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南極行ったらさすがに旅に満足をした話

 2019年から期限のない早足の旅を続け、ついに2020年1月に南極を訪問し大満足し「これで旅の生活に区切りをつけられるぜ!ウェーイ!」ってなって旅に区切りをつけた話です。

 南極からアルゼンチンに戻ってきたその日に、どうしても記録に残したく記憶を総動員して書いていたら約2万字という学部の卒論レベルの文字数に達しました。多くのどうでもいいことは自分のために書いていますので、写真を中心にご笑覧ください。

「宇宙よりも遠い場所」は、果てしなく遠かった。

 南極への道のり。日本から世界最南端の都市・ウシュアイアまで約3日。ウシュアイアから南極大陸まで約2日。たどり着くだけで最短でも片道5日かかるのは南極以外には地球上のどこにもない。

 その間の殆どの時間は飛行機や船の上で過ごすこととなったし、さらには電波がなかった(正確には、あるが高くて遅いため使わなかった)ため、寝食以外にすることも限定された。都合の悪いことに、どのようなルートで行くにせよ南極へ行く前に、南極大陸の周りの暴風圏を抜ける必要があり、もちろん帰りも同じだった。

移動時間は旅の醍醐味のひとつ

 この一年の間、サハラ砂漠マラソンに始まり、アトス山巡礼にサンティアゴ巡礼にロカ岬にソマリランドにレソト王国にキリマンジャロ登山にワハーン回廊に、実に色んな世界の果てへ行った。しかしそれらとは比べ物にならないくらい、今回の道程は遠く思えた。一方で、僕にとっての移動時間は目的地に向けてあれこれ考えられる時間であるため、往路では南極の生物から地理から歴史からあらゆることに思いを巡らせて、復路では実際に出会った光景を時には頭の中で、時には写真を見返すことでその想像を絶する美しさと自然の奇跡に思いを馳せ、かつてないほど一つの目的地の事を考えて詳しくなれた有意義な時間でもあった。

吠える40度、狂う50度、絶叫する60度

 南緯40度~70度の間にはこのように呼ばれる海域がある。そしてウシュアイアから南極に向かう南緯60~70度はまさに「絶叫する60度」に該当する。地球の冷源である南極大陸の寒さが、まるで外界を遮断するかのように暴風をもたらし、波は激しく船にぶつかる。揺れが激しいために机の上にPCやカメラを置くなと忠告をされていたし、揺れても問題ないように船内のテーブル、椅子、ライトは固定されており、あらゆるドアは重かった。まるで頂点に達したジェットコースターがゆるやかに落ちていくように、無重力になる瞬間が頻繁にそして長くやってくる。都合の悪いことに、その瞬間はどの方向からやってくるのか直前までわからない。前後に左右に上下を加えると三次元的に揺れ、三半規管を狂わせる。暴風圏にいる2日は、まるで世界に酔っ払いしかいないかのように、誰一人としてまっすぐ歩くのもままならなかった。結果として、暴風圏突入時に多くの人がドクターのお世話になり、3割くらいの人が飲み薬と耳の後ろに貼ることで酔い止めになるシールを合わせて処方されていたし、それを踏まえても公の場で1割くらいの人が吐いていた。そして、いつどこでどれだけ吐いても構わないように、部屋、ラウンジ、レストランのいたるところに紙袋が常備されていた。そして乗り物酔い耐性という唯一の特技を持ち生まれてきた僕には、揺れは心地よくさえ感じられた。

南極に行く人生か、行かない人生どちらを取るか。

 南極には毎年2万人が訪れる。日本人はうち2%、単純計算で約400人。ほとんどの場合はツアー参加で訪れ、僕もまた月並みのツアー参加者の一人である。確かに南極渡航者の人数でいえば少ないかもしれない(ブルネイやジョージアですら日本人は年間5,000人ほど訪問していると記憶している。2019年9月に観光ビザ発給が始まったサウジアラビアも2020年の日本人観光客は400人を軽く超えるだろう。僕も日本人初観光客として渡航したが、そもそも浦和レッズファンだけで240人が2019年11月にサウジへ渡航した)。南極に関しては最後の大陸として、探検家たちが命を顧みず南極に向かうチャレンジをし続けた場所である。その後調査が進み今もなお科学者たちの興味をそそり続けて、南極側は科学者の情熱を超える見返りを彼らに提供してきた。従って、未知の事象はあるにせよ、南極大陸に関する体系的な情報はある程度ネットを通じて出てくる。
 しかも、昔と異なり命にかかわる危険はなさそうではあるし、大切なものをすり減らさずに達成できる旅に本当に価値があるのかをウシュアイアで一晩考えた。次のチャンスはおそらく老後だ。そして「南極に行く人生か、行かない人生どちらを取るか。行く人生の場合、確実に行ける今か不確実な老後どちらをとるか」という問いを立て、翌日には結論を出し、クレジットカードでの支払いを終えていた。
 そもそも世界にフロンティア、あるいは辺境などほぼ残されていないと思っている。お金と時間さえあればどこへでも行けてしまう世の中だ。これは多分皆さんよりも辺境に行ってる僕が保証する真理だ。今回の場合は特に金銭面で思い切った。体力をすり減らさずとも簡単に行けてしまう旅に少し抵抗もあったが、論点を変えて自分を納得させた。金は価値の尺度であるだけで、経験とはかならずしも等価ではないから何事を判断する際にも判断の俎上にあげてはならない。ここで本質的に俎上にあげるべきは新大陸訪問という好奇心とそれによる広い視野獲得と時間のトレードオフだった。僕の判断軸の片方は必ず時間だ。お金は無限ではないものの前借りができるが時間は有限かつ前借りはできない。
 でも心のどこかで客観的には結構な額を支払ったからには、多くのものを見て感じて持ち帰ってやろうと決心した。せっかくかわいい動物たちを撮影できるのだからとズームレンズも買った。魔法のレンズを買ったことは何よりも価値が高かった。そう、大正解だった(後述)。

何百回や何千回と活かせるのであれば割安

 10日の南極クルーズが終わった今、南極大陸を踏みしめ、想像を絶する自然の素晴らしさと厳しさと対峙する中で、いくつかの本質を見出すことができて僕は満足をした。南極旅は全部で100万円を超える支出であり過去の旅と比べても幾分高額なものとなったが、対価として新しいものの見方を獲得できたことと、それらを今後の人生における微細なものから大きな意思決定に至るまで何百回や何千回と活かせるのであれば、さぞかし割安なものだとも思えるくらいの満足感を得た。まだその本質を言葉で表現するにはいささか表現力と語彙力が欠けるのと、時期尚早すぎるので触れない。しかし、少なくとも南極クルーズでの情景をイメージするに足る日本語の情報は少ないかもしれないことと、自分がいつの日か南極の旅を思い出すときに自分にとってのシナプスを増やしておきたいという動機で、未完ではあるがnoteに記録として残すことにした。実際、時間が存分にありインプットで満足すると少しばかりアウトプットしたくなるという気持ちもあるし、これが本音かもしれない。

旅予算と行程

1.航空券(日本⇔ウシュアイア) 往復約24万
※東京→シドニー→サンティアゴ→ブエノスアイレス→ウシュアイア

2.南極クルーズ
旅行代理店 Freestyle Adventure Travel
船名 Ocean Endeavour社 Antarctica Classic号
パッケージ 10日間クルーズ(南極大陸&付近上陸5日+南極移動計4日)
部屋 ツインキャビンシェア(丸窓二つ)
値段 直前価格で約65万円/USD5,999(定価は約132万円/USD12,195)

※直前価格とは出発前約3~15日に出回る直前割引価格。定価の5割~6割。
※旅行代理店では防水ズボン、帽子、手袋が貸与される。船内で防水ジャケットが貰え、また長靴が貸与される。事前準備物不要
※チップ(1日約USD20)、激遅Wi-fi(10日セットUSD75)別途
※夕食時のワインやビールは飲み放題。BARは有料(USD6~)

3.保険
保険会社 World Nomads ※南極クルーズ申込の際に旅行代理店で取得可能
値段 USD73(※32歳日本人男性、10日間。年齢、性別、国籍により異なる)

1~3.合計 約90万から

4.備考
・乗船以外でのアルゼンチン滞在費(ドミトリー+外食)6,000円/日
・別途プレトモレノやイグアスに行く場合は航空券往復+5万円/1か所 
・ウシュアイアでズームレンズ(80-300mm)を購入(約3.5万円)したが大正解だった。ペンギンのコロニー、クジラやアザラシも最大5~10m程度しか近づけない。一眼レフ持ちの人は少し奮発してでもいいレンズを買うべき。僕は300mmを購入しかなり満足したが、500mmはなお良い(基本的に三脚を使えないボートの上や移動しながら撮ることになるので、手ブレとトレードオフで考えるならば300mmでもいいかも)

1~4.合計約100~120万(最短2週間~3週間)から

観光した場所

グリーンウィッチ島
 ジェンツーペンギンとアゴヒゲペンギンのコロニーを見ることができた。他、2匹だけではあるがマカロニペンギンも確認できた。1月10日時点ではこの島では、ジェンツー・アゴヒゲペンギン共にすでに子供が卵から孵化して一人歩きできるようになっていたため、雛ペンギンを腹で温める親ペンギンの姿は見られなかったが、親ペンギンが雛ペンギンにエサを口移しして与える姿は確認できた。両ペンギンは歩行時にバランスを取るために手を広げて歩くのだが、それらのかわいい姿を大量に見ることができた。


ポータルポイント
 南極初上陸の地。海に転がる大きめの氷山を眺めながら、綺麗な雪でできた雪山の上を歩くことができる。雪山は2つあり、どちらも登ることができる。高いほうの雪山は、上った際にその断面図を見ることができるのだが見事に雪で100m程度の高さを形成していた。一歩間違えれば万事休すであるが、ツアーで行く場合には基本的にはガイドが赤い旗を立ててくれているので、その赤旗に沿って歩けば問題なしという訳だ。

ユースフルアイランド
 ジェンツーペンギンのコロニーがある。1月12日時点でここのペンギンはちょうど雛を卵から孵化させている時期で、運よくそれらを見ることができた。ある親ペンギンは卵を温め、別の個体は卵から雛が顔を出しているそれを温め、別の個体は足元に二匹の雛ペンギンを抱えて包み込むように温めていた。うつぶせになっているまるまる太ったペンギンをずっと観察をしていると、2~3分に一度それらのペンギンが起き上がる時がある。そこでこれらの光景が確認できるという訳だ。また100m程度の山をぐるりと上ることができる。山肌には雪とペンギンのフンが一面にあり大変滑りやすい。

パラダイスハーバー
 アルゼンチンの夏季の南極基地がある。そこには木材で作られた家と電塔がある。夏季には気象学の専門家が7人ほど住んでいると聞いた。氷山がゴロゴロしている中を進み、氷山の上にいるアザラシやペンギンを確認した。パラダイスハーバーを回りこむようにして一か所上陸できる浅瀬の場所があり上陸。ジェンツーペンギンなどを確認。乗客のうち希望者は別料金を払ってこの地で一晩キャンプをしていた。

ポートチャルコット
 ブース島の北側にあるポート。チャルコットがフランシス号でこの地に到達したため、ポートには「F」の文字と海面水位が刻まれている。チャルコット一隊は1904年にこの地で越冬をした。ポート近くの山の頂上には十字架があり、そこから一面の景色を眺めることができた。湾にはミンククジラも確認出来、また大きなジェンツーペンギンのコロニーと、一匹のアデリーペンギンを確認できた。アデリーペンギンの顔は、まるで漫画だ。

プレノーベイ
  大きめのテーブル型の氷河や、古く褶曲した形の氷河が点在しているエリア。高さ20m程度で氷山の真ん中が崩れて空洞になった氷河を見ることができた。また、小さい氷山の上とその水面にはペンギンが密集しているエリアがあり、いわゆるファーストペンギンとそのフォロワーが行う、海への飛込みや陸への飛びあがりなど一連の集団行動を見ることができた。

ネコハーバー
 ジェンツーペンギンのコロニーがある。1月14日時点で雛ペンギンは親の足元にいるものから足元を離れているものまで、ある程度の広がりがある。ペンギンたちがせっせと巣を作るために石を運んでいる様子がみえた。岬に突き出たペンギンコロニーの小山を囲むようにして一周し、氷山がごろごろ転がる湾とペンギンコロニーを一緒に見ることができた。なぜだろうか。これだけジェンツーペンギンを見ているが、なかなか飽きないものだ。ペンギンは色んな表情を僕たちに見せてくれた。

クベービルアイランド
 ジェンツーペンギンの大きなコロニーがある。我々の船も島近くに停泊しており、氷河も周りに多いため氷河と船とペンギンを一度に見るにはいい場所であった。また氷河が結構崩れやすい地であり、瓦解した氷河によって50cm程度の波が立った。そして彼らはこれをTSUNAMIと呼んでいた。他にはミンククジラのいくつかの個体の骨が打ちあがっていたし、対岸の島には体長2m超のゴマアザラシがまるで軒先で横になりうとうとしているおじいさんのように何匹も横たわっている姿を確認できた。これが最後の上陸という事で名残惜しさにいつもにもまして大きく息を吸い込み、目を閉じて風とにおいを感じた後に、その瞬間を沢山切り取りべく、いつもより多くシャッターを切った。


まとめるとこんな感じであった。

ウシュアイアまでの道のり

太陽を求めて日本へ

 11月の末に僕はヨーロッパを旅していたが、思い立って急遽日本へ一時帰国した。東欧や北欧が寒く曇りがちで、観光客はお呼びでない雰囲気が漂い、実際に僕自身日照時間の短い地域で過ごしていたらまるでノイローゼになってしまいそうなくらいの精神的な息苦しさを感じたため、逃げるようにして日本に戻った。もう一つの理由としては長い付き合いの友人が結婚により二年ほど前に金沢に移り住み、何度も遊びに行こうと思っていたがその度に都合がつかずに断念していたのだが、この春にある事情により金沢を離れることとなってしまった事を機に、周りの友人たちがこぞって11月末に金沢に遊びに行く話が浮上し、金沢の友人含めた友人たちとの集いにどうしても合流をしたい思いが強くなったため、日本へ11月末のタイミングで帰ることを決心することができた。結果としてその集いはここ何年の間は少なくとも忘れないくらい満足度の高い時間を過ごすことができた。いつも会っている人たちでもまた別の場所で会うと、見るものすべてが新鮮でとても良い。そして誰かに会いにどこかの地へ行くことはこのうえない旅の動機となり、その地の事を何も知らなくても案内含めて任せてしまうこともできるので、一人で海外を回っていた時とは緊張感から情報収集度合いからまるで異なり、何も考えずに安心して友人についていく事ができた。いわゆる、友人に意思決定を全権委任するタイプの意思決定をしたことが功を奏した。長期の旅で脳が疲れていたタイミングではその意思決定スタイルはとても心地よかった。

12月の日本

 12月の日本は僕にとって寒くもなく過ごしやすかった。主に馴染みのある京都、東京で過ごし、どちらの都市も満足のできる時間の使い方をしていた。初めての取り組みとなるが毎週のようにバー、料理会、勉強会などのイベントを開催し、会いたい人にジャンル問わずここぞとばかりに会った。京都でゆったり紅葉を見ることもできたし京都にまた戻りたいとも真剣に考えていた。時間が存分にあったのでよく考え事をしたが、この旅の期間に得るものも沢山あったが損なったものも多かった。それらは同じ物差しでは測れない性質のもので、どちらがどれだけ大きいなどとは言えず、どちらもかけがえのないものだった。そして損なったものは、もう一生戻ってこない。12月下旬になると、いよいよ日本も寒くなってきたのでいてもたってもいられなくなり、早く最後の予定が終わることを待っていた。そして寒くて暗いヨーロッパの反動もあり、僕は南へ行くことを渇望していた。ぼんやりしながら航空券予約サイトを開き、カリブ海あたりへ行くつもりが、寝ぼけていたようでオーストラリアのシドニーでトランジット、チリのサンティアゴでストップオーバー、そしてアルゼンチンのブエノスアイレスへ行く片道航空券を取ってしまった。寝ぼけていたと言ってもブエノスアイレス行きが片道10万円と、地球の真裏に行くにしては、そして年末年始で航空券の価格が軒並み高騰しているこの時期においては、特に格安のように思え、同時期に見たカリブ海行きの航空券が軒並み片道10万をゆうに超えるものばかりである中で、これはブエノスアイレスに呼ばれているのではと思って航空券を確保したくらいには記憶ははっきりしていた。ただ、サンティアゴもブエノスアイレスも、正直ここ数年で行く場所とは考えてもいなかったため、興味の範囲で読んだ本も下調べも全くなく、楽しみ方が未知数の国に来てしまったという意味では、やはり寝ぼけていた。

南米初上陸

チリのサンティアゴは以前少し触れた通り、中緯度に位置するが寒流と偏西風で夏季は非常に過ごしやすい地中海性のCs気候で、海産物も美味しく、半年前の北半球の夏季に訪れたギリシャやイタリアに引けを取らないくらい、夏季のCs気候の地域特有の、すべてに恵まれた土地であると感じた。ご存じの通りギリシャもイタリアも、そしてサンティアゴのあるチリも、治安面や所得の面では決して良いとは言えない。しかしそれらが取るに足らないと思えるくらい、気候と天気と食べ物が、恵まれすぎていた。サンティアゴから少し足を延ばして向かった沿岸の街バルパライソも同様にカラっとしていて、空と海は突き抜けるような青さで、家々はあらゆるカラフルな色を使っていて素敵な街だった。

 サンティアゴでの滞在を終えて向かったのは目的地のブエノスアイレス。ブエノスアイレスはスペイン語で「いい(Buenos)空気(Aires)」という意味であり、すでにサンティアゴで夏の南米の良さを実感したので期待しながら飛行機に搭乗。アンデス山脈上空を超え、眼下に広がる大湿原パンパを眺めながら向かった。そしてブエノスアイレスは雨が降っていて湿度は高く、気温も30度ほどあり、カラっとしていたサンティアゴとは全然違っていて、すこぶる居心地の悪い滞在となった。到着をしてすぐにケッペン気候区分と月別の降水量のグラフを見て、ここは今来るべきところではないと判断し、即座に航空券予約サイトを検索、そしてウシュアイア行きの航空券を調べて確保した(航空券確保前に天候を見たが、ウシュアイアはまさにこの12月~2月の短い夏季がベストシーズンとの事だった)。ウシュアイアは世界最南端の都市であり、手元に情報はないもののその響きだけで学生時代から憧れていた場所だった。しかし実際には日本から向かう航空券を調べても、三度の乗り継ぎを含む四度のフライトを経て丸二日+αかけてたどり着く場所であり渡航先の候補から外していた。いつか南米を時間かけて周遊している際に行けたらいい場所、程度に考えていた。しかし結果として、今回の目的地がウシュアイアになり、急遽かねてから漠然と行きたかった場所にたどり着くことができた。

ウシュアイアで過ごした七日間

 ウシュアイアで七泊の滞在をしたが、なぜそうなったのかというと偶然の産物に他ならない。まず何の目的もなくウシュアイアに来てしまったがために、到着初日に南極クルーズの空きを見つけ、翌日予約をし、出発日までしばらく待たねばならなかったこと、そしてクルーズ終了後に旅仲間の友人がたまたまウシュアイアに到着する予定があったため待ちたかったことなどが重なり、数万人という街の規模に比べれば、小さい街に長い間滞在することとなった。

 ウシュアイアの街はとても快適で過ごしやすかった。
 第一に、空気が綺麗であった。パタゴニアの最南端に位置し、まわりに対して大きい都市もない。偏西風が運んでくる風の先を見渡しても山と海しかなく、その山の上部ははげ山で積雪しており、雪山特有の氷塊で山稜が削られて尖っており、その海は深く澄んだ青色をしており、都市とは言ってもいわゆる都市にあるような汚染とは対極にあるような場所であった。
 第二に、気温がちょうどいい。南緯55度に位置するウシュアイアは一月のこの時期は夏季となり、昼は18度程度、夜は10度程度となり、昼は屋外でもジャケットを羽織らずに長袖で十分、夜は布団をかぶって寝ればパンツ一枚で何の問題もなかった。
 第三に、生まれ故郷である長野の諏訪盆地に似ており、どことなく安心感があった。それは尖った山稜、適度にひんやりした空気感、人の少なさ、そして山と水のバランスが僕にそう思わせた。諏訪にあるのは湖で、ウュアイアにあるのは海だが、ウシュアイアのそれはまるで瀬戸内海のように、対岸も急峻な山に覆われており、どちらかというと湖のようで街も盆地のようだった。旅先はどこまで行ってもよそもの感がぬぐえないが、ウシュアイアの街は僕にとってはよそもの感がない稀有な街だった。そしてこの歳になって地元に長居し平日昼間にぶらぶらしていても親族や知り合いと会い、しばらく離れすぎたために会話の内容やテンポに少し気まずくなるが、そのようなことは知り合いが誰もいないこの街では起こりえないため、ある意味において地元よりも居心地のいい街となった。

 また、パタゴニアは多くの物価が、具体的には宿やビールや食べ物がべらぼうに高い。確かに僻地に位置するため輸送コストがかかるのだろう、スーパーで売っているプリングルズでさえ日本での小売価格の倍程度の値段がする。現地で作っているパタゴニアビールなども、瓶にお金がかかっているのだろうか、日本のビールの方が断然安く感じるくらいには値が張る。
 宿は、辺境のパタゴニアに来る物好き向けに高い値段に設定しているのだろう、あるいは需給バランスで高く設定しても問題なく満室になるのだろう。そんな中、牛肉だけは驚くほど安く提供された。僕は近所の肉屋で毎日牛フィレ肉を5センチ程度の塊に切ってもらって300グラム程度買っていた。300グラムと言えば少し多めの一人前の量であるが約200円で、ステーキの王様と呼ばれる部位にありつけたわけだ。調理器具が家に比べると乏しいアルゼンチンの宿のキッチンで、低温調理の真似事としてとろ火で肉を温めたり、フライパンの余熱を利用したり、あるいはとろ火で30分フライパンの上を転がしたり、などとあらゆる火入れの方法を試行錯誤して、最高の調理法を見つけようとしていた。もちろんソースも色々試した。何故ならば赤ワインもとても安いからだ。そして牛フィレと赤ワインを嗜みながら一日の結構な時間を料理に割いていた。結果、とろ火で肉を温める方法以外は成功し、7日間過ごしても間延びした感覚もなく、満足度高く過ぎ去っていった。

南極クルーズ拠点の街で予約をする

 南極クルーズは一般的には南極大陸の夏季(12月~3月)に出港する、10日~20日の船旅である。そして船の隻数や席数に限りがある上に、単価が高いために一般的にはその予約は一年半から半年前に終えて予約を確定させる。しかしやむを得ない事情によるキャンセルや、結局席が直近まで埋まらないこともあり、南極クルーズの起点の街ウシュアイアの町ではラストミニッツセールという直前割引のチケットが旅行代理店で売られている。だいたい15日前くらいからそのチケットが売り出される。そして到着初日に僕がしたことは、7日後に出発するチケットを予約する事だった。これは通常価格の半額程度の割引で買えるのだが、クルーズ会社からしても、空きが出るくらいならば少しでも席を埋めたほうがいいという判断で、各クルーズ当たり1~2室程度を出している。そしてウシュアイアの街には旅行代理店が溢れるほどにあるが、彼らの手数料はどこもほぼ一律で、同じ出発日の船は~99ドルか切り上げて00ドルか、という旅行代理店の美意識の違いくらいしか差がないため、僕は宿泊していたオショビアホステルがオススメしてくれたフリースタイルという旅行代理店を利用した。実際に対応も早く防水ズボン、ニット帽、防水グローブを貸与してくれたので自分で事前準備するものは全くなしに参加できたのは、個人的にはとてもよかった。通常予約で参加した人は最低必要装備として、それらのものを新たに買いそろえなければいけない。

南極クルーズの船内

船内は欧米の論理で動いていると感じるまでに大した時間はかからなかった。まず公用語は英語であり、アルゼンチンの公用語のスペイン語は乗務員含めて全く話されていなかった。クルーズ後半に掲示板に掲出された統計情報に基づくと、約200人の乗客の約半分は米国、他35%が英国、カナダ、オーストラリアから来ていた。他にはオランダ、フランス、ドイツ、スイス、中国、インド、日本等、いつも見る顔ぶれの乗客ばかりだった。アジア人は全部で1割程度、日本人は僕含めて3人。中国、インド。アジア系の出身の少なさは、アジアはアルゼンチンの裏側に位置しているため、かなり少ないことも理解できる。他、参加者平均年齢は50歳、最年長は86歳で最年少は16歳。女性55%男性45%。ハネムーン1組、結婚記念日3組。

 添乗スタッフのうち、ガイドや各アクティビティーのサポートスタッフのほとんどが英国、カナダ、米国、オーストラリア出身で、他には通訳として迎え入れられたであろうフランス人、中国人、ロシア人スタッフが一人ずついた(単に通訳だけではないが、彼らの役割にはそう書いてあった)。シェフと清掃スタッフは顔ぶれをがらりと変えて、ほとんどがフィリピン人だった。

 200人の乗客のうち、肌感覚ではあるが60%が一人参加、40%が夫婦や親子で参加をしていた。おそらくすべての部屋は二人部屋の相部屋となるが、それはスタンダードであった。二人部屋の相部屋と言ってもなかなか広いスペースを使うことができて、ツインベットのある寝室とテレビとソファーがあるリビングの二部屋があり、さらにユニットバスが部屋に二つ、照明やコンセントも二つあり、カードキーも個々にもらえた。ゆえに二人部屋で起こりえる多くの問題はそのシステムによって事前に解決されていた。日本人の感覚からしたら、二人部屋はいやだ、あるいはそうだとしてもせめて相部屋は日本人がいい、などと思うかもしれない(実際そのように旅行代理店に問い合わせをしていた日本人乗客もいたがそのリクエストは却下されたらしい)が、ここは欧米の論理に基づくとソーシャルな場であり、プライベートよりソーシャルの文化がフィットする。実際にルームメイトのオランダ人は、一人旅を好む人であるが、旅先では常にホテルではなくホステルを選ぶという。ホテルは家族の行くところで、一人で行っても話す相手もいないからさみしいのだ、一方でホステルは共有スペースや相部屋で話す相手がおり、よりよいのだと言っているし同様の話は彼に限らずよく聞くものだ。そして国籍に関係なく、性別と年齢に基づいて部屋割りが決められていた。ルームメイトは僕の二つ上の34歳だった。

 クルーズには毎日3食が付いた。食事のボリュームが少ないことは全くなく、むしろほとんど運動をしないクルーズ船の中で僕たちは食べすぎているようにも思えたし、実際に提供される料理はどれも抜群に美味しく、ついおかわりをしてしまいたいと思う程に、各皿も、コースも、毎日の料理も、飽きるものはまるでなかったように思えた。朝はいわゆるホテルのモーニングに引けを取らないレベルの料理。毎日卵を使ってスクランブルエッグ、オムレツ、目玉焼きを作るシェフと、日替わりでポーチドエッグやワッフルを焼くシェフがいる。昼は日替わりで、麺料理、バーベキュー、ファラフェル、牛や鶏や豚のロースト、火鍋、カレー等々。夜はさらに豪華だ。毎晩コースメニューにワインとビールがついてくる。コースの内容も毎晩異なり、メインディッシュ(肉、魚)やスペシャルメニュー(パスタ、リゾット)にはあらゆる肉や調理法やソースが用いられていたし、ワインも日替わりだった。日によってはレストランのエントランスにフルーツで彫ったペンギンが飾られていた。胴体と手はスイカ、足はニンジン、顔はグレープフルーツ、目はニンジンとチェリー、頭はスイカで作られており、またイタリアンディナーの日にはホールサイズのチーズ、原木についているハム、丸ごとのハムやサラミが何種類も用意されていて、どのようにしてこれらの食材を船内で適度に保管して、適度に調理できているのかを不思議に思うくらい何もかもが品のいいレストランのそれだった。

 そしてクルーズ終盤にかけて、乗客は例外なく体重が増加し、顔が分かりやすくパンパンになっていった。僕もいとも簡単に太った。乗務員はなぜかそのスタイルを維持していて不思議だったが、彼らは、名前は忘れたけど生産者の顔が浮かばないヘルシーなごはんを食べていて妙に納得した。

 食事と睡眠とゾディアック(ゴムボート)で遊覧&上陸以外の時間は、各種レクチャーやレクレーションが行われており、他にも時間を使う場所・装置は沢山あり、退屈する時間はほとんどなかった。具体的には、生物学者による南極の生態系やペンギンやイルカの種類に関する講義、プラスチックが生態系や地球に与える影響に関する講義、地理学者による南極圏の風や気象現象や氷山の種類についての講義、歴史学者による南極各到達点での人類や犬などがいかにしてこの地にたどり着けたかなどの講義から、フォトグラファーによるカメラやスマホでの写真の撮り方(ホワイトバランスからシャッタースピード、明度、利用撮影モードまで)及び撮影後写真の共有ドライブへのアップロード方法や具体的なレタッチの方法のレクチャー、ライフジャケットの着脱演習、ゴムボート着脱演習、南極での注意事項説明、船長によるカクテルパーティー、ヨガのレッスンなど、しっかりしたプログラムが組まれている。
 それ以外にも、毎朝の新聞は国際ニュース、USA、豪州、中国、日本まで取り揃えられていた。国際ニュースから2020年世界GDP伸び率見通し、イランとアメリカの情勢、EU離脱協定法案の英国下院での決議、オーストラリアの火災などの気になっていたことを日々キャッチアップできたことは助かったのと同時に、日本語の新聞で毎日一面に報道されている「桜」「中東訪問」「ゴーン」「小泉環境相お風呂担当」の文字と毎日ほぼ何も変わらない進展には非常にうんざりした。本棚には英語の本中心に図鑑やら小説やらが大量に置かれていたし日本語で書かれた南極大全のような図鑑もあり、高校時代の物理や化学の延長線上にある興味をそそる内容ばかり書かれていた。本や新聞以外にも室内のジムには数台のマシンがあり体を動かすこともでき、デッキ上の温水プールに入ることができ、また、サウナまでついていた。有料にはなるがアロマからタイまで各種マッサージも受けることができた。早朝、おやつ時、夕方はカフェで軽食を摂れ、昼過ぎからは有料のバーであらゆるお酒を飲むことができた。

 クルーズの参加者は多くの例外なくソーシャルを求めており、ルームメイトと適度に一緒に行動をしながら、夕食前のカクテルパーティーや他のイベントでも積極的に交流を深めていた。夕食のコースには赤白ワインやビールが無料で無制限に飲めるのにも関わらず、夕食後に乗客の多くはバーへ行って有料でワインやウィスキーやビールを深夜まで、まるで息を吸うかのように飲んだ。そして気づけば僕もバーに入り浸るようになり、沢山の南極クルーズ仲間ができた。アジア人をバーで見ることは、残念ながらなかった。

 毎食、ルームメイトとは常に一緒に食べていたが、両隣は常に違う人が座って、その日におこなったアクティビティーの話やそれぞれの国や文化の話をした。参加者の偏りの話は前述の通りだが、その中でも日本は地理的にも文化的にも他国から見てユニークであり、しばしば話題にあがった(あげてもらったのかもしれない)。南極クルーズに来るような好奇心旺盛な外国人参加者は、半分くらいはユニークな国・日本への旅行経験があった。しかも東京、箱根、富士山、大阪、京都、広島、福岡は行きつくしたので彼らが最近言った場所と言えばニセコ、札幌雪まつり、四万、草津、上高地、四国というなかなかな名所を押さえていて僕よりも断然詳しくてびっくりした。日本の公衆浴場(裸になるがジェンダーは分けられる)とヨーロッパのヌーディストビーチ(男女一緒に裸になるが年齢制限がある)の違いと、秋葉原のドンキホーテビルに100均から地下アイドルとメイド喫茶まで混在する意味不明さについてと、お好み焼きはいかにしてピザやラザニアと違うかについてと、友達やパートナーやソーシャルの概念がいかに日本は独特かについてなかなか盛り上がった。

 Special Thanksとして出会った人を羅列。船内ネットが通じず出会った人といちいちSNSでつながれないので自分の記憶を鮮明に保存するために残しておく。
 ルームメイトは元建築士で、恋人との失恋と母の死とともに旅立つ決意をし、形見のキーホルダーをもってすでに3か月旅を続けていた。次はアフリカ大陸へ行き、その後アジアに向かうという。彼は夜な夜な船内で朝4時ころまで飲み歩いて、だいたいにおいてどこかの部屋の一人参加の女性といい関係になっていた。しかし彼には彼の哲学があり、まず相手を知り、恋におちて寝るという順序は絶対に崩せないというのに、求められてキスとペッティングはしてもそれ以上は哲学としてできないとのことで、翌朝になると自慢かと思いきや懺悔をしてくる姿が面白かった。僕は彼によくワインを買ってあげた。彼は僕にスムージーとウィスキーを買ってくれた。彼は皆の前では天真爛漫で明るくふるまう一方で、二人で部屋にいる時には考えすぎる癖があることと、物事を悲観的に考えてしまう癖があることに悩んでいて、その悩みをどう解決していくのか、自分の哲学と他人の哲学にどのように折り合いをつけて(あるいは折り合いをつけずに)、後悔をして(あるいはせずに)、その哲学を確固たるものにしていくのか、というようなことを揺れる船の中、僕たちの議論も揺れに揺れて延々と同じような話をしていた。
 稀少な日本人の二人も旅フリークで面白かった。一人は英国在住トレーダーで28歳のお兄ちゃん、彼はアニメ「宇宙よりも遠い場所」に感動し南極に聖地巡礼に来たクレイジーボーイ(いわゆる、よりもいガチ勢)だ、もう一人は博多で屋台をされている笑顔が素敵なおじさま。二人とも魅力的な方で僕の知らない地を旅していたし、日本人との会話の内容とテンポはやはり一緒にいて落ち着くところがあったため疲れた時には存分に彼らに頼ることとなった。
 カザフスタンのアルマトイから単身参加をし、終始ロシア語でのコミュニケーションを貫いた50歳YouTuberのおっちゃんは、毎日僕に写真と動画の撮影をリクエストしてきて、彼の「萌え萌えきゅん」ポーズ(メイド喫茶でよく見るポーズ)や投げキッスポーズでの写真は、毎日うんざりするほど撮らせてもらった(実際に中央アジアではよくおじさま方から投げキッスを貰った地獄のような記憶が蘇ってきた)。
 イタリアから唯一の参加者でイタリアとレバノンのハーフの45歳くらいの兄ちゃんはとにかく底抜けにリアクションと声が大きくバーですべらない話をお互い展開したが、彼はゴーンの話を振った時だけ声が小さくなったかな。
 インドはジャイプル出身の5人家族で参加した一団は、レストランではカレーを手食、南極大陸の丘の上では寝転がって写真を撮り常に異彩を放っていたけど話してみると日本の事もよく知っていて至極まっとうな考え方ですごく礼儀正しい人たちだった。息子家族はシンガポールの金融機関で働き今回は久々の再会との事だけど、費用はお父さん持ちで家族そろって南極で集まれるなんてとても素敵だと思った。
 韓国は釜山出身で現在はパラグアイで小学校教師をしている31歳の女性は唯一三脚を持ちセルフィーをし、サーモメーターを持ち様々なものを記録していた。三脚の脚はペンギンのフンまみれになっていたけど、三脚があったからこそ素敵なズーム写真を撮れたのかな。水温は-3度、アザラシとペンギンは8度だったが、他にも有益なデータが取れたのかな。
 アメリカはカリフォルニア出身でかなりのお金がかかるアクティビティーにフル参加していたミニマリストのお姉さんは服にストラップにすべてがグーグル製品だったけど、結局誰一人としてグーグラーかどうかを聞かなかったけど、最終日に自分から言ってて可愛らしかった。
 アラスカから1200ccのバイクで1年、8万キロかけてアメリカ大陸南北縦断をしたスイス出身66歳のまるでハイジに出てきそうなハイジの舞台・マイエンフェルト出身のおじいさんは、旅の締めくくりとして南極に来ていた。そしてこれが終わり次第、ランドクルーザーでアフリカ大陸を縦断すると鼻息を荒らげながら話してくれた。彼は5人の子供が大きくなったから、家の一階をテナントにして子供に使わせて家賃収入で稼いでいるやり手だった。一日に数回は冗談を言い合って、彼とは朝から酒を際限なく飲んだ。
 ハイジのおじさんとは別の、35歳くらいの大学クラスメートのスイス人カップルはそれぞれコカ・コーラとボーダフォンのマーケッターだったが旅のために仕事を辞めてすでに一年旅をしていた。これから資金が尽きるまでは旅を続け、資金が尽きたらマーケッターとして復帰すると言っていた。二人のたたずまいと、さすがお二人ともグローバル企業でのご経験ですね、と拍手喝采をしたいほどの、ゆっくりとした会話のテンポと明快な単語選びは僕の心を激しく揺さぶり、二人と話すときは自分の心が弾んでいる音のようなものが聞こえていた。
 ロックスターのような身なりの、金髪の長髪でマッチョな体にごりごりのタトゥーが入ったおやじは、話すとオーストラリア出身で、3か月の休暇の合間に来ていた。彼は金の採掘とライフセーバーをしていていかにも強そうだった。しかし性格としては「あなたはロックスターですか?」と僕が冗談交じりに話しかけても、冗談でマイクスタンドを握り締める姿をしてくれたくらいのナイスガイだった。
 58歳のハンブルグ出身のエアバスのエンジニアとは、毎晩バーが閉まるまでビールとウィスキーを飲み、翌朝は大体において酒が残っていたが、彼は僕よりもだいぶ多くのアフリカ各国を回っており、まぁそのレベルの人は初めて会うのだが、意気投合し二日酔いなど取るに足らないほど楽しい時間を共有しバーが閉まる深夜1時まで毎晩飲んだ。
 今回いろんな人と会話をするなかで完全にリタイアしている人とはほぼ出会えなかったが(彼らは老人同士で集まっていて、そしてバーにも来ないから話すことができなかった。ひとりフロリダ在住のおとなしめのじっちゃまと、朝食をご一緒したくらいだ)、いずれにせよ参加者は旅フリークばかりで、生きているうえでの優先事項はお金よりも時間。何かを切り詰めているタイプの旅行者はそこにはいなかった。クルーズを終えてからも街の一番のレストランでみんなでランチを食べたほどだった。

終わりに

 インターネットの登場により世界中の体系的な知識の多くは検索し瞬時に取得できるようになった。そして、いつ何度どのように考えても革命的だと思うのがスマートフォンの登場だ。スマホの登場を踏まえ、世界中の「誰でも」「常時」インターネットに接続でき、「相互に」情報発信可能な時代になったからこそ、単なる体系的な知識ではなく、さまざまな物事に対するさまざまな切り口での個別評価なども見られるようになった。

 スマートフォン登場前に(厳密に言えばスマホは登場していたが、世界が常時インターネット接続社会になる前に)西アフリカを三度縦断したことがあった。もう10年ちょっと前になるが、ホテルは到着日に適当な宿を見つけるか、宿がない場所では交渉して民泊(とは言っても家の敷地内の庭にマットレスと蚊帳を貼って寝るという程度の野宿に毛が生えた程度のもの)、両替はT/C(トラベラーズ・チェック)をウェスタンユニオンに行って適宜行い(毎回カバンの奥底にT/Cの番号をメモしていたのが懐かしい)、インターネットは遅くて高いインターネットカフェ、電話は二週間に一度国際電話、時に旅先から手紙も書き、航空券は窓口がある旅行代理店を使っていた。街の地図は小さな町には存在せず、不要な紙の裏に手書きで書きながら街歩きをし、美味しい店の情報は情報ノートに地図含めて書き込み、それらを頼りに知らない場所を歩いた。図書館やインターネットで学術論文や一般的な情報を調べても体系的な情報は一般論にとどまり、情報の切り口も限られていたため、情報ノートの存在は大いに参考になった。この10年ですらテクノロジーの恩恵を僕らは大いに受け、利便性はダイナミックに変わり、2000年代の旅スタイルはもはや過去の産物になった。冒険や秘境や辺境というものは陳腐化して実際には地上においてはほぼなくなった。

それでは、世界のどこにも辺境はないのか?

 僕の考えとしては、物理的な辺境が消失しただけで、辺境は依然としてあると思っている。旅をするうえで意識変容・行動変容を迫ることを目的としている以上、辺境と呼べるような場所に触れて日常と抽象的な次元で同じものを見出し、本質に気づき、そして日常に還元しているのであれば、日常の対比としての非日常≒辺境はあるし、辺境はやはり見出せるのだと思う。

「正しさ」と「正しくなさ」と「正しくする」ということ

 日常があってそれが上手くいっているからこそ非日常も充実できるのだと思う。まるで二つの問題を解く際に片方が解ければもう片方の問題解決に近づくように、それらは一見独立しているように見えて実はとても近接している。そして非日常を詰め込んだような辺境旅をしばらく続けてきて、このままいると僕の中で定義していた非日常と日常が逆転して、ふたを開けてみたら、旅を踏まえて還元したいと思っていた日常がすり減っていき、ついには日常に戻れなくなるような感覚にすらなってきた。

 日常と非日常どちらが「正しい」のかわからないし、日常も非日常も上位概念では人生に含まれ、わざわざどちらがいいかなど比較するという課題設定自体も正しいのか分からない。日常と非日常はまるで仕事とプライベートのように分ける発想と同じく、分けること自体がナンセンスのようにも思えてきた。そして多くの「正しさ」を、不条理や二律背反や二項対立らしきものやそれが混ざった正しさも含めて、あらゆる側面で見ているうちに、多面体にカットしすぎてもはや球体と化してしまったダイヤモンドのように、多面的な見方のいったいどれが「正しい」のかさえ分からなくなってきた。一面的なものの見方だけが「正しくない」ことは初めから分かっていた。それでは多面的なものの見方を考えているうちに、果たしてなにが得られたのだろうか。

 僕が至った結論は、どこまで行っても純度100%の「正しい」などなく、自分の言葉で意義付けをし「正しくする」ことだけという事だった。どこかにあると信じていた「正しさ」は結局他人事のように、どうでもよく思うようになった。

 そう思うとあらゆることがうまくいく気がしてきて、逆にど真ん中の日常を正しくして生きたいと思えてきた。日常とは仕事という意味ではなくて、拠点を持ち腰を据えて生活をする意味で使っている。これは外的な刺激ではなく内的な認識によって、どれだけ日常を旅のようなディスカバリーの連続にできるかというチャレンジでもある。非日常と思っている今の生活スタイルを変え、日常に戻ろうと決心できた南極旅は、少なくとも僕にとっては人生のハイライトの一つとなった。

 去年の春、人生において体力と好奇心が有り余るいま、限界突破と挑戦に全部振り切ろうと決めて旅に出た。もともとはサハラマラソンに出場しアフリカ縦断をしキリマンジャロを登頂して終わる予定だった旅が、どういう訳か日本に帰国するたびに、「まだ旅を続けられる(そして続けたい)」という確信を得て、尽きぬ好奇心に従ってその後も3回日本出国をし、ここまで来てしまった。中央アジアも知りたかった。イランもサウジも肌で感じたかった。コーカサスも旧ソ未承認国家も東欧も知らないことが沢山あったから訪れてとにかく知りたかった。そして僕は五感で知的好奇心を満たす旅をし瑞々しく濃縮された果実を毎回手中に収めて満足していた。しかし次に出てくる好奇心はオセアニア、カリブ、中南米・・・。好奇心には終わりがなかった。僕にはキリマンジャロに並ぶような何かしらの区切りが必要だった。それが南極だった。

 南極行ってまだ満足できない人は、きっと月に行く人くらいだろう。それくらい旅の区切りの舞台として南極は素晴らしかったし他と比べ物にならないくらい辺境の地であった。何かしら区切りをつけたい人は、南極大陸を目指すことをおすすめします。
 もちろん今後も好奇心と気力の続く限りは、辺境にある僕の知らないものや場所やライフスタイルを引き続き見ていくのだけど、しばらくは日常にフォーカスを当てて行こうと思う。

 非日常の中にいると刺激やトラブルが勝手に寄ってきて、好奇心や勇気を持たざるを得ない環境下で、結果として、たった一日の出来事を五感すべてが長期記憶モードになり、その記憶は何年たっても取り出すことができるようなかけがえのない思い出になる。しかし実際のところ、僕たちは日常においても同様の刺激やそれに伴う好奇心や勇気を見出すことができる。非日常の刺激を集中的に味わい満足をしたからこそ、今後はそうして不可逆的な人生における日々を、噛み締めて過ごしていこうと思った。

 あと最大二週間ほど旅を続け、2月からは日本に戻ります。しばらく会えなかった友人たちや辺境の地に興味を持ってくれた人々と、お土産話を引っ提げて気軽に会える日を楽しみにしつつ、残り少ない南米旅期間、見たいところを見て回ろうと思います。

 旅を終えてもnoteは以前訪問した辺境の地について、引き続き更新していこうと思います。

最後にお気に入りの写真を貼っておきます。

動物

自然

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辺境

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山伏ニート、文化人類学徒、料理人