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中学時代の剣道部の思い出

 小学生の時にずっといじめられっ子だった僕は、「中学校ではいじめられないように、文化部ではなく運動部に入ろう」と考えました。当時、『六三四の剣』という熱血剣道漫画にはまっていた僕は、剣道部に入ることに決めました。剣道部の練習はとても厳しかったし、僕は運動神経が良くなかったけれど、誰にもいじめられたくなかったので必死に練習に取り組みました。しかしながら結局は、将棋部に入っていた同じクラスの永持くんにいじめられました。

 当時(1993年)は教師が体罰をするのが普通で、化学の先生は伸縮式の銀色の指し棒を用いて、宿題を忘れてきた生徒の頭頂部を強めにひっぱたいていました。将棋部の永持くんはそれを見て「これはいじめに使える!」と思ったようで、化学の先生のものと同じような指し棒をわざわざ購入し、とても楽しそうに僕の頭頂部をひっぱたくようになりました。

 永持くんとは同じクラスで、僕のすぐ後ろの席に座っていたため、授業中でも僕の頭頂部を後ろから指し棒でひっぱたきました。あまりに執拗にひっぱたくものだから、僕はほとんど授業に集中することができませんでした。永持くんにひっぱたかれることのない、音楽の時間や体育の時間が僕の心のオアシスでした。そして永持くんの伸縮式の指し棒は、少しずつ湾曲していきました。僕はその湾曲を見ると、永持くんにどれだけの回数ひっぱたかれたかを想像することになりました。たぶん2千回以上はその指し棒で頭を叩かれたと思います。いまの僕の頭がちょっとおかしいのも、もしかしたらそのせいかもしれません。

 僕は将棋部の永持くんだけでなく、バスケ部の指田くんと船木くんにもいじめられていました。細身の体をした整った顔立ちの指田くんには「お前、俺の舎弟になれよ」と冷徹な笑みを浮かべながら言われ、断る余地なく舎弟にさせられました。指田くんがジャイアンだとすると、船木くんはスネ夫みたいな奴で、いつも指田くんの後について歩いていたし、指田くんと一緒に僕をいじめました。僕は指田くんのことよりも、指田くんの顔色をうかがいながら僕のことをいじめる船木くんのことの方をより憎みました。

 中学1年の終わりが近づいたころ、僕はついに登校拒否をし始めました。するとそれにびびったのか、指田くんも船木くんも永持くんも、僕をいじめるのをやめました。急に腫れものに触るような扱いをするようになったのです。僕は笑ってしまうと同時に、「登校拒否くらいでびびってんじゃねえよ! どうせならもっと信念を持っていじめろよ! じゃないといじめられ甲斐がねえよ!」と思いました。

 父親の仕事の都合で、僕は引っ越すことになり、中学2年の4月から別の中学校に通いはじめました。中学2年から別の学校の部活に入ることに強い抵抗を感じた僕は、帰宅部になってしまいました。結局、剣道部には1年間しか所属しなかったことになります。しかも剣道初段どころか1級すら取得することができませんでした。中学1年の剣道部員は全員1級を受けたのだけれど、10人くらいのうち僕1人だけが不合格になりました。ひじょうに居たたまれなかったです。1級の試験のあとの講評で、審査長の人が「悪い例」を述べたのですが、その「悪い例」にことごとく僕が当てはまっていたので「そりゃ、落ちるわなあ!」と笑い泣きしました。ちなみに、剣道部には1年間しか所属してなかった上に1級すら持ってないくせに、メイドカフェなどに行くと「僕は昔、剣道部に入っていたんだ」とドヤ顔で言ってしまいます。そして、1年しかやってない上に1級すら持ってないのがバレないうちに話題を変えます。浅ましい男です。

 ところで、僕は『六三四の剣』がきっかけで剣道部に入りましたが、最近は大人気漫画『鬼滅の刃』がきっかけで剣道を始める子供が多いと聞きます。でもツイッターで見たんですけど、ある剣道の先生が「剣道をやっても、全集中とか水の呼吸とかを使えるようにはならないよ」と子供に向かって言ったらしいです。「キラキラした夢を持って剣道を始めた子供たちにそんなマジレスをするんじゃねえよ! 真面目か!」と思いました。やり方によっては、全集中とか水の呼吸とかに近いことは出来るようになるかもしれないじゃん。だからそんなつまんない大人の言うことなんて聞かなくていいよ。僕はそう子供たちに言ってあげたいです。まあ僕は水の呼吸を会得するどころか1級にすら不合格だったんですけど。

 話は戻りますが、僕は皮肉なことに、ずっと帰宅部だった中学2年以降のほうがいじめられませんでした。中学3年のときには、その中学校で最も恐れられている最強の不良になぜかひどく気に入られ、まったくいじめられなかったです。彼の名前は北村くんと言います。中学を卒業した後はぜんぜん会ってなかったけれど、成人式のときに一度だけ会いました。成人式のあとの同窓会の2次会において、北村くんの隣で僕はカラオケを歌いました。ゆずの『友達の唄』でした。僕は北村くんが中学時代に僕を護りつづけてくれたことを思い出し、途中からボロボロ涙を流しながら歌いました。

 北村くんには今でも心から感謝しています。ものすごい不良だったけど、明るい性格で、とても優しい一面もあったので、今ごろ家族をつくって幸せに暮らしているんじゃないでしょうか。北村くんがあんなに護ってくれたのに、僕はこんなろくでもない大人になってしまいました。北村くんごめんなさい。これからは少しでもより良い大人になれるよう、頑張っていきたいと思っています。もしよかったら、この世界のどこかで、温かく見守っていてください。

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