文芸時評と第169回芥川賞からわかること
わたしは新聞5紙(読売、朝日、毎日、日経、東京)を読んでいます。
東京新聞8月30日夕刊の文芸時評にとても共感したので、備忘録として記事にのこします。
出版の役割はまさにこのことなのだ、と強く感じました。
正しさからこぼれ落ちてしまうもの、それを拾って言葉にしていくことこそ小説に求められることなのだと思います。
社会的弱者や少数者の声(そのなかでもあまりに小さく、少ない声)は無視されてしまいがちです。あるいは「空気」によって報道・放送しにくい事柄も少なくありません。
例えば当事者という問題。東日本大震災のとき、コロナ禍のとき、誰が当事者だったのでしょうか。
津波の被害者? 放射能被害者? 遺族?
そうならば、放射能を恐れて(実際は被曝していないのに)熊本に逃げた人間は当事者と言えるのか。
わたし自身も震災の影響で被災しましたが、命や家族を喪ったわけではありません。確かに原発事故で故郷を奪われた人や津波で愛する人を亡くした「真の当事者」とは被害の規模が違います。けれどわたしだって艱難辛苦の思いだったこと、その意味で被災者だと言いたかったのです。
ここで私が「辛い、苦しい」とSNSで発信したとしても、外野からは
「本当に大きな被害を受けた人のことを考えて発言しろ」
「津波も被曝もしていないじゃないか」
「原発の恐怖を過度に煽ってるだけだ」
と言われることでしょう。
それは正しい言説であるかもしれません。
けれど、そこからこぼれ落ちた私のような人間はどうなってしまうのか。
言葉にすることさえ認められないのか。
だからこそ小説があるのです。
「正しい」言説に盲従せず、ある意味空気を読まないような物語を紡ぐこと。
それが正しさからこぼれ落ちる人を掬い上げることだし、そのことに作家の想像力の発揮する余地があるのだと思います。
文芸時評の筆者・伊藤は『##NAME##』(児玉雨子)に触れてLGBTのことにも言及していました。確かにLGBTに関する言説はほとんど「正しい」のかもしれません。しかし彼はそのような言説を目指すべきものとして強要することには疑問を呈しているのです。
LGBTや原発問題、戦争というテーマにはある種の語るべき言葉の「型」があって、それが正しいとされています。
しかしながら、その正しさによって思考停止に追い込まれてしまわないことが大事なのだと、時評を読んでいて感じました。