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子どもの頃に感じた不安な気持ちが小言につながっている

こんにちは、ふうこです。

気づきがあったので、備忘録として記事を書きます。
気づきの内容は、タイトルの通りです。

この記事は完全に自分のためにあります。不安な気持ちを浄化するために、この記事を書いています。
読みやすさとかあんまり気にしない書き方になっています。
そして、とても長い記事になります。
それでも良い方は、読み進めてください。


今朝の話です。

娘(小1)は、髪が長めです。肩ぐらいまであります。
エルサくらい長くしたいようです。

でも、髪のお手入れというものには無頓着です。
ボサボサでも気にしていません。
ボサボサの毛を梳かすと、絡まった毛がひっかるので痛いので、梳かしたくないようです。

私はそのボサボサの毛が嫌です。
髪が伸びている状態のボサボサがとても気になります。

娘は髪を梳かしても、表面のしかも前側しか梳かさないので、後頭部が特にボサボサです。
伸ばすなら、綺麗に梳かすか、結って欲しい。

ここで、ホオポノポノを唱えれば良かったのですが、つい、小言が出てしまいました。
送迎の車の中で、身だしなみが防犯にも繋がるんだよという話をしました。

子どもはやっぱり不貞腐れてました。
聞いてはいるし、一応「分かった」とは言ってましたが、正確には「お母さんの話は聞いた」という意味での「分かった」であって、「記憶しておくかどうかは別」という感じでした。

こういうお説教みたいなものって、聞いている子どもも、言っている自分も気分がいいものではありません。

昨日の「面白くなる選択を」の基準でいけば、選択すべき行動ではないと分かります。
でもそれが出来なかった。どうしてか?

そんなことを思いながら、自分を見つめてみました。

そうすると、
「子どもが悪い人に目をつけられたら怖い」
「子どもが髪がボサボサということで、お友達からいじめられたらどうしよう」
「子どもが悪い人に目をつけられるという体験はしたくない」
「子どもがいじめられるという体験はしたくない」
という思いを見つけました。

車の中で子どもに話をしている時は、「子どもの安全を守るため」とかそんんな気持ちで話していましたが、突き詰めていくと、自分のことばっかりでした。

もっと言ってしまえば、私は小学生の時にいじめられていたので、そこにつながりそうなものを排除したいという心理も働くようです。

もっと、身だしなみに気をつければ、いじめられなかったんじゃないか?
もっとハキハキしゃべれば、いじめられなかったんじゃないか?
もっとニコニコしていれば、いじめられなかったんじゃないか?
もっとクラスメイトと話していれば、いじめられなかったんじゃないか?
もっともっと…。

こんな具合です。

子どもの頃、本当にマイペースでした。
息子もそうですが、私もクラスメイトに休み時間遊ぼうと言われても、「本が読みたいから。」と断ってしまうタイプでした。

いじめられた原因はよく分かっていません。
中学生くらいになって、小学生の頃いじめていた子に何でいじめていたのか、質問したことがあるのですが、「⚪︎ちゃんが気に入らないって言ったから。」と返って来ました。

⚪︎ちゃんは、一見大人しい感じでした。いじめるという印象はなかったです。爪を噛む癖があったのを覚えています。
大人びてて、取り巻きがいました。

取り巻きが中心になって、私をいじめていたという感じです。

中学生になったら、私へのいじめは止んで、取り巻きの子達とは普通に会話出来るようになりました。
(いじめていたことを知る妹は、「何で普通の顔して話せるの?」と相手に怒っていましたけどね。)
いじめる側って、そんなもんなのかもしれませんね。
明確な理由はなくて、何となくという感じでしょうか。

タイムマシンに乗って、小学生の頃の私に教えてあげます。

いじめられる原因なんてなかったんだよ。
あなたはあなたのままで良いんだよ。大丈夫だよ。
どんどん自分を表現していいんだよ。
大丈夫だよ、みんな受け入れてくれるよ。安心して良いんだよ。

親が学校に行けというので、自分の気持ちを無視して、不安を抱えたまま学校に行っていたことを赦します。
学校に行かないという選択が思いつかなかった自分を赦します。
親の言いなりになっていた自分を赦します。
自分で自分を苦しめる選択をしてしまったことを赦します。

ここまで書いて思ったのですが、不登校を選択している子が羨ましいですね、私。
子ども達が「学校休みたい」とぼやくと、胸の奥がザワザワしていたのですが、そういうことだったのかな、と思います。

今の時代を生きていたら、もっと違う人生になっていたかな?と思います。
でも昭和の時代は、這ってでも学校に行くのが基本という感じだったので、「元気なのに休む」という選択が出来なくても仕方ないな、と思います。
なので、学校行くと熱を出すとか、ゲ⚪︎吐いて早退するとか、そんなんしてました。
あ、教室でゲ⚪︎吐いていたら、いじめられるか?これが原因?
原因を探す癖もやめたいです。原因なんて、私には分からないことですから。
原因を探す癖があることを赦します。手放します。
今起きていることを受け入れます。
ありがとう、ごめんなさい、ゆるしてください、あいしてます。

母は共働きだったので、熱を出しても一人で家で寝てました。
学校を早退する時も迎えに来たことはありません。
熱があっても歩いて帰りました。
でもそれが当たり前だと思ってました。

昭和って、そんな時代でしたよね?
「我慢、ど根性、辛抱。」
「明けない夜はない。耐えていれば、必ず光が差す。」みたいな。

今は、「ん?暗い?スマホのライトつける?」みたいな感じ。
「辛抱?体に毒だよ。やめときな。自分にあった環境が必ずあるよ。一緒に探そう。」
今は、こんな時代感覚です。
せっかくですから、時代が変わった感覚を楽しみたいです。
もう良い大人ですが、今を満喫してやる!と思います。

お母さんにお迎えに来て欲しいと言えなかったことを赦します。
本当はお母さんに思いっきり甘えたかった気持ちがあったことを赦します。
それを上手く表現出来なかったことを赦します。

必要ないことは起こらない。
苦しい中でも学校に行っていたことは、何かにつながっているし、何かにつながっていくんだと思います。
頑張っていたね、私。よしよし。

小学生の頃、先生に信用されていないと感じる場面がありました。
それもタイムマシンに乗って、小学生の頃の私に教えてあげます。

あなたは悪くないよ。
ちゃんと先生に自己主張出来る。
出来ることがいっぱいあるよ。大丈夫だよ。
あなたは、あなたなりに精一杯生きているよ。
頑張っている。知っているよ。見ているよ。応援しているよ。
嫌なことは嫌だとはっきり言って良いんだよ。
自己主張して良いんだよ。
喜怒哀楽を顔に出しても良いんだよ。みんな受け入れてくれるよ。

昔の感覚を思い出すと、学校は恐怖でしかなかったな、と思います。
原始反射の総合デパートの私にとっては、そう感じるのは当たり前です。
それなのに、6年通って、よく卒業したね。頑張ったね、私。

卒業を迎える皆さん、ご卒業おめでとうございます。
過去の私も、卒業おめでとう。本当によく頑張ったね。

 
つらつらと書き連ねました。
今日の記事はここまでです。
読んでくださって、ありがとうございました。

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