表現の個性は「カッコつけずに普通に書く」ことであらわれてくる
今日は第一期執筆教室おつかれさまでした会だった。
そこで「創作における個性の出し方」が話題となった。
僕自身も、倉園さんに文章を校正してもらっている。
自分で頼んでやってもらっているクセに、はじめは自分の文章を直されることに抵抗があった。
自分としてはけっこうこだわって選んだつもりの単語とか、改行とか、句読点とかを容赦なく修正されることにムッとしていた。
「そこに『、』を打つのが僕の文章のリズムだと思っていたから、それを直されると僕の文章の個性が失われてしまうと思うんです」
とついに反論したことがあった。そのとき倉園さんに
「あなたの個性は、文章のクセを直したくらいで消えるものじゃないよ」
と言われたのだ。
僕は表現の個性というものは文体に現れるものだと思っていた。でも本当の個性というのは、文体を読みやすくなおしたところで消えたりはしない。むしろ、小難しい言い回しや体言止めや改行を多用せず、ただただ普通に書いたほうが個性ははっきりと際立つのだそうだ。
そしてそのことを、僕は今回の執筆教室で、15人以上の方の文章を、25本以上、読んでみて実感したことだった。
まず、どの人の文章にもはっきりとした個性がある。
そこに倉園さんの朱が入る。体言止めや「ので/から」のような表現がどんどん直されていく。
そうやって修正された文章から個性が消えるかといえば、むしろ最初よりもはるかにその人らしさがあふれていた。
むしろ格段に読みやすくなることで、その人独特の息遣いやリズムのようなものを感じ取りやすくなっていたのだ。
倉園さんは「自分で自分の作風をこういうタイプだと決めつけないほうがいい」とも言っていた。
僕は「めんどくさい克服法」のようなライフハックっぽい文章しか書けないと思っていた。でも最近は創作にまつわる話も書くようになったし、パートナーが好きだって話もふつうに書けるようになってきた。
何より「書きたい」ことが日に日に増えているような気がする。
それはたぶん、文章を書くときにカッコつけなくなってきたからだ。ただただ、自分がいいなと思ったことを誰かのために書く。そのときに必要なのは、ただただていねいにおもてなしの精神で言葉を整えていくことだけなのだ。
読みたい本がたくさんあります。