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考えること自体を楽しめれば天才になれる

「すごく頭のいい人」が書く文章が好きだ。「すごく頭のいい人」が書いた文章を読んでいると、自分の頭もよくなっていくような気がする。

ゲームの神プレイ動画を観ると実際にゲームのウデマエが上がる。文章にも同じような作用があると思う。

内田樹先生のブログに天才について書かれた記事がある。読んで興奮した。自分も天才になれるかもしれないと思った。

少し長いが引用したので読んでみてほしい。

池谷さんとは以前、「PHP」の企画で対談したことがある。もう2年ほど前のことである。
私は「理系の人」と話をするのが大好きである。
養老先生、茂木さん、福岡先生、どなたも話が明快で、かつ深い批評性を備えている。
池谷さんも話していて、その頭脳の機能の高さに驚嘆したのを覚えている。
人間の脳や知性の構造について考察するときには、どこかで「自分の脳の活動を自分の脳の活動が追い越す」というアクロバシーが必要になる。
「私はこのように思う」という判断を下した瞬間に、「どうして、私はこのように思ったのか? この言明が真であるという根拠を私はどこに見いだしたのか?」という反省がむくむくと頭をもたげ、ただちに「というような自分の思考そのものに対する問いが有効であるということを予断してよろしいのか?」という「反省の適法性についての反省」がむくむくと頭をもたげ・・・(以下無限)
ということは「すごく頭のいい人」においては必ず生じるのであるが、ここで「ああ、わかんなくなっちゃった」という牧伸二的判断保留に落ち込まず、「いや、これでいいんだ」と、この無限後退(池谷さんはこれを「リカージョン」(recursion) と呼んでいる)を不毛な繰り返しではなく、生産的なものと感知できる人がいる。
真に科学的な知性とはそのような人のことである。
どうして、リカージョンが生産的であるかというと、ご本人にとってそれが「気持ちいい」からである。
最終的に思考の深化・過激化のドライブを担保するのは、考えている人自身の「あ、こういうふうにぐいぐい考えていると、気持ちいい」という「気持ちの問題」なのである。

http://blog.tatsuru.com/2009/05/18_0927.html

「すごく頭のいい人」にとっては、考えることそのものが気持ちいい。
考える⇛気持ちいい⇛考え続ける⇛考えるのがうまくなる⇛もっと気持ちよくなる⇛(以下無限)

考えるという行為そのものが気持ちいい、なんて発想なかったわ。びっくりした。

でもこれなら自分にも真似できそうかも、と思った。

今まで自分は「Aについて考えるのは気持ちいいけど、Bについて考えるのはしんどい」と考えていた。するとAについてはよく考えるが、Bについてはあまり考えなくなり、Aは得意になるがBは苦手になる。

そうではなく、「考える内容はAでもBでもいい。考えること自体がきもちいいのだから」という状態をつくれれば、AもBもCも関係なく処理できる「思考法」を、天才みたく育てられるのではないか。

一緒に本を書いた小鳥遊さんは、「タスク管理が好きで、自作のタスク管理シートを更新するために毎日出勤しています」と言っていた。まさにそんな感じ。ひとつひとつの仕事A、仕事Bの作業内容はどうでもよくて、その上位にある「タスク管理」が気持ちよければ、仕事全体が楽しくなる。

そういう状態を頭の中につくれないものか、と考えている。

内田樹『街場の読書論』おすすめです。オーディオブックで聴くのに向いてる。内田先生のブログの内容を本にまとめたものだから内容としては平易で、しかもブログなので文体が軽く、耳で聴くのにちょうどいい。

先日PodCastで『街場の読書論』を熱量高めに紹介したのでそちらもよければ聴いてください。


読みたい本がたくさんあります。