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頭の中にある学校という存在

日々コロナで仕事もなく働けていない。親族介護も段階が進行してしまい素人の手には負えなくなった。そのため福祉の手が入り家の中は消毒液や自分たちが使わない洗浄剤の香りがする。
ふん尿の悪臭で充満していたリビングは介護の現場に様変わりしている。

誰かを感動させてみたり誰かを傷つけてみたり、それで注目されてみたいと思ったことは一度や二度ではない。沢山ある。
だけど上手く出来ない。きっと他人の感情や大切にしているものがわかればそれを愛でるなり喝采するなり傷つけるなりすれば感情を突き動かせるのだと思うけど自分はどうにも興味がない。
では架空の物語でも書いてそれを読ませればいいかと思っても自分はそういう空想が出来ない。

言葉を学んだこともあった、商品のキャッチコピーを学んだこともあった。それっぽい物は作れても本物じゃないし完成した所で満足行く形というものもわからないので満足もしない。
ただ完成しただけだ。

日々、頭の中に中学時代の教室がある。2000年の3月に卒業したからもう22年近くずっと頭の中にある。毎日ずっとそこにある。何度か忘れようとしたのだけれど忘れることが出来ないので毎日考えるしかない。
日々教室の中は変わらないし顔ぶれも変わらない。流石に22年も顔ぶれを思い出しているせいか、肌色と黒色の混ざるぐるぐるとしたよく解らない物体を顔ぶれと考えている。
学校から出られていない。

この学校、よく解らない。毎日ずっと頭の中にある。どうにか出ようとするのだけれど気がつくと頭の中にある自分はそこから出られない。
もう学校に行く年齢ではないし必要もない。そもそももうその年齢の子供がいてもいい年齢になっている。

どこかで自分は心の成長に失敗したのかもしれないと思う。進学や就職に転職と繰り返したら頭の中はそうした場所に書き換わるのかもしれないと思っても一向に書き換わる気配がなく22年。
一体この頭の中の風景を何に活かせばいいんだと嘆いてばかり。

楽しかったかと言えばまったく楽しくなかったし、なんなら一生懸命勉強した高校の頃のほうが楽しかったし、その後の大学での部活動や研究活動のほうが寝ても覚めても必死に取り組んでいた。
就職してからも転職してからも一生懸命仕事に取り組みプロジェクトに取り組みコストカットに取り組みとよくやっていた。
だったら中学時代を思い出す必要もないだろうと思うのに気を抜くとつい頭の中に入り込んでくる。これが困る。自分の見える現実はどんどん進んでいくのに頭の中の教室はまったく進まず1999年のノストラダムスの大予言の話題やテレビやPS1のゲームの話題ばかりだ。
現実のニュースやネットで変化がありそれを頭の中の教室で他の人にこれからこうなると言っても何か変わるわけでもないし尊敬されるわけでもない。何かが変わるわけでもない。毎日変わらない。

いい加減頭の中の教室から出たい。

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