見出し画像

したくない政治のはなしを文学する

政治という単語を入れるとこういったSNSでは忌避されますが……
私の場合、フォロワーが欲しくて記事を書いているわけではないので。
まあ、右だ左だと騒ぐことを目的としているのではなくて今回は文学を読んで考えたことについて、ある種の思考実験を組み立てみたいと思います。
ちなみにこの記事では私の政治的立場が主張されることはありません。ただ、文学それ自体が持ちうる性質的に、そこに触れるとどうしても若干左になってしまうのはあしからず。


東日本大震災を機に、日本は右翼化した。

こんなこと言ったら、
「何を馬鹿なことを」
と思うかもしれません。私自身もそう思います。
馬鹿らしいと切り捨てて結構。けどある種の思考実験的に「震災は日本を右翼化させた」という仮説を捉えてみましょう。


例えば2023年現在、震災後の政治はどうなったか?
・緊急事態条項
・原発の推進(クリーンでグリーンなエネルギー)
・防衛費の倍増

この例は突飛に思えるでしょう。
例えば防衛費増額の直接の契機はウクライナ侵攻だし、原発再稼働は脱炭素社会を理由にすることができます。そこに震災の影はない。

けれどそこに通奏低音のように、あるいはバタフライエフェクト的な力学が作用しているのではないか。
そういった思考実験をしてみるのです。

今の与党は自民党ですが、当時の与党は民主党です。
2011年に菅直人・野田佳彦が政権を握っていましたが、
2012年に自民党が与党の地位を奪還。
この契機となったのが震災なわけです。
その与党・自民党がとうとう原発再稼働へ舵をきった。
ちなみに民主党の血を引く立憲民主党は原発推進を否定しています。
現在の立民と自民の対照的な政治的立場を見たときに、こう想像するのは難しくないはずです。

もし仮に現在も立民が与党の地位にあったならば、
原発推進や防衛費増額を選択しなかったかもしれない


あるいは与党・野党、右翼・左翼の枠を超えてみてもいいでしょう。
なぜならその時、ディストピア的事件がおこったからです。

二〇一一年三月の東京電力福島第一原発事故の際、首都圏で大規模な避難が必要になる最悪のシナリオに備え、当時の菅直人・民主党政権下で首相談話の作成が極秘に行われていたことが分かった。

 本紙(東京新聞)が入手した草案には「ことここに至っては、政府の力だけ、自治体の力だけでは、皆様(みなさま)の生活をすべてお守りすることができません」などと万策尽きた状況を想定した部分もあり、原発事故直後の政府内の危機感をあらためて示している。

東京新聞朝刊、2016.2.20

これが示すのは全体主義への予感です。
国民の万が一が想定される状況において、その危険性が隠匿され「極秘に」行われたこと。もう一つ危機感を煽るような言い方をすれば、談話の作成が劇作家である平田オリザ氏に依頼されたことです。

それに畳み掛けるように、国家主義を予兆させるものが電波をジャックしました。
「がんばろう日本」(なぜ東北ではなく日本全体を興奮させる必要があるのか)です。


ことここに至って、震災が日本を右翼化させたというとんでも発言に
蝶の羽ばたきくらいの信憑性を感じたのではないでしょうか。

それは震災後文学にも表れています。
例えば『宰相A』や『献灯使』などです。これらの作品は「あの時」を経験した日本がディストピア的統制のもとに、保守や右翼化した世界観に支配されています。
少なくとも東日本大震災を機に作家たちは、右翼化した日本を想像してしまった。想像できてしまった。そして上記の新聞のように文学が国家に接近する事実も白昼の元に晒されてしまった。
そのことは確実に、戦前日本で文学報国会のもとに戦争発揚に文学が従属した過去を思い出させたことでしょう。

震災があったことで、確かに我々の些細な感覚に変化が起きたのは否定出来ません。私たち民衆は無意識のうちに全体主義的国家主義的思考の枠組みに組み込まれてしまったはずです(「がんばろう日本」やなでしこジャパンという国家発揚の物語に違和感を感じなかったのがその証拠になりえます)。政治という観点であれば、震災の恐怖や原発への恐怖を利用したショック・ドクトリン、民主から自民へ。
これらが日本を、例えるなら寄生虫の潜伏期間が目立った変化が起きないまま徐々に蝕んでいくように、右翼化させた可能性を、『献灯使』を代表するような文学は想像してしまったのです。文学が想像できたということはつまり、人間が想像できるということです。書き手は人間なのですから。
たとえそれが「震災は日本を右翼化した」というSF的・ディストピア的な思考実験だとしても、そこに人間の想像できる余地があったこと。これは見逃すべきことではないと思います。

文学の想像力は常に現実と隣り合わせにあります。
だからこそ文学において「震災が日本を右傾化させた」という想像が働いたという紛れもない事実の根底には、リアル(現実)があったことを心に留めておく必要があるのではないでしょうか。たとえ文学において「震災を機に日本は戦争を始めるようになった」という一見突拍子もない設定を用いたのだとしても、です。なぜなら文学がそれを想像できたことの根拠は、現実に求めることが可能だから。文学(虚構)はいつも現実を出発点としているから。だからこそ私が示した冒頭の思考実験はある種の真実味を帯びるはずだし、それを物語(虚構)だからと一笑に付すことなんてできないのです。