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過去にすがるか未来にすがるか

(傷だらけの恋愛論 第七回)



こんにちは。不可逆です。昨日の投稿は結構長くなってしまって大変だったので、今回は特に着地点も考えずにゆるっと書いてみようと思います。

前回の傷の話の中で「あらゆる恋は傷なのです」と書きました。今回はそこからさらに踏み込んで「あらゆる出会いは傷である」ということについて書いてようと思います。恋からはちょっと話が逸れますが、「愛」についての話です。



猫の話と、愛と死

私は猫を飼っているのですが、猫を撫でていると頭の中でセロトニンが分泌されているのを感じます。いや、分泌を感じているのは気のせいかもしれませんが、たしかにリラックスして、心が落ち着いて、幸福感が胸の奥からじんわりと溢れ出てくるように感じます。

でも猫の瞳を見つめながらその頭を撫で続けていると、だんだん奇妙な感じがしてきます。私が彼を見つめていると同時に、彼に見つめられているのだ、ということが急に鮮明な輪郭を持ちはじめるのです。猫がにゃあと私の顔を見つめながら鳴きます。それがなにかを私に訴えているのだということも、いつもよりはっきりと感じられるのです。

ここに、生き物がいる!

するとなぜか、涙が込み上げてくるのです。それは、この小さな獣が確かに生きているということ、小さな命がここにあるということが、奇妙なくらいはっきりと感じられて、それと同時に、それがいずれ失われるという運命もはっきりと見えてしまうからです。

これから普通に健康に生きられれば、あと十年と少しくらいは彼と一緒に過ごせるはずです。それなのに、私の心はなぜか十年後に味わうはずの喪失の悲しみを先取りしてしまうのです。


それは、猫が私に深く食い込んでしまったからです。私は猫を愛してしまった。それはつまり、心の穴の一部に彼が入り込んでしまったということで、そしてそれはほとんど、私の一部になってしまってもいるのです。

でもそれはまたいつか失われる。そして再び空いたその穴を風が吹き抜けることも想像がついてしまう。その別れへと至る道をともに歩んでいるから、悲しさがずっと消えないのです。

でも、悲しみを先取りすることは、いつかやってくる「本当の別れ」にあらかじめ慣れていくための無意識の作用であるようにも思います。彼の死を一度も想像することなく暮らしていたら、ある日突然それがやってきたときのショックに耐えられないでしょう。あるいは、彼の死を想像しないということは、彼のことを特別大切に想っていないということなのかもしれませんが。


大切な人であるほど、その人の死について考えてしまいます。その人がいつか死ぬということ。その運命を自分は受け入れられるかどうか、ということを何度も何度も考えてしまうのです。

悲観的に見えるかもしれませんが、私は決して悲観しているつもりはないのです。確かに涙が出てくるし、悲しいのだけれど、それが運命であって、私はそれを受け入れようとしているのだと思います。

大切な人の死を受け入れること。それはつまり、あなたと一緒に過ごせる時間が有限であることを受け入れる、ということです。それを受け入れられたとき、残された時間の中で、できるだけ愛を確かなものにしようという気持ちが生まれるのではないでしょうか。

そして、愛はそこからのみ湧き出すのだと思うのです。



やっぱり死を受け入れられない

わかった、じゃあ僕も大切な人の死を受け入れよう、と頭では思ったとしても、そう簡単に受け入れられるようなものではありません。

なぜなら、他者の死を受け入れることは、同時に、自分がいつか死ぬという事実を受け入れることも意味するからです。

みんないつか死ぬ。その言葉のあとに続くのはたいてい「だからすべては無意味だ」です。

死を受け入れることは、すべてが無意味であることを受け入れること。普通はそう考えてしまいます。そして実際、それはそうだと思います。

ただ、やっぱりそれだけではないのです。死を受け入れることは、安易なニヒリズムで立ち止まることでは決してない。ニーチェの言葉を借りるとしたら、「運命への愛」のようなものがそこには芽生えるはずだと私は信じているのです。


私はいよいよ、事物における必然性を美として見ることを学ぼうと思う。こうして私は、事物を美しくするところの人々の一人になるであろう。運命愛
(Amor fati)。これを今後は私の愛とすることにしよう! 私は、醜いものに対していかなる戦いをもしかけようとは思わない。私は非難しようと思わない。非難する者を非難しようとすら思わない。眼をそむけること。それを私の唯一の否定としよう! そして、これを要するに、わたしはいつかきっとただひたむきな一個の肯定者であろうと願うのだ!

フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』第四書(276)


しかし運命を愛せと言われても、やっぱり受け入れられないものは受け入れられません。

それにはやはり、傷を作っていくしかないのです。これは今ふと思ったことですが、傷つくことは、少しだけ死を先取りすることなのではないでしょうか。そうして、死に慣れることができるのです。



過去にすがるか未来にすがるか

前回、同じ傷を何度もなぞってしまうことで、いつまでも傷口が乾かず、トラウマに規定された欲望から抜け出せなくなるということについて書きました。

それを避けるためには、未知の他者との出会いに開かれていなければならないのでした。自分を傷つけた人の影を追い続けるのではなく、もっと予測外の、まだ見ぬ運命の人への願望を、心の底で持ち続けること。願望水準を高く保ち続けること。


同じ傷を求めるか、まったく別の新たな傷を求めるか、というのは、過去にすがるか、未来にすがるか、という違いではないでしょうか。これは前回書きそびれましたが、とても重要なことです。

同じ傷ばかりを求めてしまうのは、結局のところ、本当に全く新しい別の傷に対して、怯えているのです。過去の傷に固執して、何度もその傷をなぞっていれば、知っている痛みだけずっと味わっていられる。本当に怖いのは、知らないものがやってくることなのではないでしょうか。

けれど私は、その知らないものの到来をこそ待ちわびるべきだ、と言っているのです。なぜなら、それだけが自分の運命に抗い続ける唯一の方法だからです。


過去に向けて語りかけるのではなく、未来に向けて語らなければなりません。過去の他者は決して返事をしてくれません。けれど、あなたが今、未来の他者に向けてなにかを書けば、きっといつか返事が届くはずです。あなたが想像もしていなかったような、未知の誰かから。



あらゆる出会いは傷である

しかし同時に、ひとつの不安が頭をもたげるのです。死んでいった人々もまた、私たちに応答を求めているのではないか。過去のことを忘れて、未来にばかり目を向けようとする私を、死者は恨むのではないか。

そうして死者の声を聞こうとし始めると、声は無限に聞こえてきます。死者は私を責めると同時に憐れみ、慰めると同時に突き放すのです。あらゆる声が聞こえてきてしまう。それはすべて、私の想像だからです。

でもその想像は、本当に私がゼロから勝手に生み出したものなのでしょうか。そうとも思えないのは、私の脳裏に浮かぶあなたを想うとき、過去にあなたが私に残した古傷が傷んでいるからです。

「完全には忘れられないことを受け入れつつ、少しだけ忘れること。本当に忘れようとすると、あの欲望のスパイラルに陥っていきます。それを避けることが大事です」と前回書きました。そのことを踏まえれば、死者の声を無視して、忘れようとするべきではないはずです。

私はこう思います。死者の声をどこまでも聞かなければなりません。けれど、それに応答しようとしてはならないのです。その代わりに、死者から受け取った言葉を、未来に向かって語りかけるのです。


大切な人を作るとそのぶん別れがつらくなるから、誰も愛したくない、という人もいると思います。あとから亡霊の声に苦しめられたくない、と。

でも、それを避けることはできないのです。というか、それをするには、すべての他者との接触を避けなければなりません。なぜなら、あらゆる出会いは傷だからです。そしてあらゆる他者との接触を避けるということは、どんな傷にも慣れないままの自分でいることを意味します。そのほうが、きっと苦しみは大きいでしょう。

そうして過去ばかり見ている人に、私の声はたぶん届かないかもしれません。でも、私はそういう人に向かって語っているのです。あなたにとっての未知の他者として、私はなにが語れるのか、ということを考えています。



今回のまとめ

今回は、特にまとめるというほどのことはありませんね。エッセイみたいな感じでした。

傷を求めるときに、過去の傷にすがるのか、未来のまったく新しい傷にすがるのか。それを考えてみよう、ということだけ、頭の片隅においておくといいかもしれません。

私たちの体に残っている傷跡はすべて、過去に他者と出会ったことの痕跡です。その中には忘れたい傷もあれば、忘れたくない傷もある。そのすべてが、結局自分を作っていくのです。

今後は、今までに書いてきたことを応用しながら、恋愛のいろんなシチュエーションについてコラム的に書いていこうかな、という感じで考えています。あと、もしなにか恋愛関係で書いてほしいテーマがあったらコメントいただけると嬉しいです。

そろそろ別のマガジンのアイデアも考えたいなーと思っています。恋愛論もいずれはネタが尽きると思うので……。

ということで、今回はこのへんで。

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