三人の奇術師

2004年10月22日公開。長編小説の序章(最終章まで完成させたものがピクシブにあります。>「三人の奇術師」


 雑木林の中。空は青く、若葉は緑で、木洩れ陽が美しい。木々の間を抜ける風は快く、季節は初夏と知れる。林を抜けると、草原が広がっている。青々とした草原は陽射しにきらめいて、風に吹かれてゆったりと波打っている。風の中には潮の香がほのかに漂い、遠くには、波の音も聞こえる。
 草原には、林から続く一本の砂利道がある。その道は、草原の中央にある古い洋館へと続いている。洋館は、初夏の風景に溶け込んで、西欧の古い博物館を思わせる。煉瓦づくりの外壁も、門柱に施された浮彫も、長い年月風雨にさらされた跡はあるが、それがむしろ威厳となって、洋館は静かにたたずんでいる。
「また来たね」
「ひょっとして」
「やはりそうかも」
 耳を澄ませる間もなく、突然の人声は、虚空に消える。

§   §   §

 真夜中に自が覚めた。枕もとの時計は、まだ午前二時をまわったばかりだった。僕は暗い天井を見上げたまま、遠くの国道を時折通りすぎる車の音に、耳を澄ませていた。
 目を開いたとたんに眠気は去ってしまっていた。僕は静かな夜気の中で、ぼんやりともの思いにふけっていた。真夏の午後の城あとの風景。汗ばむ開襟シャツの胸元。セーラー服の彼女。僕は真夜中に目が覚めると、決まって昔のことを思い出す。
 隣で沙樹が寝がえりを打った。
「起きてるの」彼女のくぐもった声がした。
「ああ」
 沙樹はゆっくりと体を起こした。細い肩をシーツが滑り落ち、窓から洩れる月あかりに形のいい乳房が浮かび上がった。
「寝てればいい」僕が言った。
「いいの。なんだかわたしも目が覚めちゃった。コーヒーでもいれる」沙樹が訊いた。
 沙樹はシーツから脱け出ると、ベッドの端に腰掛けて、足元に散らばった下着を身につけはじめた。
 僕は体を起こしてヘッドボードにもたれたまま、その様子をじっと見ていた。
 簡単な下着の上に男物のシャツをはおって、彼女が振り返った。
「どうするの。何か飲む」
「いや、いい。外へ出ないか」僕は言った。
「外へ」沙樹が眉を上げた。
「公園へ行こう。缶ジュースでも買って」
「いいわ」
 沙樹は髪をとかして、ジーンズをはき、僕はその間にトレーナーとしわだらけのコットン・パンツを身につけた。
 僕の部屋から三分ばかり歩いたところに、その公園はある。周囲が三キロ以上もある大きな公園だ。街の人たちは緑地と呼んでいる。僕が今の部屋を下宿に選んだのは、その公園によるところが大きい。散歩であれ、ジョギングであれ、とても快適な時間を過ごすことができる。おかげで大学はずいぶん遠くになってしまったが。
 僕たちは近所のコンビニエンス・ストアで、缶コーヒーとサンドウィッチを買って、真夜中の公園に向かった。
 深夜の公園も、さすがにこの時間になると人気はない。僕たちは常夜灯の明かりをたよりに、手をつないで雑木林の中を通り抜けた。たくさんの蓮の葉が浮かぶ池の脇を足早に通りすぎて、僕たちは芝生に覆われた広い丘の上のベンチに並んで座った。
 遠くに美術館の建物が見えている。空は澄んでいて、満月を過ぎたばかりの月が、白く輝いていた。
 コーヒーを一口飲んで、沙樹が口を開いた。
「ねえ、さっきはなにを考えていたの」
「さっきって?」
「ベッドで」
「知ってたのか」
「起きてたもの」
 僕はサンドウィッチを噛って、コーヒーと一緒に飲み下した。
「言いにくいことなの」彼女は言った。
「そんなんじゃない。昔のことをね、思い出したんだ」
 そう、僕が十八で、彼女が十六。春に始まり、夏とともに終わった出来事。
「話して」
「いいけど。明るい話じゃないよ」
 うなずく沙樹の横顔を月の光が照らす。
「高校生の頃のことなんだ。僕が三年になると同時に、その女の子がバスケットボール部に入ってきたんだ。もちろん男子と女子は練習も別だけれど、僕たちはすぐに仲良くなった。同じクラブの先輩と後輩。べつにめずらしい話じゃない。帰りに校門のそばで待ち合わせたり、休みの日には映画を見に行ったり、かわいいものだった」
 僕は言葉を切り、ため息をひとつついた。「どんな女の子だったの」沙樹が言った。
「特別可愛いってわけじゃなかったけれども、黒い髪のきれいな、やさしい女の子だったよ。ファンタジィが好きで、いろいろ読まされた。パトリシア・マキリップとかロード・ダンセイニとか。で、彼女は夏の終わりに十六歳で自殺した」
 その一言を出来るだけ平然と言おうとしたのだが、喉の奥になにかがつかえて、すこし声がかすれてしまった。ずいぶんと昔の出来事のはずなのに、いまだに撲の心の一部分は敏感に反応してしまう。突き刺ったとげを、抜かずにほうっておいたようなものだ。傷口はふさがっても、触れるたびに鋭い痛みを感じる。
 僕は今もその経験を克服できない。経験などという言葉で客体化することすら困難だ。僕はの心はそのせいで今もどこか自分のものになりきっていない。 沙樹は黙ったまま足元の芝生を見つめていた。
「どうして死んだのかは僕にもわからない。彼女はクラブでも人気があった。成績もクラスで十番くらいだった。お父さんは地元の会社で課長をしていた。お母さんはPTAの役員をしていた。お姉さんはもう結婚していたはずだ」
 目を閉じると、はじめて彼女の家へ夕食に呼ばれたときのことが思い出された。駅にほど近いマンションだったはずだ。クリーム・シチューとハンバーグ・ステーキ。僕は緊張しながら、懸命に好青年を演じようとしていた。彼女のお父さんが冗談ばかり言っていたのを思い出す。彼女は困ったような照れたような表情で微笑んでいた。
「そして恋人の僕は、小鳥みたいなキスがやっとの真面目な少年だった。なぜ死んだのかわからない。とにかく彼女は、ある日風呂場で手首を切った」 
 沙樹がゆっくりと僕のほうを向いた。僕の首に両腕を回すと、僕の首筋に頬をおし当てた。彼女の頬の温もりが、ゆっくりと僕の中に広がった。
 僕たちはそのまましばらく、何も言わずに座っていた。
 どこかで鳥が鳴いた。
「その子のこと、今でもよく思い出すの」
「いや、めったに。もう五年以上になるし」嘘だった。
「そう」
 僕たちはどちらからともなく、立ち上がって歩き出した。
 空缶はコンビニエンス・ストアの紙袋に入れて、ごみ箱に捨てた。
 丘を下り、広場を横切って、大きな花壇のそばに出た。
「ごめんね。思い出させちゃって」沙樹がすまなさそうに言った。
「いや、いいんだ」
 こんどは、藤棚の下のベンチに腰をおろした。花壇の真ん中にある花時計は、もうすぐ三時になろうとしていた。僕はポケットからくしゃくしゃになった煙車の箱を取り出した。一本抜きだしてまっすぐにのばし、ブック・マッチで火をつけた。
「君は、なぜ起きていたんだ」僕は話題を変えた。
「わたしも目が覚めたの。夢を見て」
「覚えてるのかい」
「うん。いつも同じ夢を見るの。家の夢。大きな西洋風のお屋敷が出てくるの。林があって草原があって、そこにぽつんとドラキュラ伯爵でも住んでいそうな洋館があるのよ。ううん、そんなまがまがしい雰囲気はないわね。なんだかヨーロッパの田舎にある古い博物館みたいなの」「それで、いつもその洋館が出てくるだけなのか」
「そう、でも、見るたびに近づいてるわ。それに人の気配がするの。中から誰かに見られているような。そう、今日は人の声までしたわ。なんて言ってたのかはわからなかったけど」
「他には」
「あ、それと海が近いんだと思う。波の音がいつも聞こえてるし」
 歩きながら話しているうちに、公園を出た。
「おかしいでしょ。それで目が覚めてもそのことを考えていたの」
「たしかにね。不思議な夢ではある」 ゆっくりと歩いてアパートまで戻った。
 部屋の鍵を開けていると、沙樹が言った。
「帰るわ。送ってちょうだい」
「え。こんな時間なのに。泊まればいい」
「なんとなく、今夜はひとりになりたくなっちゃった。ねえ、いいでしょ」
 というわけで、僕は沙樹を自慢のおんぼろ国産車に乗せて、彼女の部屋まで送った。往復四十分。そんなに手聞がかかるわけではない。四時前には、僕は、自分の部屋に戻っていた。
 とりあえずコーヒーをいれた。どうも眠れそうにはなかった。
 カップをテーブルに置いて、床に座った。 壁にもたれてじっとしていると、やはり死んだ女の子のことが思い出された。
 沙樹に言わなかったことがひとつある。彼女は遺書を残していたのだ。誰もそれを遺書とは思わなかったみたいだが、僕にははっきりそれとわかった。彼女が死ぬ直前、遅れに遅れて出した夏休みの美術の課題、一枚の風景画がそれだったのだ。その絵には、僕たちの高校のそばにある、城あとと呼ばれていた丘の上からみた街の風景が描かれていた。僕にとってその絵は、彼女の叫びにしか見えなかった。淡彩で描かれた穏やかな夏の風景が、僕に向かって叫んでいた。
「たすけて。わたしをここから救い出して」
 僕は、多くの遺品とともに彼女の両親によって見せられたその絵を正視することができなかった。なぜなら、それは、僕が彼女と並んで見た最後の風景だったからだ。
 彼女の様子が変わり始めたのは、夏休みに入った頃からだったと思う。ふいに黙り込んだり、妙に機嫌を損ねたりすることが多くなった。 七月最後の土曜日に、僕たちは、港へ海を見に出かけた。 彼女の作った弁当を食べ終えて'僕たちは埠頭を散歩していた。
 陽射しは強かったが、潮風が肌に心地よかった。僕の半袖シャツが間断なくはためき、彼女の生麻のスカートが風にふくらんだ。彼女の髪は、風に吹かれるたびに細かい砂が指のすきまからこぼれるような音をたてた。
 突提の端で、彼女は僕を振り返った。両頬に笑窪をつくって、微笑んでいた。
「あなたは今、幸せですか」
 間の抜けた街頭インタビューのような台詞と口調に、僕は思わず吹き出した。それでも なんとか顔を引き締め、彼女に合わせて答えた。
「はい、おそらく。なんでしたらその上に、たいそう、と付けてもよろしいかと」
 彼女の笑顔がいっそう深くなった。
「わたしはどうだと思う」彼女が訊いた。
「わからないな」
 僕は、いつか見た外国映画の真似をして、肩をすくめてみた。
 彼女は、口元に微笑を残したまま、海の方を向いた。
「じつはね、とっても不幸なの」
「え」
 と、聞き返した僕の顔は、まるっきりの間抜けみたいだったにちがいない。
「わたしの大好きな両親はとっても立派だし、お姉さんは優しいし、学校もクラブも楽しいし、背の高いボーイイフレンドもいるし。十六歳の女の子にとってはこれ以上考えられないってくらいに、不幸なシチュエーションじゃない」
「よくわからない。それのどこが不幸なんだ」
 今度は、彼女が肩をすくめた。僕よりもずっと上手に。
 僕はなんだか気に入らなかった。彼女の考え方に、どこか不健全なものを感じた。少なくとも十六歳の女の子には似つかわしくない。
「そりゃ、そういう考えかたもあるかもしれない。でも僕はあんまり好きじゃないな」
「いいの。素直じゃないのは自分でもわかってるわ」
 港の風景とは裏腹な、重苦しい沈黙が流れた。
 きらきらと光る水平線の上を一隻の貨物船が横切って行った。
「息苦しいとかそういうのじゃないのよ。当たり前がいやというわけでもないの」
「なら、なぜ不幸なんだ」
「わからない。とにかくむしょうに悲しいの」
 僕たちは黙ったまま水平線を見つめた。 突提を叩く波が、足元で涼しげな音をたてていた。
 彼女はきびすを返して、突提を戻りはじめた。 僕が慌てて追いつくと、彼女は微笑んで言った。
「冷たい物がほしいわ」
 そのときはそれきりになってしまった。
 それ以後は、僕たち三年生は引退試合のための練習で忙しくなり、彼女と満足なデートもできなくなってしまった。たまに練習の帰りに一緒になることもあったが、彼女の不幸についての話題は出なかった。いや、むしろ避けていたのかもしれない。
 そして、引退試合の翌日、夏休みもほぼ終わりに近づいた水曜日の午後、僕たちは教室開放を利用して学校へ行き、城あとで会った。
 伸び放題の雑草をかきわけ、僕たちはほこりっぽい石垣に並んで腰をおろした。
 眼下に広がる街並みが、真夏の陽射しに輝き、陽炎の中でゆらめいていた。
 僕は、こめかみをつたう汗を気にしながら、思い切って口を開いた。
「ねえ。君はまだ不幸なのか」
 彼女は、汗ばむ額に手をかざして、うなずいた。
「とても」それだけ言って黙り込んだ。
 風はなく、周りの雑草の砂ぼこりで真っ白になった葉も、死んだように動かなかった。
「助けてくれない」彼女は言った。
「どうやって」
「どうしてでもいい。とにかくなんとかしてほしいの」
「そんなこと言ったって」
 僕は、彼女の懇願するような眼に、戸惑っていた。
「この不幸から助け出してくれればいいの」
「なら聞くけど、君はいったいどういうふうに不幸なんだ」
「わからないわ。だから不幸なのかもしれない。ただ、やりきれないの。学校も、クラブも、家族も。なんの手がかりもえられない毎日が、重苦しくて、悲しくて、それでこうして、助けてほしいって言ってるんじゃない」
 彼女の声が、だんだんと険しくなった。
「でも、君の不幸が何によるのかが、わからないと。僕は医者じゃない。心理学者でもない。助けるったって、君の望むことをするしかないんだ。君にわからないことを、僕になんとかしろと言われたって」
 彼女は口をとがらせて、目をそらせた。その目に浮かぶ色を見て、僕はなにかが壊れてしまったのを感じた。とにかく、一瞬前まで僕たちの間にあったはずのなにかが、風に吹き払われるようにして消えてしまっていた。今そこにあるのは、冷たい空気、真夏の暴力的な陽射しや、頬をつたう汗では説明できない冷ややかさを持った空気だった。
「もういい」
「なにを怒ってるんだ」
「なんだっていいじゃない。なにかが変わればいいのよ。死ぬとか、壊れるとか、爆発するとか。とにかく、なにかが起こればいいのよ」
 最後は叫びに近くなっていた。見ると、彼女は大粒の涙を流していた。
「泣くんじゃない。落ち着いて」
 僕がうろたえながら肩に手をかけると、彼女は強くそれを払いのけた。
 きっと僕をにらんだ目は、涙に濡れ、怒りと悲しみのないまぜになった光を浮かべていた。
「いつもそうやって優しいふりをするのね。そのくせ、そこから一歩も出ようとしないんだわ」
「どういうことだよ」
 彼女は頭を振りながら、うつむいて涙を拭いた。
「ごめんなさい」顔を上げて、つぶやいた。
 彼女は、目の前に広がる街並を眺め、額にかかった髪をかき上げた。
「この街よ。この街がわたしをこうしたんだわ」
「なら、街を出ればいい。遠くの大学ヘでも行けば」僕は言った。
 彼女は石垣を降りた。冷ややかな表情で僕を見た。
「なにもわかってないのね」
 彼女はそれ以上なにも言わず、僕に背を向けて歩き出した。
 僕は、彼女のあとを追い、二人とも黙ったまま丘を下った。
 駅に着くと、彼女は、じゃあね、とだけ言い残して反対側のホームヘ去った。
 僕は、うん、としか言えなかった。人の背中に表情が現れるということを、僕はそのとき初めて知った。そして彼女のそれは、とても悲しそうだった。
 それ以来、僕たちはあまり話をしなくなった。学校の廊下で時折顔を合わせても、彼女は気のない笑顔で挨拶をよこすだけだった。
 なんとかしないと、と思っているうちに、彼女が死んだ。
 僕は、今でも思うことがある。彼女を死に追いやったものはなんだったのだろう。僕に何ができたんだろう。それは、開かない扉のように、今も僕の前に立ちはだかっている。そして、彼女を助けてやれなかった自分のことを考えると、拳から血が流れるまでそのドアを叩きつづけたくなるのだ。 彼女は、死ぬことで幸せになれたんだろうか。

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