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結局のところ、恋愛とはなんなのか

(傷だらけの恋愛論 第八回)

お久しぶりです。というほどのことでもないですが、しばらく旅行へ出かけていました。日常のことはなにもかも忘れて遊び呆けてきたので、今まで「傷だらけの恋愛論」で書いてきた流れもすっかり忘れてしまいました。

ということで、今回はいったん仕切り直して、「恋愛とはなんなのか」ということについて、(今さらですが)考えながら書いていこうと思います。




恋愛と性愛

とりあえず考えを進めていくにあたって、最初の指針とするため、辞書で「恋愛」の項を引いてみましょう。

れんあい【恋愛】
特定の相手に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。

新明解国語辞典 第八版

赤瀬川原平の『新解さんの謎』でユニークな語釈が取り上げられたことで有名な、新明解国語辞典です。「他の全てを犠牲にしても悔い無い」なんて、面白い表現ですよね。

ちなみに、「恋愛」の語釈は2020年の第八版から大きく変更されたのだそうです。第八版以前の説明は以下のようなものでした。

れんあい【恋愛】
特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、できるなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態。

新明解国語辞典 第三版

「特定の異性」から「特定の相手」へ表現が変わっていることや、第三版の「できるなら合体したい」という表現が第八版では消えていることにお気づきでしょうか。これらは重要な変化だと思います。


かつては異性愛が当たり前のものでした。だから、そこには当然のように「性愛」の問題がからんでいました。恋愛と性愛がおおむね同じものを指していたと言ってもよいでしょう。

しかし今では、異性愛という規範が解体されつつあります。それによって、性愛のあり方が多様化したのと同時に、恋愛と性愛を切り分けて考える人も増えてきました。アセクシャル(他者に性的願望を抱かない)や、アロマンティック(他者に恋愛感情を抱かない)というセクシャリティを自認する人も現れるようになりました。

そういった社会状況に鑑みて、少なくとも新明解国語辞典を編んだ人は、性愛は恋愛の絶対条件ではない、と判断したのではないかと推測できます。

恋愛と性愛は別物である、という価値観が徐々に広がりつつあるように思います。しかし、そうだとするならば、恋愛というものが余計に何なのかわからなくなってくるような気がします。



恋とは「独占したい」と思うことなのか?

もう一度、新明解の第八版を確認してみます。

れん あい【恋愛】
特定の相手に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。

新明解国語辞典 第八版

第三版から変わった部分として、「できるなら合体したい」という表現がなくなったかわりに、「二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたい」と、二人だけということに強調が置かれていることがわかります。

つまりそれは独占です。二人だけの完全な世界を夢見るということ。

すると、恋愛とは独占欲を伴う愛情である、ということなのでしょうか。しかしまだ釈然としないものがあります。

独占とはそもそもなにを指すのでしょう。そこにはなにか相手を「所有する」というようなニュアンスがあるように思います。その本質は、相手が他の誰かと恋愛することを禁じるということにあるのではないでしょうか。

しかしそうだとすると、「恋愛とは、相手が他の誰かと恋愛することを禁止したいという欲望である」ということになり、「恋愛」の説明の中に「恋愛」という言葉が入ってしまっているので、説明が循環しています。

さらに言えば、恋愛において相手を独占したいという感情が芽生えることがあるのは実感としてわかりますが、本当にそれが恋愛のすべてなのでしょうか? 相手を束縛したい欲望が芽生えたかと思えば、次の瞬間にはその占有願望を手放したいと思っている、というような、もっと自分の思惑を超えてあちこちに奔走するような体験こそが恋愛であると言えないでしょうか。

だから、おそらく独占欲だけで恋愛を説明するのは不十分なのです。独占したいという欲望だけでなく、もっと様々な感情や衝動が次々と自己に現れるような体験——それこそが恋愛であるはずです。



予測不可能な順序でやってくる恋愛のディスクール

ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』というとても面白い本があります。ディスクールとは「書かれたものや話されたこと」を指すフランス語で、「言説」という訳が当てられることが多いです。つまり、恋する主体がよく語りがちな言説を一覧にしてまとめたのがこの本なのです。

本書は八十編の断章からできていて、それぞれの章の見出しタイトルには、恋愛の様々な場面で経験する出来事や感情を表す単語を冠しています。場面ごとに、恋する人が語るであろう典型的な「フィギュール(型)」を再現した文章が記されているのです。

少し多いですが、目次に書かれた「型」をすべて列挙してみましょう。

「底なしの淵に沈む」「不在」「素晴らしい」「肯定」「変質」「苦悩」「無力化」「苦行」「アトポス」「待機」「隠す」「所を得る」「破局」「制限する」「こころ」「充足」「共苦」「理解する」「行動」「共謀」「接触」「不足のできごと」「肉体」「告白」「奉献」「悪魔」「服属」「消費」「脱現実」「ドラマ」「生皮を剥がれた者」「書く」「彷徨」「抱擁」「追放」「腹立たしさ」「フェイディング」「あやまち」「祝祭」「狂人」「困惑」「グラディヴァ」「服装」「同一化」「イメージ」「知りがたい」「誘導」「報告者」「耐えがたい」「出口」「嫉妬」「わたしは・あなたを・愛しています」「憔悴」「手紙」「多弁」「魔法」「怪物のような」「沈黙」「雲」「夜」「オブジェ」「みだらさ」「泣く」「うわさ話」「なぜ」「拉致」「故人」「出会い」「反響」「目覚め」「いさかい」「ひとり」「記号」「追憶」「自殺」「あるがまま」「やさしさ」「合体」「真実」「占有願望」

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』
目次より

中にはよくわからない言葉も混じっていますが、恋愛の中で現れる感情や状況についての項目が並んでいるのがおわかりいただけると思います。

そしてその中には、「肉体」「合体」といった、性的な願望に関連しそうなものや、独占欲に相当する「占有願望」というものも含まれています。この本に則って考えてみると、性的な願望や独占欲は、恋愛の中で一時的に現れうる「フィギュール(型)」のひとつに過ぎないのではないか、と考えられます。

試しに「占有願望」の項を見てみましょう。見出しの次にある文は、フィギュールの概要です。

【VOULOIR-SAISIR 占有願望】
(愛する人をわがものにしようと望みつづけるからこそ、恋愛関係につきもののあの苦しみがあるのだ。そう悟った恋愛主体は、あの人に対する一切の「占有願望」を放棄する決意を固める。)

 恋する者に常に見られる考え方。あの人には、わたしの必要とするものを与える義務がある。
ところがわたしは、はじめて本当の恐怖を知る。ベッドに身を投げ出し、あれこれと思いあぐねたすえに、心をきめる。今後、あの人については、なにひとつ占有を望むまい。
〔…〕
わたしはあの人を断念したふりをする。しかし、あいもかわらず(秘かにではあるが)あの人を征服しようと欲しているのではないか。わたしが遠ざかるのは、より確実にあの人を捉えんがためではないのか。〔…〕

同書「占有願望」

恋をすると「相手を占有したい」という感情が芽生えます。しかし、やがてその願望を抱いている自己を嫌悪するようになり、占有願望を捨てようとする。ところがその決意さえも、相手の気を惹くための策謀なのではないか、とまた思い悩む……。といった思考を、恋する人は典型的に辿ります。このような占有願望は、多くの人々が経験するいくつものフィギュールのひとつに過ぎないのです。


本書において、これらの八十編のフィギュールはアルファベット順に並べられています。なぜかというと、恋愛の「型」は、決まった順序でやってくるわけではなく、人によって、またその時々の偶然によって、思いもよらない順序で現れるからです。だからこの本の章立てでは、なにかしらのストーリーを仕立て上げるような順序ではなく、完全に無作為なアルファベット順を採用しています。

自分が経験した「型」のエピソードを取捨選択して、わかりやすいストーリーラインに整理すれば、恋愛物語を作り上げることもできるでしょう。しかし、現実の恋愛にはそのようなわかりやすさはありません。

喜びや苦しみ、その他の様々な状況が不規則かつ無秩序に出現し、それに振り回され続けるのが、現実の恋愛なのです。そしてそのような恋愛の体系に一度入り込むと、自分の意志で抜け出すことは容易ではありません。


以上のことから、「私は性的な願望がないからこれは恋ではない」とか、「独占したいとは思わないからこれは恋ではない」と言った発言は、恋愛を本質的に見誤っていると言わざるを得ません。性欲や独占欲というフィギュール(型)のない恋愛も、十分に想定可能だからです。

つまりこういうことです。恋愛とは、最初の幸福な「出会い」のあとで、他者の存在に自分自身が否応なく巻き込まれていき、奔走せざるを得なくなることではないでしょうか

たしかに、恋するものはたえず心のなかで走り回っており、新たな奔走を企て、自身に対する策謀をめぐらしつづけてやまない。彼のディスクールは、ささいな偶発的状況に触発される発作的言語活動としてしか存在することがないのである。

同書「この書物はどのように……」


今回のまとめ

恋愛には特有のフィギュール(型)がいくつもあります。

「苦悩」「告白」「抱擁」「困惑」「嫉妬」「憔悴」といったそれらの型は、様々な恋愛映画のシーンで何度も見覚えがあるものであると同時に、自分がまさにそれを体験したとき「そうだ、この場面には見覚えがある」とさえ感じるようなものです。

たとえば、主体が恋人に待ちぼうけをくっている。文の外観のごときものがひっきりなしに彼の脳裡を訪れる。「それにしてもひどい……」、「彼/彼女には……できたはずだ……」、「彼/彼女にはわかっているのに……」。「できた」、「わかっている」と言うが、いったい何についての話か。実は何でもよいのだ。これだけですでに「待機」のフィギュールは形成されている。

同上

多くの人が、同じ経験をしたことがあるはずです。「彼/彼女には……できたはずだ」の「……」に入るものは人によって様々な具体例が入り、それは一見まったく違う出来事であるはずなのに、同じような「型」の言葉が出てくるのです。

そういったいくつもの型が、偶発的に予測不可能な順序で襲いかかってくるのが現実の恋愛なのです。

そして、やや飛躍したまとめ方ですが、恋愛とは、最初の幸福な「出会い」のあとで、他者の存在に自分自身が否応なく巻き込まれていき、奔走せざるを得なくなることではないか、と結論づけました。この捉え方は、世間一般で考えられている「恋愛」の定義とは少しずれているかもしれませんが、今まで論じてきた「恋の病」についての分析とは合致しているように思います。


さて、先ほど「そのような恋愛の体系に一度入り込むと、自分の意志で抜け出すことは容易ではありません」と書きました。次回はその点についてもう少し掘り下げて、どうやったら恋愛の体系から抜け出せるのか、ということについて考えてみたいと思います。それでは今回は、このへんで。


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