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Saltburn|醜態を晒してでも、高嶺の花へ手を伸ばす。その姿が切ない

Saltburn

2023年 / アメリカ / イギリス
監督:エメラルド・フェネル
出演:バリー・コーガン、ジェイコブ・エルロディ、ロザムンド・パイク…

story

オックスフォード大学に入学したオリバー(バリー・コーガン)は友達が出来ずに学生生活をスタートした。しかし些細な事件をきっかけに学園の人気者でお金持ちのフィリックス(ジェイコブ・エルロディ)と仲良くなり、親友になっていく。そして夏休みにさしかかり、フィリックスは実家のあるアメリカのソルトバーンへオリバーを招待する。



review

※以下、ネタバレ注意


文責=1世
おすすめ度 ★★★☆☆

多くの人もそう思ったようだが、まず連想したのは『太陽がいっぱい』(1961)だった。
金持ちでイケてる友達と、一般家庭の出でイケてない自分。かけがえのないもののはずだった友情(愛情?)が憧れの暴走によって憎しみへと変わっていく。しかもそれが「あいつに成り変わりたい!」という願望として現れてくるというあたり、その手の話の古典『太陽がいっぱい』を下敷きにはしているはずだ。

しかも『太陽がいっぱい』の原作者であるパトリシア・ハイスミスという人物の文脈も踏まえるとその意図はよりクリアになる。

ハイスミスはアメリカを代表するミステリー作家だがその死後に同性愛者であることが明らかになったことでもよく知られている。その事実を知った上で振り返ると、彼女の小説の中には公にはできなかった同性愛者としての葛藤や苦悩が託されていた、というのが今や定説となっている。

それも踏まえれば、この『Saltburn』という作品は『太陽がいっぱい』でオブラートに包まねばならなかった「友情」をはっきりと同性愛者としての「愛情」として描こうとしている作品だと見えてくる。『太陽がいっぱい』とパトリシア・ハイスミスという文脈を踏まえれば、作り手たちが本来の意図を汲んだ上で『太陽がいっぱい』のような話をしっかりと描き直そうとした映画として読むことができる。

とまあ、いきなり『太陽がいっぱい』の話から始めたわけだが、あくまで『太陽がいっぱい』はこの作品の下敷きでしかなく、数ある要素の一つと思しきものでしかない。というのも、この『Saltburn』は短絡的な一つの文脈で語ることなど許さない、いくつもの文脈の集合体としてできあがっている。
そこは流石、エメラルド・フェネル。あまりにも「抜かりない」フェミニズム映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)で名を上げた監督だけある。

まず、それなりに映画を見ている人ならバリー・コーガンが主演というだけで「なにかよからぬことが起こる…」と警戒必至のはず。バリー・コーガンという俳優のイメージとしては、正体不明者、異邦人、異常者などなど。特に大金持ちの一家に謎の居候バリー・コーガンがやってくるなんて事が穏便に進むはずがない。

しかしここで観客を戸惑わせるのは、バリー・コーガンがどうもいつもより普通の人っぽいのだ。同じような設定だった『聖なる鹿殺し』(2017)では意図もわからず家族を追い詰める理不尽の化身のような佇まいで、ある種の神性のようなものすら帯びていた。

だが今回のバリー・コーガンは(少なくとも序盤は)あくまで本当にイケてない学生でしかない。このバリー・コーガンのイケてないその辺の学生っぷりを見て、改めて素晴らしい俳優さんだな〜と驚嘆したりもする。

「それじゃあ今回はバリー・コーガンをそっち系で使う映画ってことね」と思って見ていると、イケてなかった男が次第に金持ち一家につけ入り、籠絡するようになり…つまりバリー・コーガンが通常運転を始めるのだ。イケてない学生演技から少しずつグラデーションでいつもの本性を発揮し始める。正体はわかっているのに、見れば見るほどその正体が不明瞭なものへとなっていく。

このバリー・コーガン演じるオリバーの姿は『聖なる鹿殺し』の元ネタでもあるピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の『テオレマ』も連想させられる。この映画もまた金持ち一家の元に正体不明の居候の青年がやってきて、家族一人一人を圧倒的な美貌で魅惑してその家庭を崩壊させていくという不思議な話だ。

『Saltburn』は強烈な成り変わり願望に突き動かされる『太陽がいっぱい』のような青年を描く一方で、『テオレマ』のような異邦人の出現によってブルジョワ家庭が崩壊する象徴的な、寓話的なお話を描いている。これは元々バリー・コーガンという俳優がまとっている性質とも結びついている部分だろう。

類似した作品を上げるだけでも一筋縄な話ではないこの作品だが、この映画を見て筆者が最終的に思い浮かべた作品は上の2作品ではない。自分としても意外なものだった。
『Soltburn』が描こうとするものに最も近いものは、自分の引き出しの中ではエミリー・ブロンテの書いた『嵐が丘』だった。

この作品におけるオリバーとフィリックスの関係はまさに『嵐が丘』における主人公キャサリンとヒースクリフの関係そのものだと思ったのだ。

読んだことのない人も多いと思うので少し説明すると、
『嵐が丘』は題名通り「嵐が丘」と呼ばれる荒野地帯で暮らす人々の愛憎劇だ。その地の地主の娘であるキャサリンと、拾い子で雇い人として育てられたヒースクリフは愛し合っている。しかしお互いの激情型すぎる性格や身分の違いなども相まって、愛し合っていながらもお互いの気持ちが通じることはない。やがてヒースクリフはあまりに頑なで不器用な愛情がゆえに、キャサリンを苦しめたまま二人は死別してしまう。当然、最愛の人を失ったヒースクリフは人格がさらに歪むほどの絶望に苛まれる。
そしてヒースクリフは彼女を失ってからも(むしろ失った後の方が)嵐が丘へと固執し、その家系を謀略によって骨抜きにし、その座に成り変わっていくという話なのだ。
こうやって書いてみると、『Saltburn』のオリバーの姿はまさにヒースクリフそのものである。

そのような読みをしてみると、この映画における暗躍、謀略の数々は全てがオリバーの不器用な愛情表現だったように思えてくる。
その愛情は結果的に最愛の人の命を奪い、その家族を破滅させるようなものではあったのだが、それを実行するオリバーの中には一切の後ろ暗さも曇りもない。

理想的な友情関係と同性愛者としての性的欲求。
格差への過剰なコンプレックスから生じた「自分の価値を認めさせる必要がある」という強迫観念。
それらに苛まれたオリバーにとっては、嘘や謀略も高嶺の花へ触れるための切実なもがきであり、紛れも無い愛情表現なのだ。
そんなコンプレックスなど天真爛漫なフィリックスは気づいてもいなかっただろうが…

この映画の白眉とも言えるのは、自分が壊してしまった最愛の人の墓前で絶望するオリバーを切り取ったショットだろう。
その行為のあまりな不躾さは惨め極まりない。しかしそうなるほどにオリバーはフィリックスを愛していた。身分不相応な高嶺の花をそれでも掴み取ろうした男の末路として、あの醜態はあまりに切ない。


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