コロナ禍で、話すネタがない問題/我慢はどこまで、したらいい?を、冷静に考えてみた
「もう話すことがなくなりました」と、ラジオで言っていた。コロナ禍で、最近何にも新しいことをしてないから、と。
たしかに、今は、ただ生きているだけだ。月日は呆れるくらいに過ぎていく。それだけでも普通に偉い。
毎日スマホを、するために俯く。そりゃあ、ストレートネックにもなる。前なんか、そんなに見ていない。最近は、先を見ちゃだめだと思う。未来のこと、考えたら、おかしくなる。今だけでいっぱいいっぱいだ。一歩先さえわかりゃしない。
ドラマの鮮度は、短くて
ドラマを、退屈紛れにみる。復讐したとか、付き合ったとか、敵を倒したとか、結末は驚くほどシンプルだ。途中が楽しいからみれる。
結末が思い出せないものも多くて、昔の作品が配信されていると、たった2.3年前なのに、すごく古く思える。アニメは違うけど、ドラマは流行ったものほど、奇妙に映ったりする。体罰とか。
現状維持の、ぬるま湯で
あるブログをみていたら、「体罰が、もう少しあってもいい」と言う人がいて驚いた。「しつけ」だそうだ。じゃあ、どのくらいの力で、叩けば合法なのだろう?圧力1キロとか、測定するハメにもなる。拳が当たらなきゃいいのか、とか。
そんなこと、うんぬんしていたら、頭がおかしくなりそうだ。この「どこまで許すか」という議論が、日本では時間がかかるみたいだ。そもそもokかngか、と議論するだけで、なかなか結論が出ない。変わらない。
「でも、こんなケースもありますよね」と、稀なことを口にしたり。そんなことを言っていたら、本当にキリがない。飴だって飲み込むかもしれないから、危険だし、木の枝だって、肌を傷つけるかもしれない。
うかうか、外にだっていけたものではない。「ファクトフルネス」を読んで、ポジティブな情報を得て、安心したい。気休めでも。危険な地域に住んでいたら、毎日ヒヤヒヤとしなきゃいけないのか。
どうせなら、嫌なことさえ、楽しみたい
いじめられていたら、毎日辛い思いをしなきゃいけないのか。世の中には辛い目にあっていても、その後の人生を楽しめている人がいる。
おんなじことを、体験しているのに。それを糧にする人と、傷を負う人。もちろん、差別やいじめなどは無くすべきだ。それと同様に、たとえ嫌なことを言われても、楽しめるようになりたい。
言われた言葉は、取り返しがつかないから、こちらで処理するしかない。たとえ相手に謝られたとしても、ムカつくものはムカつくので、捉え方を柔軟にするしかない。
辛さを、糧にするために
糧にできる人と、そうではない人の、何が違うのか、正直よくわからない。時々思う。周りの人には悲しいかもしれないけど、昨日の記憶を捨てて生きたら、もっと違うのではないか、って。
結局、思考が邪魔をしている。自分の思考が。
10才の頃の嫌な思い出を、120才まで、覚えていたくはない。なら人間って、いつ消化するんだろう。いつまでも消化しないのは、周りの人間だけではなく、自分にも良くない。
嫌なことがあると、愚痴るために呼びつけたり、電話してくる人がいる。その人の嫌な感情は、呼びつけられた人にも、植え付けられ、その感情を受け取った人は、さらに誰かに、話すだろう。まるで、デフレスパイラルのように。
些細な嫌な出来事は、テトリスで消せ
一つ一つは、些細なことでも、例えば、オーダーミスされたとか、それくらいなら、何てことはない。でも、疲れていたとか、誰かに怒られた後とか、失恋したとか、新境地で色々と不安だとか、そういうことが積み重なって、マグマの如くになる。
だから、はやいこと、テトリスみたいな感じで、始末しなきゃならない。なのに、ポイントみたいに貯めていることに気がつく。どうせなら、いいことを貯めたい。
でも、それはほんの些細なことだ。昨日より、ぐっすり寝られたとか、少し上手く料理を作れたとか、いつもより早く仕事が終わったとか。
我慢はどこまで、したらいい?
どの本でも言う。習慣は、私たちを形作る、と。だから、良い習慣を身につけなさい、と。そんなことは、わかっているんだ。でも、一体今、私たちは、どのくらい我慢したらいい?
このあまり動けない生活の中で、やれファストフードは良くないとか、砂糖も良くないとか、紫外線はあんまり浴びちゃいけないとか、牛乳はどうか、カフェインはどうか、とか。でも苦手な運動はしてください。全部「ライフスパン」に、書いてあったことだけど。
スマホは、横になってやると、目に良くないらしい。わかるんだけど、難しい。かといって、ずっと座ったままも良くないし。そんなことばかり考えていたら、毎日、落ち着かない。
どこまで、我慢すればいいのだろう。決して、今すべきことじゃない。唯一の楽しみを、今奪わなくてもいい。こんな時期だから、いつもにも増して、「してはいけないこと」が多い。でも、どこまで我慢できるか。「これは絶対我慢できない」と、いうことも人によって違う。
他人に害を及ぼさない範囲で、楽しもう
外に行かないのは、なんとか頑張るけど、唯一の課金対象であるカフェに行かないなら、その分コーヒーと甘いものを家で楽しみたい。それもダメなんて、今は考えたくもない。「じゃあ、何をすればいいのかい?」と、なるから。
一日に、お菓子は、片手におさまる分なら、良いという話も聞く。健康のために、ストレッチや運動はしているけど、できる努力とできないものがあるなぁ、と。
現代は、我慢が多い。もちろん、戦時中とかと、比べたら、断然良いけど、種類の違う我慢が増えた。それは、コロナ禍に限らず、なんとなく空気に漂っている。
人のことを全く、気遣わなくて良くなって、本当に何でも自分が好きなことをしていい、と言われたら、しないことなんてたくさんありそうだ。
これは、別に利己的になることではなくて、少なからず人は親とか、周りの人の反応を見たり、期待にこたえたり、しているものだから。
でも、本当は、ありもしない期待なのかもしれない。彼らも、自分のことに忙しいから。我慢しなくていい、というのは、もちろん他人に害を及ぼさない範囲なら、だ。
この生活が終わったら、みんな好きなように生きよう!って思う。だから、あと少し。でも、先は見ずに。今を生きよう。
余談だが、昔のお話(実話もある)ではよく、病気なので家からずっと出られないで、窓から一日中外を見ている少女とか、戦争中に、匿ってもらった人が、外に出ると外国人だと、バレて捕まってしまうし、匿ってくれた人に悪いから、とずっと外に出ない生活を送っていたりする。
童話でも、お姫様は幽閉されているし、「外の世界はきっと楽しいのだろう」と思いながらも長い間、継母や、老婆の嫌がらせで、外に行くことが出来ない、という話は、よくある。実際に、昔のお姫様は、相当、退屈そうだ。
そのような気持ちになってみるのも、良いような気がした。
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