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”書く”という行動とその動機の変化

僕は書くことが大嫌いでした。読むことだってそう。活字に触れるということが、とても苦痛でしんどくて、吐き気さえしていました。

そんな心理カウンセラーの、フミでございます。

みなさま、こんにちは。

今日は僕にとって「書く」という行動の裏にある動機について考えてみました。やや長めです。


書くことへ絶望していた学生時代

何度も言います。書くことが大嫌いでした。
それはもう異常なくらいに。

子供の頃、母親が絵本の読み聞かせをしてくれた記憶は確かにある。だけど、そんなことよりも外で遊んでいた記憶の方が鮮明に残っていて、とにかく家でも学校でも”活字に触れた記憶”というものが全くない。そんな幼少期でした。

高校卒業した時点で読んだ本は30冊もない。大学入試センター試験(現共通テスト)での国語の点数は、200点中33点。留学していたオーストラリアで、日本人の友達に「これまでの人生で読んだ本、50冊もないよ」と言ったら「お前これからどうやって就職すんの?笑」とドン引かれたこともありました。

「趣味は読書です」とか「書くことが大好き」という人を見るたびに、全く別の世界に生きている人たちだと僕は思っていました。それにしても、読むのはまだいい。”書くこと”に対しては、異常なほどに触れたくなかった。なぜなら、自分の文章力のなさや拙さがモロに出てしまうから。とてつもなく恥をかくから。学校で読書感想文や作文を提出する宿題が出た時には、先生の顔をぶん殴ってやりたかった。それぐらい、書くことに異常な執着というか、嫌悪感が半端なくありました。そしてこの【読めない・書けない問題】は、年を重ねるごとに強烈なコンプレックスとなって存在感を漂わせてきたのです。

日本という国に生まれたのに、日本語が読めない、書けない、触れたくない。これはもう致命的であり、絶望でした。何かの病気かもしれないと本気で思っていました。

もがいた日々

時は流れ、(奇跡的に)社会人となった僕は、入社した会社で初めてビジネスメールを打つようになります。

社会人になって初めて書いたビジネスメール。そのメールを送信する前に、先輩に確認してもらいました。そしたらこんなフィードバックが返ってきたのでした。

「まさか、このまま送ろうとしてないよな?なんだこれ?日本語?」
「この主語に対する述語どこ?言いたいこともわからんし。書き直せ」
「普段、全く本読んでねーだろ?…なぁ?それが全面に出てるぞ」

ひどい上司がいたんだわ(^^;

メール作成や資料作成、ことあるごとにパワハラまがいなキツイ指摘。IT業界へ転職してからは、その度合いがさらにキツくなっていきました。それもそのはず、繊細な情報を扱う業界。ITの世界では、小さなミスが情報漏洩だったり、ハッカーからのターゲットにされたりと危険性を伴った一大事になりかねない。だからなのか、ほんのちょっとのタイプミスや誤字脱字を見つけられては揚げ足を取られ、みんなの前で吊し上げる。業界ではデフォルト?(めちゃくちゃ偏見)かもしれないけど、その風潮や文化が僕にとってもう地獄のように苦しかった。IT業界ってなんであんな揚げ足取り多いの??笑

先輩や同僚の書く文章が素晴らしくて美しく、それを見て落ち込んでは絶望する、という毎日。せっかく入社したんだし、すぐに辞めたりしたくない。いればいるほど会社に対して申し訳なく、せめて周りと同じレベルにならないと。その気持ちが高まるほどに、焦りや不安、そして罪悪感が募るばかり。周りから『無能なやつだ』なんて思われたくない、自分のコンプレックスがバレたくない。その一心で、自分の書いた恥ずかしい文章を【一般的に受け入れられるマシなレベル】にまでに仕上げる日々が続きました。

余談ですが、あの時の僕は自分を見失っていました。『アイツら絶対見返してやる』と周りへの対抗心や競争心をむき出しにしながらも、感情は常に抑圧し、”ニセの自立”を演じていた自分。嘘の自分。あまりに辛い時ともなれば、人の揚げ足を取りに行き、自分が吊し上げる側にもなっていました。比較・競争の世界を生きていて、仲間がおらず、自分以外は全て敵。自ら進んで職場を戦場に作り上げていたのです。

はぁー。。今思うとさ、そんなこと…本当はしたくなかったのに。

罪悪感から向上心へ

そんな戦いを経たのちに、IT業界からウェブ業界へ転職。業界も、職種も、人間種類も、全てが変わりました。

新しい会社へ入社して数ヶ月経ったある日のこと。いつものようにメールを返信し、資料を作成していた最中に、長年勤めた先輩社員の1人から

『あのさ、文章、うまいよね』

とボソッと言われたんです。一瞬、え??と思ったのですが、当時の僕はそんな言葉を素直に受け取るはずもなく、「へー、そうなんだ」程度にしか思いませんでした。

その職場に入社してからは、メール以外でも”何かを書く”タスクがたくさん僕のもとに振られてきました。仕事を振られるその度に、気を使って、恥かかぬよう、無難でマシな文章を書くように徹底しました。主語述語を意識する、最適な形容詞をググって使う、語尾や言い回しに注意、短く簡潔にまとめる、などなど。たくさんのネット記事や本、いろんな人のブログを読み漁り、とにかく盗めるものは盗むぞ!という感覚で、”書くこと”をこなしていきました。

それからしばらくした、ある夏の日の午後のこと。僕はメール返信の準備中でした。いつも以上に複雑な内容を、しかも結構なボリュームで書いていたのですが、その時ふと気づいたことがありました。

【文章書くのって、おもしれぇ】

初めてでした。そんな思いがふと湧いていることを初めて感じたんです。以前ほど、変なプレッシャーや恥ずかしさを感じることなく書くことに向き合えている自分がいました。書くことへの情熱?みたいなものが、知らぬ間に沸いていたのです。工夫を凝らして文を構成し、書くことでいろんな自己表現ができることに、なんだかワクワクしていたんです。あんなに無縁だった世界に、一歩足を突っ込んでいた自分がいました。

その動機はネガティブ?ポジティブ?

先日、先輩カウンセラーである渡辺サヤさん徳永麻由子さんの講座を受けて、罪悪感や劣等感について学びました。その時にとても響いたのが、この『行動の裏にある動機』の部分。講座が終わってから、自分が向き合ってきた”書くこと”への動機について考えてみたんです。

以前だったら、「こんな自分は無能でポンコツだから」とか「会社への申し訳なさ」「上司や先輩など周りに対する心苦しさ」など、いわゆる罪悪感や劣等感からくるネガティブなモチベーションを使って《ダメな自分を埋め合わせるように》文章を書いていました。マイナスからゼロを目指す、そんなイメージです。

そして、そのどんなにやっても埋まらない自分を、埋めよう埋めようともがき苦しんだ矢先には、「もっと上手くなりたい」「もっといろんな表現を学びたい」「もっと伝わるように書きたい」という向上心やワクワクがベースになって《自分らしく、楽しみながら、相手も喜ぶように》文章を書いている自分がいたんです。ゼロをプラスにしていく感覚、で。「どうやったらこの感じが伝わるかな」「この表現、ここで使うとめっちゃ響きそう」と頭で試行錯誤することが楽しく、だんだん”書く”という行為に対しての動機がマイナスなものからプラスなものに変わっていたのです。

こんな感じ?

無能でポンコツだから(という罪悪感・劣等感)を動機として、ダメな自分を埋め合わせる&周りに迷惑をかけないように(という補償行為で)文章を書いていた。

ネガティブな動機

でも今は、

もっと文章が上手くなりたい、もっと伝わるように書きたい(という向上心やワクワク)を動機として、自分も楽しく&相手に伝わるように(与える意識で)文章を書くようになった。

ポジティブな動機

文章を読んだ相手が喜び、書いた僕の方も喜びを感じられる。要するにお互いウィンウィンになる『与える意識』に変わっていった。そういうことです。

行動よりも動機を意識

と、いうことで。

みなさんは行動のモチベーションや動機について、どれぐらい意識したことがあるでしょうか。

それって罪悪感?劣等感?不足しているから?そのための補償行為で?

それとも、単純に楽しいからですか?成長できるから?相手が喜ぶから?そして自分も嬉しい?ウィンウィンな関係?

「あの社員の行動、まさに正義そのものだ」
「うちの後輩、行動の一つ一つが全ての見本みたい」
「昨日パートナーが私にしてくれたこと、もう感激で涙出そうで」

行動って目に見えるけど、動機は目に見えません。

あなたがとっているその行動。

その裏にある動機には、一体どんな感情がありますか?
それが示すことって何でしょうか?

行動するのはもちろん大事。でもそれに紐付く動機を知るのもすごい大事。

動機を知ることで、本当の自分を見つけられるのかもしれません。

心理カウンセラー フミ


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