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「EV、カーボンニュートラル、メタバース」の、話が通じない?〜私は、どうもビジネス書を読みすぎて、「ビジネス人間」になってしまったようだ。



先日、外国人と話していて「EV」が通じなくて、驚いた。母と話していた時にも、「ECでさぁ〜」と言っても、「うざい、カタカナ語人間になったなぁ」という雰囲気を漂わせ、「ECって何?」と言われた。

以前も「哲学的なアイデンティティ」の話を哲学好きな知人と、話していたら、「アイデンティティって?」と、言われ、困ってしまった。

日本語でうまく説明できないと、「それを知らない人のような」印象を、相手に与える。

以前私は、いわゆる「カタカナ語」ばかり話している人を、うとましく思っていたのだが…

例えば、「アジェンダを、アズスーンアズポッシブルで」みたいな人のことを。

もしや、「私はその手の人間になってしまったのか」と、思う。かといって、私は別に、馬鹿にするためにそれを話しているのではなく、「みんな知っているだろう」と、鷹をくくっていたのだ。

それに、よくよく考えると、ほとんどの専門用語はカタカナだ。「スマホのOSをアップデート」など、「OSって何?」と言われても、答えるのは難しい。

以前、携帯を持っていない人に、「携帯は、何に使えるの?」と、聞かれた時も、それは難しい質問…と、答えに困った。

それ以外にも、政治や経済などで、「エアロゾル」「アウフヘーベン」「ベア」「アルゴリズム」「カーボンニュートラル」などの意味をいきなり聞かれても答えることは難しい。

私が知らない分野の本を読めば「知らないカタカナ語」が、羅列している。
別にそれは「カタカナ語」に、限らないけれど。

たまに祖母などと話す機会があると、「スマホ」と言っただけで、「あ、またカタカナ語を使ってしまった…」と、自省する。それでも意識していないうちに、「カタカナ語」は、存在する

これらの言葉を、周りはどれくらい知っているのかわからないままに、私たちは「みんなが知っている」と、思いがちになる。

しかし、本当に人々の知識は「ある部分には異常に詳しくても、ある部分を全く知らない」のだ。

だからだろう。そのことを知っている外国人のビジネス本には、「アメリカには、●●という歴史がある。そして、日本は●という文化がある」と、知らない人にもフラットに書くのに対して、


日本のビジネス書は、「まだ、●●してないの?それは、オワコン」「●●ごときも、知らない人がいるのに、呆れるのを通り越して〜」などと、書いてある。

本に書かれている、そう言った類のマウンティングを、鵜呑みにしてはならないと、強く思った。


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