見出し画像

『クララとお日さま』(と『私を離さないで』をちょっとだけ見比べてみる)


カズオ・イシグロ作品では2作品目。最初に読んだのは『私を離さないで』だったので奇しくも類似の題材とされる作品。今回は少しだけ比較してみたい。カズオ・イシグロ作品についての専門家でもなんでもないので、とりあえず思ったことを書いているだけである。どうか夜道で刺さないでほしい。

話す前にあらすじ。
人工友人(AF)のクララは、病弱な女の子ジョジーの家に買われ、ジョジーの友人として生活することになる。ジョジーの母親、家政婦、幼馴染、その母親、ジョジーの父親たちがジョジーに注ぐ視線と愛、複雑な感情が、非人間であるクララの視点で描かれる。これが本作だ。

本作では「人間とは非なるもの」である「わたし」の目を窓として、彼女の周囲の人々の物語と、彼女自身の物語が描かれる。主題となるのは『私を離さないで』同様に「人間とはいかなるものか」という問いであるが、本作は『私を離さないで』と全く異なるアプローチでその問いかけが行なわれている。

『私を離さないで』では「人間とは非なるもの」として扱われる「わたし」が、追憶という形式で客観的な目で過去のヘールシャムや、クローンによる臓器移植を是とする社会を眺める。いわば社会の被害者である「わたし」の目が見たものは、社会の仕組みの残酷さであり、その社会の中で生きる人間の傲慢さだった。

では一方で『クララとお日さま』ではどうか。本作の語り手であるクララの空間・状況把握の仕方は、文字通り機械的だ。人の心の機微も分析し、数値的に把握するのが得意なのが彼女である。そして、彼女が作られた社会は、人々の言葉の端々からうっすらと透けて見えることには、どうやら全てを数値やデータとして処理しているらしい。さらには、一人の人間さえもコピーアンドペーストのようにすることが可能だと「科学的に」証明されているようである。物語が一転する第四章で、そのあたりは明かされる。しかし、本作品でこのようなディストピア的社会の様相は主題ではない。本作の主題──「わたし」がじっと観察するのはミニマムな社会=ジェジーと、自分を含めたその周囲の人々の社会模様だ。クララの目を通して身近な人間たちはじっと観察され、冷静に語られる。そして、クララが説明のつけられない部分や読み手に違和感を与えるような描写がちらほらと発生してくる。つまり、人間というものが決してデータや情報だけで処理できるものではないことが浮き彫りになるのである。『私を離さないで』は、社会システムがディストピアであることによって見えてくる「擬似人間」の極めて人間的な主観と生の姿であった。一方、『クララとお日さま』は、その背景にうっすらとディストピア感を醸し出しつつも、しかしそこをあえて詳細に描くことなく人間同士のつながりがフォーカスされる。そして、その中では一人の人間の唯一無二さ(代替不可能さ)、ある人をある人たらしめる他者からの視線や愛が見えてくる。

『クララとお日さま』の中で描かれた人間同士の繋がりから見える「人間」の姿の物語は、私たちにもより一層接続が容易なものになったように私には思えた。

追記:カズオ・イシグロの一人称小説の「一人称小説だからこそできる認知の歪みの表現と、その歪みが明らかにする人間の姿」ってもしかしたら凄まじいものなのかもしれないと、今更ながらに悟る20代半ばの秋。

書誌情報
タイトル:クララとお日さま
著者:カズオ・イシグロ(翻訳:土屋政雄)
ISBN:9784152100061
刊行年月:2021年2月
出版社:早川書房


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?