけれど。
▼おかげさまで本日トップページのカウンタが30万ヒットに達しました。これもひとえにみなさまの日ごろのご愛顧の賜物と心より感謝いたします。
これまでおこしいただいた皆様方のご健勝とご多幸をお祈りいたしますとともに、今後とも変わらずお引き立てを賜りますようお願い申し上げます。
「筆先三寸」亭主敬白
2004年10月21日(木)
▼30万の大台が目前だったので、ラストスパートじゃないけれど、今月はがんばって更新を続けてきたところ、第4コーナーを回ったあたりで「カトゆー家断絶」や「迎賓館裏口」といった大手にリンクされたおかげで、騎手のムチで追い込みをかけられたように一気に達成してしまった。内心では11月にずれ込むだろうと思ってたんだけれど、ありがたい話である。
それはともかく、そんなこんなで「しょっちゅう更新するリズム」を思い出してきたので、しばらくはこの調子でいけると思う。ていうか、この調子でいきたいと思う。ていうか、この調子でいければいいなと思う。ていうか、いけるかもしれない。いけないかもしれない。いけないような気がする。いけなかったらどうしよう。いけないにちがいない。きっとだめだ。生まれてすいません orz。
▼ずいぶん前の話になるが、なかなか評判がいいので貴志佑介『硝子のハンマー』(角川書店)を読んだ。今年のミステリ系ベストテンでもそこそこいいとこいくんだろうな、と思うくらいには面白かった。探偵役のキャラといい、防犯豆知識といい、精緻なプロットも、積んでは崩す王道のストーリーも、メインのトリックも。
しかし読後のこの脱力感は何だ。もちろん作品のせいじゃなくて、私の勝手なのだが、私は本当に「面白い小説」に倦んでしまっていることがよくわかった。これに限らずよくできたエンタテインメントならなんだって、読んでる最中は血も沸き肉も躍るのだが、読み終えたときにはため息ばかり出る。「あーあ、面白かったー。はーあ」みたいに。
というわけで、このごろぜんぜん本が読めない。ていうか、読む気がしない。昔はたくさん読んだのにな。
そんな私が最近読んで面白かったのは、松岡正剛『花鳥風月の科学』(中公文庫)。それはそれでなんだかなあ。
▼秋も深まってきた。夜長というが、夜も更けてからの空気の快さといったらない。
とくに私の家は郊外のベッドタウンで(田舎ともいう)、周囲の静けさが部屋の中にまで染み渡ってくる。なにしろ11時を過ぎると、歩いて15分近くかかる最寄り駅のアナウンスが、夜風に乗って聞こえてくるのだ。熱い風呂に肩までつかりながら、窓越しにかすかに届く「1番線を列車が通過します」というクールな女性の声を聞くのはなかなかオツなものである。
2004年10月22日(金)
▼93年のスガ(糸圭)秀実・渡部直己『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(太田出版)――略称『それなり』――を、たいへん面白く読んだ覚えがあるので、こないだ出た『新・それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(同)を読んでみた波田陽区。
▼「三人の奇術師」
大学生のころ、デスクトップ型(!)のワープロ(5インチFDDで、一体型の熱転写プリンタの印字性能を一文字48×48ドットとか言った時代)を手に入れた勢いで書いた小説、の序章のみ。
もう二十年にもなるんだよな。村上春樹にかぶれてたころだっけ(遠い目)。
いつか続きを書こうと思って温存(放置ともいう)していたところ、牛ほど売れているらしい『世界の中心で愛を叫ぶ』という小説が、「高校生時代に恋人が死んだ主人公がうじゃうじゃする話」であるということを風の噂に聞いたので、モチベーション激ヘタリで完成を断念。ゆえにアップ。
2004年10月23日(土)
ともちゃんがサッカーを習っているのは、場所こそ保育園の園庭ではあるものの、いわゆる民間のサッカークラブというやつなので、小学校に上がってもそれなりのクラスが用意されている。だから、ともちゃんもサッカーを気に入っているようだし、小学生になっても続けてやらせてもいいと思っているので聞いてみた。
「ともちゃん、1年生になっても、サッカー習いたい?」
「ううん。そろばんならうねん」
そろばんて。そういえば、1年ほど前に、サイがそんな話をともちゃんに持ちかけて、教室を見に行ったことがあったっけ(サイはそろばんの有段者なのだ)。そのときは、さすがにまだ幼いということでそれきりになってしまったのだが、よく覚えてたなそんなこと。
「だって、かしこくなりたいもん」
おー! かっこいいぞ、ともちゃん。でもいいのかほんとに。
そこで、「えー、サッカーはプロがあるけど、そろばんのプロはないぞ」とか、「サッカーやってたらもてるけど、そろばんではもてへんぞ」とか、いろいろ翻意を試みはしたのだが、どうやら意志は固いらしい(今のところ)。いったんそうなると、ともちゃんの頑固なのはわかっているので、我々はひとまず撤退した。
しかしなあ、「かしこくなりたい」とはなあ。たのもしいというのか、ありがたいというのか、なんかびっくり。
べつに「かしこくならなきゃ」なんて圧力をかけた覚えはないのだが。
「もうお前、中学出てすぐ働くか。うちは助かんねんけど」とかならしょっちゅう言うけど。<どんな親や、いまどき。
2004年10月24日(日)
「サイゾー」という月刊誌をたまに買っていて、それには毎号、宮台真司と宮崎哲弥の対談が掲載されている。これがいつも(こ難しい話が多いくせに)とても面白くて、実のところ、このページ目当てで買っているようなものである。
11月号では、「リベラル」や「自己決定」について二人で話していたりするのだが、本筋とは全然関係ない宮台のネタフリのような台詞が目にとまった。
「時代の変化といえば、頭の変な学生が急増中だ。(中略)で、学生の中でマトモなヤツって誰なんだと見ると、学童保育出身者や、兄弟数が多い者が目立つんだ。『ノイズ耐性』の問題だと思う。個室化が進んだせいで、他人をノイズとして感じる連中が増えたんだな」
これが事実かどうかは知らない。ただ、私が子どもたちに公立の小中学校へ進んでほしい(いわゆる「お受験」はさせたくない)という、ひとつの理由を言いあらわしていると思った。
公立の学校にはいろんな子どもがいる。ひどく乱暴な子、とんでもなくバカな子、裕福な家の子、貧乏な家の子、両親のいない子、外国人の子、そして障害を持つ子。とくにマイノリティ(社会的にしんどい位置に置かれている層)に属する子どもたちは、現実の社会そのままに、名門私学なんかよりはるかに多いはずだ。
苦労だって多いにちがいない。いじめもあるだろう(うちの子がいじめられるのだけは勘弁してほしいが)。ケンカもするだろう。中学にあがれば、恐喝や万引きにだってしょっちゅうふれることがあるはずだ。悪い遊びの誘いもきっと多い。それに、学習内容の豊富さや教師のスキルについても、公立学校は決して私立に及ばないだろう。
でも(いや、だからこそか)私は、なおちゃんとともちゃんには公立の学校で義務教育を受けてほしい。
先の「ノイズ耐性」だけではない。いろんな子どもたちにふれ、その中で揉まれることではじめて身につくことも多いはずだ。いろんな苦労や摩擦やトラブルに、ふれたり、かかわったり、飛び込んだりするという経験が、どれほど子どもを豊かにすることだろう。大人になったとき、「子どものころの経験」がどれほど役に立つことだろう。
私は、子どもたちに、勉強以外のいろいろなことを身につけてほしい。コミュニケーションのスキル、“他者”と分かり合おうとする努力、分かり合えないままの共存を是とする理性、そして素朴な人権感覚。
そんな風に思うのは、私自身が大阪の下町で、公立ばかりの学校生活を送ったせいもあるかもしれない。
私は地方都市の小役人なので、いろんな問題に出会う。そんなとき、決まって昔のことを思い出す(以下すべて仮名)。在日コリアンの問題を考えるときは、金田君や柳川君のことを思い出すし、中学校の卒業間際に「本当は朴って本名で通いたかったんだ」と話してくれた女の子のことを思い出す。いじめだったら、小学校のとき学年中から激烈ないじめにあってた前田さんとか、それでも前田さんをかばって仲良くしようとしていた二人の女の子を思い出す。低所得者層の問題なら、こわれそうなというより明らかにこわれちゃってる家に、お母さんと弟と三人で住んでいたかっちゃんのことを思い出す。障害者問題なら、小学校のころの「あおぞら学級」のみんなや、中学校で同じクラスだった脳性マヒの高橋君とかを。ほかにも、ボンドとバイク盗の常習で立派にヤクザになっちゃったやまちゃんとか、父親が出て行って母親も行方知れずでおばあちゃんと暮らしてた田中さんとか、家は金持ちなのにどこの高校にも入れなかったバカの小山君とか、妹が障害児で弁護士を目指してた川野君とか、借金でヤクザに追われて一家で夜逃げしちゃった亀山君とか、いろんな友だちを思い出す。
そして私は、打ちかけのワープロ画面を見ながら自問する。僕はあのときの仲間たちに、今もいる同じような子どもたちに、胸を張れる仕事をしているんだろうか、と。
蛇足だけど。自分の子どもに小学校受験をさせようという保護者は、上みたいなことを言われると、たまにこんなことを言う。
「いろんな(醜い、悲しい、つらい、暗い)ものごとには、社会へ出ればいやでも出会うので、学校へ通う間くらいは安心して毎日を過ごさせてやりたい」
だからだめなんだよ。自分が安心したいだけだろうに。
2004年10月25日(月)
▼ネットでは、「サヨク」や「サヨ」、あるいは「プロ市民」という言い方が一般的になってきたけれど、昔はもっともポピュラーだった「アカ」という言葉は死語になっちゃたみたいだ。
庶民の間では、社会主義的な言辞には、「なにをアカみたいなこと言ってる」とまぜっかえすのが常だったのに。
これってあれか、「非国民」と同じか。今は「反日的分子」とか言うし。
昔の言葉のあらわす概念が、今あらわしたい概念とずれてきたということかもしれない。今、みんなが言う「サヨク」が必ずしもコミュニストとは限らないからね。コミュニズムも死んだ(ということになっている)し。
また、『奇術師』のところでもちょっとふれたけど、「SF」って言葉もほんと使われなくなった。もちろん最近にかぎった話じゃなくて、かつての「世紀末覇王伝説」だって、近未来SFとはめったに呼ばれなかったし。「バイオレンス・ジャック」ならそうだった記憶があるけれど。
今度の石田衣良の『ブルータワー』(実は未読)だって、30年前なら眉村卓あたりが書きそうなテーマだもんな。でも、広告にも書評にもSFなんて文字はどこにも見えない。せいぜい「架空の未来社会」だ。著者はきちんとあとがきで、「これはSFです」と言い切っているけど、これは気骨というやつだろう。
今って、「SF」ってのは、なんか禁句になってるのかな。いや、ノベルズ系やライトノベルでは、(それでも伏し目がちに)使われているの知ってるけど。
大人に向かって正々堂々としてるのは、今やハヤカワ文庫の青背だけかもしれない。
なんでだろう。これは「アカ」とはちょっとちがう。概念がずれてきたということではなさそうだ。SFが拡散しきって、訴求力やイメージを喚起する力を失ったのだろうか。たとえば、「新本格の傑作」と言われれば、まだイメージしやすいが、「現代SFの金字塔」じゃあ何のイメージもわかなくなってるもんなあ。セールスの問題(SFなんてつけちゃうとマニアしか手にとらないとか)もあるような気もするけど、それはやはりさびしいものがある。
▼サイトはじめて5年以上たって突然っちゃ突然だけど、この日記のタイトルは「ひびこれこうじつ」じゃなくて、「にちにちこれこうにち」と読むのが正しいのです。武者小路実篤がどう読んで、かぼちゃといっしょに色紙に書いてたのかは知らないけれど。
もとは禅坊主の言葉なのですね。どんなことがあってもそれはすべて自らが生きる「よき日」であると、結構気合の入った言葉のようです。
ベネッセの「こどもちゃれんじ」関係のテーマコピー、「みんないいこだよ。」(by 糸井重里)と同じですね。
2004年10月26日(火)
佐藤卓己『言論統制』(中公新書980円)。
十五年戦争中、軍部の言論統制がどのように行われたのかを知る貴重な一冊。
戦時中の言論統制やマスコミへの圧力への権化と描かれることの多かった、陸軍情報局の鈴木庫三少佐(後に中佐から大佐)の新発見の日記などを元に、典型的な「悪役」の虚像と実像を明らかにしてゆく。
中立の身振りとは裏腹にかなりバイアスのかかった記述(言論界側の卑しさを誇張して、言論・思想統制の肩を持つ)は気になるものの、それはそれで新たに提示しえた鈴木の実像を強調したい学者の下心ということで目をつぶろう。「ったく、だから日文研はよ」とも、この際いわずにおく。
そんな中で、戦後のさまざまな証言や資料を駆使しながら、鈴木庫三本人の人と仕事を描き出しつつ、当時の変化する戦局や軍部の暴圧と社会(国民)の様子、それと軍の言論統制に迎合したり反発したりする作家、出版社の姿が描かれる労作である。
で、鈴木庫三少佐が、本当には「腹黒くて、傲岸で、神経質で、権威主義的で、冷酷な小ヒムラー」ではなく、「苦労人で、善良で、真面目で、正義感に燃えた、仕事熱心で、勉強家で、非常に有能な官吏」であった、本当に善意の憂国者であった、ということが明らかになってゆく。
非常に面白く読むことができたし、今年の収穫の一冊であると断言してもよいが、著者の筆がそこで満足してしまっているのは気になる。
私は公務員なので日々実感するのだが、実際のところ、政策決定の場面で一番扱いにくいのは、「腹黒くて、傲岸で、神経質で、権威主義的で、冷酷な小役人」ではなく、(まちがった方を向いた)「苦労人で、善良で、真面目で、正義感に燃えた、仕事熱心で、勉強家で、非常に有能な官吏」なのである。
「後者なのに、前者として誤解された」ではなく、「後者であったからこそ、言論にとっては前者であった」、というところまで分析を進めてほしかったな。
あわせて、鈴木邦夫『公安警察の手口』(ちくま新書680円)なども読みながら、東京都の青少年健全育成関係の条例や、教育基本法改正に関わる保守派議員の言動なんかをネットで見て回っていると、ちょっとしゃれにならないぐらい寒気がするので、風邪には注意すること。
2004年10月27日(水)
『電車男』(新潮社1300円)。
この話は、中の人のサイトからローカルに落として何度となく読んだのに、(実はサイに読ませようと)本まで買って、またまた読了。またまた哄笑。またまた涙目。
中身についてはもう有名すぎるのでふれないけれど、感心したのは本のつくり。新潮社の某美人編集者が担当だったらしいけど、上記のまとめサイトに何ひとつ加えない、何ひとつ省略しないという態度は立派。「もちけつ」、「厨房」、「AA」、「FA」など、素人には何のことやらというタームの解説にしても、本文中どころか巻末でさえなく、カバーをめくった表紙に置く始末。いっそすがすがしい、ていうか正解はこれしかない。
たしかに中の人の編集手腕が卓抜であったという要素はあるにしても、これが並みの編集なら、ログの差し替えは言うに及ばず、巻頭に大森望の解説、巻末に用語集(ハズしたユーモア入り)、帯には糸井重里か切通理作の推薦文、という「わかってねえよな」の本になったことは間違いない。
この本は、すでにすごい勢いで売れているらしいけど、最低でも『Deep Love』は超えてほしい。
あ、全然関係ないけど、切通理作で思い出した。ずいぶん以前に福井晴敏『亡国のイージス』(講談社文庫)を絶賛した覚えがあるけれど、これの解説を切通理作が書いていて、作品の出来に比して、あまりの内容のなさに本棚に戻す前に破り取ってやろうかと思った。
だから講談社の人へお願い、ていうか祈り、ていうか命令。映画化もされるらしいので、文庫本はスチール写真入りの帯をつけて、たっぷり増刷されるのだろうが、あの解説ばっかりは佐々淳行(作家の上に元内閣調査室長。これ以上の適任があるもんか)に書き直してもらうように。
2004年10月28日(木)
雑誌のコラムレベルのフェミニズムがどうもはがゆいのは、基本的に以下のような論法に立脚しているからだと思う。
「男と女には、生物学的な性差を除いて、心理的あるいは能力的なちがいは一切ない。いわゆるジェンダーは社会的に作られたものであり、それに立脚した性別役割意識は差別以外のなにものでもない」
私自身は、これにあえて異議を唱えようとは思わないが、はがゆいのはその論理ではなく、戦略である。
この論理そのものは、同意不同意に関わらず人口に膾炙していると言ってよい。だからこそ、フェミニズムに理解のない層からは、単純に反発を食らう。
「男と女は全然ちがうじゃないか」
もう、初手から話がかみ合わない。
しかしそこで、フェミニストはなお声高に言う。
「ちがいなんてない。あなたがちがいだと言い張るものは、社会的に作られたもので、現に力の強い女性もいるし、世界には女が働いて男が家にいる文化もある」
もちろん反論されまくる。
「女は子ども産むし、体もそうできている以上、能力や性質にちがいはあって当然ではないか。現にほとんどの場面で平均値は歴然とちがうし、パーソナリティの傾向も明らかにちがうではないか。個々人の差異はあるにしても、大きくそれらに即した役割や文化はあって当然だ。」
「いや、だから、そういったちがいというものは」
「話にならない。これだから近頃の女は」
議論にもなんにもならない。
「男女にちがいはないんだから差別は不当」というのはまったくもって正しいのだが、これは「ちがいがあるなら差別もありうる」という論理に対して無力である。相手は裏命題なので、こっちの主張が真偽を保証するはめにはならないにしても。
私は、こうもっていけばいいのにと思う。
「私は男女にちがいはないと思う。あなたはあると言う。ひょっとするとあるかもしれない。でも、それがどうしたんですか」
「ちがいがあろうとなかろうと、他人に不自由を押し付けるのはいけない」というのが、このところのあらゆる人権問題の流れなのだから。
「車椅子で階段はのぼれない。だから我慢しろ」というのが具合悪いのは、だれの目にも明らかである。
「車椅子の人でもどこへでもいけるようにしようぜ」というのがバリアフリーの考え方ではなかったか。
バリアフリーを是としながら、男女の性差による男女差別を否定しないというのは根本的に矛盾している。
べつに性差を否定する必要はない。ジェンダーだって今すぐにはどうにもならない以上、「それがどうした」と言い切る戦略こそが必要だと思う。
「女性は子どもを産む。母乳も出るし、体も柔らかくて、性質も優しい。だから女は家にいて育児に専念するべきである」
に対しては、
「それがどうかしましたか。だからといって、働きたい女性を家に押し込めたり、働く女性を待遇や昇進で差別するのはおかしいでしょう」
と反論する方が現実的だろう。
「女は家にいて男を支え、万事控えめでおしとやかであるべき」
に対しては、
「そうかもしれませんが、そうしない女性がいてもいいじゃないですか」
とか。
「女は生物学的に論理的思考や大局観には向いていない。ゆえに大きな仕事に携わるべきでない」には、
「そうらしいですね。でも向いている人もたくさんいますから」とか。
二歩も三歩も手前で水掛け論をしているから、話が前へ進まないのである。
だから、夫婦茶碗の大小にこだわったり、ノーメイクでズボンしかはかない三文フェミニストにはげんなりする。「女は男と同じである。ひょっとすると同等以上に有能であるから、平等に扱え」という主張が、本人の意に反して男性社会に加担しているように見えて仕方がない。男に対してはフェミニズムに対する反発や頑なさを誘発・強化するとともに、同性に対しては大半の女性が選択しないであろうスタイルを強要してフェミニズムへの共感を阻んでいる。そして本人は、「男社会」の「男ルール」に乗って勝利を得ようとしているように見える。その「男ルール」を変えなきゃいけないのに。
極端な話だが、この際、お蝶夫人や叶姉妹のような格好で闘ってもいいのに、と思う。
「ほほほ、私は女でございますわ。だからといって、差別や抑圧をしてごらんあそばせ。ヌッコロス」ってさ。
2004年10月29日(金)
▼今日は健康診断だといわれて出かけたら、一日人間ドックでした。検尿検眼採血はもとよりバリウム飲みから自転車こぎ(負荷心電図)までの豪華版。身長178.4cm、体重62.9kg、体脂肪率17.4%とまるで若者。血液検査も異常なし(γ-GTPはさすがに上限)。体力も骨量も年相応。なんか事後に指導してくれるお医者さんも栄養士さんもつまんなそうでした(牛乳飲めくらいしか言われなかった)。つまんなそうて、俺はありがたいっちゅうねん。あとは検便・喀痰・写真関係の結果待ちです。これだけ健康に無頓着に暮らしてて今日の結果で気をよくしているところへ、「ちょっと言いにくいんですが、ここに気になる影が」とかの大逆転などありませんように。
▼テレビ見てたら、「ローマの休日」をやってたので最後まで見てしまった(何回目や)。いやあ、ヘプバーンきれいですなあ、やっぱり。ニコール・キッドマンみたいな正味の美人顔じゃないけれど。王女に戻って背筋伸ばして微笑む姿なんか絶品ですね。
で、ぜんぜん忘れてたんだけど、松本人志って、スーツのときはいつもネクタイの剣先をズボンの中に入れてるので変だなあ、流行らせたいのかなあって思ってたんだけど、この映画のグレゴリー・ペックも同じことやってんのな。昔は普通だったのかな。
あと、ラストシーンで王女が写真もらうところは覚えていたんだけど、カメラマンがどうやって近づいたのか忘れていた。王女が仕掛けた「ABC殺人事件」だったので納得。今にして思えば、そんなん忘れるかってほど印象的なシークエンスだけど。
▼意地で更新してたら、この10月は、1ヶ月分のファイルサイズの記録を更新しちゃった。それでも50KB少々だけど。ここ数年は3ヶ月で2、30KBだったのに。よくやった>おれ。来月以降は期待すんな>みんな。
2004年10月30日(土)
▼イラクへ行って拉致られたバカな若者のことと、日本で好き勝手ほざいているもっとバカな連中のことを書こうと思ったけど、このところ一番のお気に入りブログサイトである「kom's log」さんの更新を見て、私ごときがなにひとつ付け加えることもないのでそちらに任せる。
このサイトの揺らぎのないスタンスと透徹した思惟のレベルの高さは、本当に読んでいて面白い上に勉強になる。心底おすすめ。うちはブログのスタイルをとってないので、トラバの送れないのが残念だけど。
▼今日はなおちゃんの誕生日(正確には明日)ということで、フォークとナイフがずらりと並んで一皿ずつ料理の出てくるレストランへ食事に行った。「ナプキンはこんな感じでひざの上」とか、「これは魚用で、このギザギザのが肉用」とか、「スープは手前から向こうへすくって音を立てずに」とか、基本中の基本ばかりををえらそうに教えたりして。なんか面映いような楽しいような。
もうこれで、なおちゃんは「つ」がつかなくなるけれど、それはそれでこれからいろいろ面白くなるのかなって思ったり。
「まちがえて使っちゃったときは、見つからないようにきれいになめて、そっと持ち替えること」って、それは裏技。
「テーブルマナーは一通り知ってるつもりなんだけど、どうも緊張しちゃって」なんて人には、他のさまざまな場面でのマナーに対する考え方も含めて、この本をおすすめします。マナーというものは、「知識」でも「決まりごと」でもなく、もっと大切な何かによるものだということが、くすくす笑いながら身につきます。
海外の(しかもわりと昔の)本なので、もちろん茶道についてなんて一語もありませんが、私はこの本のおかげでお茶席がこわくなくなりました。
2004年10月31日(日)
とくに「禁止」に関わっては、よそんちの子育て方針を聞いていて驚くことが多い。
「ゲーム禁止」、「マンガ禁止」、「アニメ・バラエティ番組禁止」、「ホラー禁止」、「買い食い禁止」、「炭酸飲料禁止」、「甘いお菓子禁止」、「スナック菓子禁止」などは決して珍しい話ではない(もちろん一軒で全部やってるということはないが)。
そんなことを言い出すと、うちなんてすでに放し飼いである。ゲームOK(お父さんが鍛えている)、マンガOK(お父さんが買って来る)、アニメ・バラエティ番組OK(お父さんが無理にでも見せる)、ホラーOK(こないだいっしょに「フレディ対ジェイソン」を観た。ともちゃんは大喜びで、なおちゃんはびびってた。あとでパッケージ見たらR指定でやんの)、買い食いOK(ていうか、本人がコンビニとかには行かないので、ス-パーで食玩とか買ってやる)、炭酸飲料OK(風呂上りにみんなでプハーッてやる。もちお父さんはビール)、甘いお菓子OK(チョコとアメぐらい、しかも鳥のえさほども食べないが)、スナック菓子OK(ポテチはみんな好き。ハバネロだってお父さんが食わせる)。たまにはゲーセンにも連れて行く。
だって、ゲームやマンガやアニメやコーラって、子どもの大きな喜びではないか。子ども時代の大きな快楽ではないか。大きくなってからの楽しい話題ではないか。それを奪っおいて、しかも毎日ガミガミいうネタを増やして、なにが愛情か。なにがしつけか。
そして私は、子どもとゲームを楽しみたい(本気で勝ちに行くけど)。いっしょに「ケロロ軍曹」を見たい(23日の「坊やだからさ」は秀逸だった。思わず禁を破って解説してしまった)。いっしょに「あるある探検隊」をやりたい(なおちゃんが結構ネタを覚えている)。いっしょにハバネロ食って「うわー、からいー、お茶ー」とか叫びたい。
だから我が家には、基本的に子どもの喜ぶものごとで禁止しているものはない。
これはべつに、禁止するのが面倒なので放任しているということではない。野放しにして子どもたちが自堕落になっていくのを放置しているということではない。
しつけとは、マナー以外では、自制心や自律心を身につけさせることにあると思っている。たしかに、何にしても禁止して叱りつけていれば、罪悪感が植えつけられるので、超自我方向からの「自制する気持ち」が身につくことは否定しない。しかし、それはちがうだろう、そんな風にして大きくなって、マンガやお菓子にふれるたびに後ろ暗い気持ちになるのは不幸だろう、と思うのである。高校生ぐらいになって、たがが外れたとたんに、反動で限度を超えてのめりこむ、なんてこともあるかもしれない(それはきっと杞憂)。
それにまあ、はじめからドサドサ与えておけば、「いつでも手に入るもの」として、渇望のようなものに苦しむこともないだろう、とも思っているし。
で、とりあえず私は、3ヶ月に1回ぐらいは、ともちゃんにも説明する。
「あのねえ、なんでもかんでもしたいだけ、ほしいだけていうのが、いちばんあかんの。これぐらいにしとことか、もうやめとことか、じぶんできめられるようになるのがいちばんえらいねんで」と。
もちろん、なおちゃんにも(こっちはもうたいがい難しい話もわかるのでOK。ただし説教じゃなくて雑談のように)、炭酸飲料の糖分の量と摂り過ぎの害や、ゲームやマンガで浪費する時間の貴重さを皮切りに、自分でコントロールすることの大切さを説明する。
おかげで、最近やっと、どうにかこうにか、あまり注意しなくてもよくなった(あくまでも、どうにかこうにかで、あまり、だけど)。
ゲームも1時間ぐらいで、「もうやめよか」とか言い合ってるし、週に1日は「今日はゲームせんとくねん」と言っている。マンガもテレビも、注意する前に勝手に切り上げている。ともちゃんにコーラをやっても、250mlの缶をお兄ちゃんと分けて満足している。ゲーセンも200円あれば十分らしい。
いいぞいいぞ、その調子できちんと欲望をコントロールできる、自律と自制と克己心を身につけた大人になるんだぞ。
次の日仕事でも朝までネットしたり、財布が空になるまでおもちゃ買ったり、飲みに行くとぐでんぐでんになるまで腰を上げないお父さんのようになるんじゃないぞ。ほっとけ。
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