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中村憲剛〜スフィアの羽根〜

2019.11.02

背番号14が、ピッチ上で崩れ落ちた。

それまで熱気を帯びていたスタジアムは一転、不穏な空気に包まれる。







田舎育ちの少年の憧れ

小さい頃、誰しもに「ヒーロー」がいる。

幼少期のヒーローの対象の理由というのは大体単純なものだ。

「仮面ライダーの主人公」や「近所のお花屋さんのお姉さん」など、身の回りや触れ合えるものの中で対象は生まれる。

そして、その理由は「かっこいいから」や「素敵だったから」といった大まかな感情的要素から構成されることがほとんどである。

幼少期の僕も、例に漏れてはいなかった。

片田舎で小学1年生からサッカーばっかりをやっていた僕は、小さい頃夢中になる「仮面ライダー」や「なんちゃらレンジャー」の放送時間、すでにボールを蹴っていた。

サッカーの練習は120分未満が主流だが、当時の我が少年サッカーチームの練習時間は5時間。

…長い。


トップアスリートでさえ長くて120分と言われているのに、当時は1日5時間、土日合計で10時間ボールを蹴っていた。

10〜12歳の少年。普通は集中力が切れ、グダグタしてしまうのだが、我々のチームにそんな人は1人も居なかった。

理由は単純。監督が宇宙人レベルで怖かったからである。

まぁ、宇宙人は見たことないけど。でも、UFOなら見たことある。これはマジ。僕は確かにUFOを見た。その日、40度を超える高熱があったのだが僕は間違いなくUFO見た。




話を戻すと、どんなにオブラートに包んでも発信する文字として落とし込める自信がないので諸々は割愛するが、とにかく監督は怖かった。だから真面目に5時間黙々とボールを蹴った。

さらに話を戻すと、そんな僕に「ヒーローの対象」が出来たのは10歳くらいの時。

僕が住んでいた片田舎で「川崎フロンターレサッカークリニック」なるものが開催された。

今考えても、何で川崎を母体としているチームが400kmほど離れた地でクリニックを開催していたのか、その理由は不明である。

…いや、このクリニックは本当にあった。この日は熱を出していなかった。信じて欲しい。



そのクリニックが終わり、最後に記念品としてフロンターレではお馴染みの「トレーディングカード」が配られるのだが、僕はそのカードで当たりを引いた。

当たりのカードを引いた僕は特別に「中村憲剛のサイン入りユニフォーム」を手にした。

当時、僕の住む街にプロサッカーチームは無かった。

なので、僕にとって「プロサッカー選手のサイン」というものは物凄く輝いて見え、物凄く価値のあるものであった。

学校から帰ってはそのユニフォームを眺め、練習に行く前にそのユニフォームを眺め、寝る前にそのユニフォームにおやすみなさいと言ってから寝る。

その日から僕にとって「中村憲剛」は憧れの対象であり「ヒーロー」となった。


ちなみに、僕が引いた"当たり"と書いてあったカードは何故か相澤貴志のトレカであった。そこは憲剛じゃないんかい。と子どもながらに思った。



止める・蹴る

「縁」というのは不思議なもので、そんな"偶然憲剛のサインを貰った少年"は順調に大人になって上京し、等々力へ通うようになり、遂には川崎市民となった。

そう。僕が川崎フロンターレに肩入れをしている理由の源泉を辿ると、あの"何故か片田舎で行われていたフロンターレクリニック"にたどり着く。

まさか当時のスタッフも、あのイベントから川崎フロンターレサポーターが生まれるなんて思いもしていなかっただろう。

「なんであんな遠いところでやるんだよ!川崎フロンターレだぞ!?川崎の概念って何だっけ?日本全国津々浦々…ってそんなわけあるかい!!」と思っていたに違いない。僕なら絶対そう思う。

…だから、クリニックは本当にあったんだって。信じて欲しい。まぁUFOもいたんだけどさ。

そんな中村憲剛の特徴を今更僕が説明する必要はないであろう。

正確なトラップと高精度な縦パス。

彼の止める技術・蹴る技術ははっきりと言えば世界レベル。

所謂「上手い」選手とは正に彼のことである。


特に代名詞となっているのが、彼の「スルーパス」であり「キック」の部分である。

下でも上でも彼は味方の元にピタッとボールを届けることができる。

最近話題となっている飲食店の宅配サービスもこの憲剛の正確無比なキックを見て思いついたとかそうじゃないとか。


では、そんな彼の「キック」をFKの連続写真を元に紐解いていく。

ストップ!(某サッカー番組風)

まず、この軸足とボールの位置関係を見てほしい。

近い。物凄く近い。

普通、ボールと軸足の間には足が1つ分入るくらいのスペースがある。

わかりやすく例えると、山手線の品川〜田町くらいの距離感でボールの横に軸足を置く。

そう。歩くにはちょっと遠い。そのくらいの距離感。



しかし、憲剛の場合はボールすれすれの位置に軸脚を置いている。

通常、品川〜田町くらいの位置関係にあるものが、憲剛に限っては高輪ゲートウェイ駅が作られたかのように隣り合っているのである。

ちなみに、高輪ゲートウェイ駅はこの憲剛の軸足の位置を見て作られたとかそうじゃないとか。

軸足に対して、品川〜高輪ゲートウェイ感覚で置かれたボール。

このボールを普通に蹴ったら、どう考えても軸足が邪魔になる。

なので、彼はインフロントでボールを持ち上げるようにインパクトの瞬間を迎える。

このように持ち上げられる形で押し出されたボールは「落ちる」回転となる。

このフリーキックは美しい弾道でゴールに吸い込まれるのだが、GKからすれば「枠外だな」というイメージでボールを迎え入れているはずだ。

インパクトの瞬間、高い軌道を描いたボールが自分の目の前で突然落下。ゴールに向かって吸い込まれていくことを悟った頃にはもう遅い。

スタジアムでは彼がゴールセレブレーションの準備に取り掛かっている頃であろう。


もちろん、今回はFKで紹介したがプレー中の上を使ったスルーパスもロジックは同じだ。

おそらく、初めて彼からボールを受けた選手は「どこ蹴ってんだこの人!!」と思うであろう。

ただ、そのボールに間に合わせるべく走っている時、次第にボールが自分の元へ向かってくるような感覚に陥るはずだ。

そして、トラップをする頃には「おおすげぇ。ぴったりだ!!」と思っているに違いない。

これぞ「数々のFWを虜にしてきた男、中村憲剛」の超絶スルーパス。

運動不足の僕でも、彼のスルーパスなら受けられる。

彼は恐らく僕が1番欲しい場所に届けてくれるはずだ。

まさに、パスのデリバリー。
日々の疲れをリカバリー。
いつか羽ばたくディスカバリー!

失礼いたしました。


2017年

そんな憲剛を語る上で欠かせないのが2017年シーズンであろう。

チームが悲願の初優勝を決めたあの瞬間、彼は等々力のピッチに倒れ込み大粒の涙を流した。

2003年に大卒で我が軍に加入してから実に15シーズン目。念願のタイトルを獲得するまでに、それだけの時間を要した。

いつの日からか、我が軍は優勝が懸かる度に「憲剛と一緒に」が合言葉になっていたように思える。

当時37歳だった彼に残された時間がそう長くないことは、何となくみんな理解していた。

だから、選手もスタッフもサポーターも、みんなが長年チームを支え続けてきてくれた憲剛と一緒に勝つんだ。タイトルを獲るんだという想いを持っていた。

今では珍しくなってしまった「ワンクラブマン」として、チームの象徴であり続ける憲剛。そんな彼のために。

そんな想いを持って臨んだのが、涙の優勝から約1ヶ月前に開催されたルヴァン杯決勝である。


そこで愛すべき我が軍は「無冠チームのお手本」とも言えるようなガチガチの試合を披露。

開始1分にミスから先制を許し、焦りからミスを連発。相手の思い通りのプランで時計の針のみが進み、挙げ句の果てにはキレッキレのドリブラーを突然SBで起用。「なんか起きろー!悟空ー!早く来てくれー!」他力本願のプロフェッショナル、クリリン的采配はもちろん不発。0ー2で完敗。

後に憲剛はこの試合を振り返って「ここまで優勝出来ないと原因は自分にあると確信した。」と語っている。

この発言を後に聞いた時僕は、もしかしてこのシーズンで優勝を逃していたら…と、感じてしまった。それくらい彼自身は追い詰められていたのであろう。

正にジェットコースターのような1ヶ月。



どん底の底にいた我が軍は、その1ヶ月後に歓喜の瞬間を迎える。
 

自力で優勝を決められる試合を逃し、他力で優勝が決まる試合を制した。

大一番にめっぽう弱いチームは、大一番を迎えることなく念願のタイトルを「憲剛と一緒に」勝ち取った。


彼が、優勝インタビューで言った一言

「この光景を待っていたんです。」

この言葉の裏にはあまりに多くの意味が込められているように感じた。

過去、優勝を果たせず引退していった選手たちは、皆憲剛にその想いを託した。

託された憲剛は、いつのまにかあまりに多くの想いを背負っていた。

時には、そのあまりにも重い荷物が足枷となった日があったかもしれない。

時には、折れそうな心をその荷物がもう一度立て直してくれたのかもしれない。


その全てがこの一文に集約されていた。


前人未到

そんな憲剛は、2018年シーズンも素晴らしい活躍を魅せ2連覇の原動力として大活躍。

38歳になったシーズンも衰えは一切見られなかった。


そして迎えた2019年シーズン。

チームのもう一つの悲願であったルヴァン杯を優勝したチームは、3連覇をかけてシーズンを戦っていた。









2019.11.02

背番号14がピッチ上で崩れ落ちた。

それまで熱気を帯びていたスタジアムは一転、不穏な空気に包まれる。





すぐに担架が呼ばれ、彼は担架でピッチを後にした。




左膝前十字靭帯損傷、左膝外側半月板損傷



それは、39歳のベテランプレイヤーにはあまりにも過酷すぎる現実であった。


優勝まで15年を要した憲剛に、サッカーの神様はまたしても大きな試練を与えた。

サッカー選手が引退を決める理由のほとんどは怪我だ。

どんな名プレイヤーも、怪我に勝てずに引退を決めていく。

普通、39歳のサッカー選手が前十字と半月板を損傷して手術をしたと言われれば、復帰は難しいと考えるのが一般的だ。

怪我をした肉体的ダメージよりも、復帰に向けた辛いリハビリに耐えられないケースが多いという。

メンタル面で折れてしまい、結局復帰せずにスパイクを脱ぐ。そんな往年の名プレイヤーを沢山見てきた。

どんな名プレイヤーも、怪我には勝てない。


だが、これが「中村憲剛」ならどうか。

初タイトルまでに15年を要し、36歳でリーグ初MVP 37歳でリーグ初優勝 38歳でリーグ連覇 39歳でカップ戦初優勝を成し遂げた、中村憲剛なら。


この男に「一般論」など通用しない。

この男に「普通」などといった前置きは必要ない。

この男は、誰も歩まぬ道を歩む旅人なのだ。


この怪我について憲剛はこう語っている。

「40歳でこの大怪我から復帰するという前例を作ることが今のモチベーション」

この男なら、間違いなくこの大怪我を乗り越えられる。

40歳で全治7ヶ月の怪我から復帰するという新たな伝説を作るに違いない。

僕はそう確信している。

何故なら、この数年間で「一般論を覆す」中村憲剛を沢山見てきたからだ。




いつしか、スポーツ選手が好きな歌を紹介するという番組で憲剛はスキマスイッチの「スフィアの羽根」という歌を紹介していた。

「輝く空の青を丸めた背中に纏い」

というフレーズが猫背の自分とリンクして好きだと彼は言っていた。

今、40歳目前で前人未到の大怪我からの復帰を果たすべくリハビリを行なっている憲剛。

「まだ、上へ 僕はまだ終わっていない そうだろ?

待ってないでラインに立って 顔を上げて這い上がれ」

彼がこの歌を紹介していたのは確か4〜5年前だったと思うが、正に今の憲剛はこんな想いなのではなかろうか。


そして奇しくも僕も、同じ想いである。




まだ、終わっていない。


終わらせてたまるか。




僕は一サポーターであり、残念ながらチームを勝たせることも、チームに関わることも出来ない。

だから、基本的に感情的になることもなければ「娯楽」としてフロンターレと関わっているつもりだ。

だけど、憲剛のことを想うとどうも感情的になってしまう。

それはやっぱり幼い頃、初めてサインを手にした、僕に宝物を与えてくれた選手だからである。


僕のヒーローだからである。

そんなヒーローを怪我なんかに奪われたくない。

僕のヒーローが怪我なんかに負けるはずがない。

サイン入りユニフォームを貰った少年は、気付けば大人になり、履いていたスパイクは革靴へと変わった。

僕を取り巻く環境や、僕の中での価値観はその都度変わっていった。

それでも、僕の中のヒーローは変わらなかった。

ユニフォームにおやすみなさいをしていた、あの頃から。

ずっと、ずっと。

そして、これからも。


僕のヒーローは中村憲剛である。



中村憲剛よ。

掴み取るんだ栄光を

さぁ! 行けるとこまで行くのだ

未来は“君"の手に






















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