見出し画像

エクアドル人のおっさんは空を飛ばない。

おっさんはエクアドルからきた。

おっさんは何故か、スーツケースをもっていなかった。その代わりに、ビニールのゴミ袋にありとあらゆる荷物を入れていた。

おっさんは英語が話せなかった。しかも、おっさんの携帯はガラケーだった。どうやらエクアドルからきたらしい。

僕は友人とトルコを10日間旅していて、パムッカレという町にたどり着いた。そこでおっちゃんと出会った。

パムッカレは晴れていると空を映して青一面に染まる世界遺産だが、その日は曇天で、水面はどんよりとした灰色を映し出していただけだった。(トルコは地中海性気候で、冬は湿っていて、夏は晴れている。パムッカレに行くなら夏をお勧めする)

おっさんとは現地で同じツアーで回っていて、そのときは特に絡みはなかったのだけれど、深夜バスまで時間があってツアー会社の事務所で3人で待っていた。現地のツアー会社にオススメされ、僕と友人はパラグライダーやることにした。不思議なのは、おっさんである。おっさんはパラグライダーをやらないが、僕たちが飛ぶのを見たいという。どうやら、パラグライダーが怖いらしい。しかも、特に仲良い訳でもない僕達をわざわざ見送りに山頂まで行くという。世の中には、不思議な人がいるものである。

こんな山頂から、パラグライダーを飛ぼうとする僕らの方が、不思議な人なのかもしれない。2メートル先が見えなかった。曇っていることは、灰色のパムッカレを思い出せば予想できたはずだった。僕たちは、愚かだった。おっさんの姿は見えなかった。

しかし、飛ばねばならぬ。僕たちは愚かであり、1万円も払ってしまったのだから。

3 2 1 GO! の掛け声とともにインストラクターにけしかけられ走り出し、体が空に浮いた。インストラクターは霧の中を、まるで岸壁が見えているかのように巧みにグライダーを操縦した。

地上に降りたら、おっさんがいた。何故だかわからないが、おっさんが僕らを見ていてくれたことが嬉しかった。僕らは記念に写真を撮った。

それからは、あてもなくパムッカレの町を歩いた。町は20分も歩けば1周できてしまう。英語まじりのスペイン語で話すおっさんが何を言っているのかはほとんどわからなかったが、僕と友人とおっさんには、何か通じ合うものがあった。おっさんは結婚して子供がいること、仕事は家の建築士であること、トルコには建築を見にきたことがわかった。町は静かに、確かな生活感を漂わせて僕らを見つめていた。

やがて、パラグライダーの着地点に戻ってきた。町を一周するのに、とても長い時間をかけたような気もするし、本当に短い間だったような気もする。そう、とにかく、僕らは戻ってきたのだ。

示し合わせることもなく、しかし示し合わせたかのように、僕らは立ち止まった。太陽は傾き、トルコの大地に微かな熱を帯びさせていた。

もう、僕らに言葉は必要なかった。おっさんがパラグライダーを待っていることがわかった。僕らはひとつだった。ただ、パラグライダーが山陰から姿を見せることを祈り、ただ待った。

どれ程待ったのかは、よくわからない。最後の一団が群青の空を滑空している姿を認めたとき、僕らの関係性は完成した。悠々と滑るグライダーが地上に降り立った時のことは、あまり記憶にない。ただ確かなことは、パラグライダーを待つ僕らの祈りが、その瞬間、世界で最も尊い時間だったということだ。

_______________________________

次の街でも、一度だけおっさんと出会った。トルコを離れる前日のことで、僕はおっさんに、丘に夕陽を見にいこう、と言った。おっさんはモゴモゴと何かを言ったが、どうやら宿に戻るようだった。

おっさんとは、それっきりだった。

きっと、おっさんとはもう会うことはないだろう。パラグライダーを待っていたあの時間が、僕らの関係性の終着点で、あの時間を過ごすために僕らは出会ったのだと思う。

おっさんの名前は、もう覚えていない。



カツ丼食べたい