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コミュニケーションのズレ、違和感、誤解を解消していく

おはようございます。
先月からはじめた、カウンセリングの時間。

4月は、友人から、相談したい・話したいと連絡があり、ゆっくりお話を伺いました。

特に意図したわけではないのですが、自然とその方のお仕事(使命感を持って、取り組みたいこと)の話題に流れていくようです。

今すぐにでも動き出せそうな「やりたい」を伝えていただいたので、一緒にプランニングまで行っていきました。

親でも先生でもない第三の大人の存在が、子どもの育ちを支え、それは親にも助けになってくれるはず、という話題が中心だったのですが、

お話を聴いていると自分にもひとつ気づきが。

<今の子育ては孤立しやすい、親と子どもが1対1になりやすい>
<子育ては、母親ひとりで頑張らなくてもいい>

ということはよく聞かれることです。

そして、それとセットのように、「以前は、両親が同居していたから」「以前は、近所付き合いがあったから」良かったのだということがありますが、現代の子育て真っ只中の私にとって、これは長らく、違和感があり、受け取りにくいものです。

「そう言われても、その状況は受け入れられない。」というのは私だけではないと思うのですが、これは届けたいサポートと、ニーズとがずれている現象なのではないか?と感じます。

そしてズレが生じる理由は、「両親が同居」「近所付き合い」ということはあくまで表層の部分だからではないでしょうか。

その環境の中で生じるどのような状況が、親子を助けていたのか?ということをくっきりさせてあげることで、ズレを解消していく助けになりそうです。

先ほど話題の中心としてあげた、

親でも先生でもない第三の大人の存在

というのは、偶然出会った気の合う大人が、どこかにいてくれるという状態のことをイメージしています。

習い事の先生でもいいし、友だちのお母さんやお父さんでもいいし、たまに顔を合わせる近所の大人でもいい。そうした人の存在が、その人の人生を大きくサポートしてくれるということが有るのではないでしょうか?

そうした気のいい大人に出会えるチャンスというのは、「同居」「近所付き合い」のある時代には得やすかった、ということのなのではないでしょうか。

  • 両親の世代が近くにいて、経験者からの智慧を得やすいということ。

  • 地域の人とのつながりの中で、自分にあう大人に出逢いやすいということ。

私には、幼い頃の幸せな原風景というのがあまりなく、、「昔は楽しかった」「あの頃に戻りたい」という感覚が生じないのですが、

「同居」「近所付き合い」のあった、昔の幸せな原風景を思い浮かべることができる方は、そうした感覚とともに、「人とのつながり」があるといいんだよと伝えてくれているのかもしれません。

今、それが得られにくいのだとしたら、「親でも先生でもない第三の大人の存在」に巡り合う場所を、受け取りやすい形でつくっていく。そして、子どもにとって「好きな大人」が見つかるなら、そういう機会は是非利用したいと、当事者として感じます。

その人自身の本当の願いや、才能などもそうなのですが、
こうしたコミュニケーションの伝えたい根幹の部分がしっかりと表に出ているか?

根っこや軸の部分を見極めて、整えていくことが本業のようです。

5月も1〜2回ほど時間を空けておこうと思います。
詳しい日程は連休が明けた頃にお知らせする予定です。


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