短編『幸せな暴走 夏の奴隷』
「もう、それやめなさいったら!」
美沙が突然、怖い目をして怒鳴った。
おれは一瞬何を怒られているのか分からなかったが、彼女の睨みつけるような目をじっと見るうちに理解した。原因は今しがたフライドポテトの箱をゴミ籠に放り投げたことだった。
いや、正確にいえば、フライドポテトを半分ほど残したまま捨てたその行為が咎められているのだ。
休日の昼下がりの、ぽかぽかした陽気にあふれた日比谷公園での出来事だった。
その日、おれと美沙はランキングインしているハリウッド映画を有楽町で観た後、道を歩きながらその出来栄えを酷評し合っていた。
その冷笑の最中、ふと見上げると、一時期デフレ牽引企業とも言われていた大手ハンバーガーチェーン店の看板が目に入った。時間はちょうど昼の十二時過ぎだ。
ここのハンバーガーは、ハードロックカフェでかぶりつくそれのジューシーな味わいと違って、噛んだ時に口蓋の水分を吸い取られるような、なんともいえないパサパサとした舌触りが気になるのだが、それさえ差し引けば値段の割に腹を満たすことができる代物だった。
デートの時くらいもう少し気の利いたランチを食べたいものだが、給料日の数日前という微妙な時期だから、いたし方ない。
案の定、休日のため店内はごった返していた。おれたちは注文したハンバーガーのセットをテイクアウトするなり日比谷公園へと向かい、噴水が見えるベンチに席を確保した。腰掛けるや否やふたりしてジャンクフードにかぶりつき始めた。水飛沫が空中に描き出す虹が美しかった。おれたちはそれを眺めながら、旧友にまつわる噂や互いの勤め先での出来事など、とりとめのない話題を交換しながら、幸福なひと時を感じていた。
しかし、それが一瞬にして凍りついた。
「なんだよ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
「そうやって食べ物を粗末にするのはやめてって、いつも言っているでしょ!」
「おおげさなんだよ、たかがポテトを半分棄てたくらいで…」
「この前はお台場のホテルバイキングで欲張っていろんな料理を皿に盛った挙句に結局は食べ残しちゃうし、冷蔵庫にもいつもいっぱい食べ物を詰め込んで結局は賞味期限切れで半分くらい捨てちゃうし、賢治ってどうしていつもそうなの? 本当に『もったいない』という罪悪感がないのね。いい、『もったいない』はすでに国際語なのよ!」
「そ、それは…」
「あなたって一人っ子で何不自由なく育ったから、きっと食べ物のありがたみが分からないのよ」
「よく言うぜ、自分だって不自由したことないくせに…」
おれは彼女が怒ったときにまくし立てる機関銃のような小言に辟易しながら、幾度かお邪魔したことのある臼井美沙の実家を思い出していた。
渋谷区にある邸宅はどう見ても平均のそれを上回っていた。二百平米もある広々とした邸内の至るところには、一家が海外旅行の傍らに収集したというヨーロッパや中国の美術品が飾られていた。しかも、臼井家はそれなりに裕福である以上に、家柄の良さでも世間から一目置かれていた。なにしろ、彼女の父親はさる有名大学の教授で、母親もお嬢様女子大の出身なのだ。大学院を卒業したという彼女の兄も現在、教育者をしている。
要するに臼井家は、堅物の遺伝子を継承するアッパーミドルクラスの一家なのだ。当然、躾も厳しかったらしい。
「賢治はソマリアの子供たちやアフガニスタンの難民の人たちがどれだけ悲惨な暮らしをしているか、どれだけ飢餓に苦しんでいるか、一方で私たち先進国の人間がその人たちに比べてどれだけ豊かで恵まれた生活をしているか、ちっとも分かってないのよ」
「知るかよ、そんなもん…」
「ほらほらそれよ。その態度がいけないのよ。あなたって本当に地球環境のことを考えないし、浪費型消費生活を改めないし、原発には反対しないし、外国人労働者を平気で差別するし、ボランティアだってしたことないし、アマゾンの熱帯雨林の心配をしないし、『鯨の肉を食べたい』なんて無神経なことを平気で言うし、本当に自分のことしか考えない情けない人なのね」
「おいおい、またその話かよ…」
もうカンベンしてくれと泣きたかった。今までに何度この種の説教を受けたことか。
数年前の学生時代、おれと同じテニスサークルに所属していた美沙はボランティア活動に熱を上げていた。その頃から自分が正しいと思ったことを頑ななまでに絶対視し、しばしばそれを他人に押し付ける傾向が見られた。
しかも、ある種の宗教的性格とでもいうのか、「遅れた」他人を啓蒙してあげねば、という義務感まで感じるらしい。その身近な対象がおれであるらしく、時々、彼女のおれに対する恋愛感情は、単にその種の哀れみが発展しただけではないのかと勘ぐりたくなることがある。
なんでも、本人がいうには、両親から常々「ノーブレス・オブリージュ」なる概念を言い聞かされて育ったらしい。
たしかに、おれの両親はそんな価値観とは無縁だ。なにしろ田村家は深川で代々続いた人足の家系だった。親父の世代でようやくビル管理会社の事務職という一応のホワイトカラーに潜りこむことが叶い、おれの代で初めて教育投資が可能となったのだ。そんな根っからの下町育ちの脳裏に「ノーブレスなんとか」という考えが浮かぶわけがない。
「とにかく、あたし…」美沙は改めてこれ見よがしにゴミ籠に目をやると、振り返ってわざとらしくため息をついた。「あなたがいつまでもこんなメンタリティの持ち主のままだったら、この先もやっていけるかどうか不安だわ」
一度、彼女の頬に思いっきりビンタをかましてやればどれだけスッキリするだろうかと思ったが、「セクハラとDVをする男は最低のカス」という彼女の口癖が浮かび、ぐっとこらえざるをえなかった。
◆
「…というわけなのさ」
「なるほど…」黒木次郎はグラスをぐいと傾けると、ニヤリと笑った。「ふふっ、どうやら美沙は相変わらずらしいな」
「笑っている場合か!」
新橋の雑居ビルにある馴染みのバー。アフターファイブに、おれと黒木は月に何度かこうやって飲むのが慣わしだった。お互いに思いついた時に「どうだ、今日あたり」と適当に声を掛け合う。今回はタイミングよく黒木の方から誘ってきた。
おそらく傍目から見れば、美沙のことを相談するには、この男はきわどい相手かもしれなかった。なにしろ数年前、同じ大学のテニスサークルに所属していたおれたちは、互いに美沙を奪い合った仲なのだ。いわば恋敵だった。
もっとも、おれたちは対等のライバルだったわけではない。おれの隣でグラスを揺らして琥珀色の液体を弄んでいるこの黒木こそは、サークル一のモテモテ男だったのだ。精悍さとさわやかさを足して二で割ったような容姿に頭脳明晰、スポーツ万能、三年の時からはサークルの主将とくれば、女の子からモテないはずはない。
しかも、嫌みったらしいところがまるでなく、面倒見がよくて、同姓からも人気があった。正直、ここまで差が開くと、同姓としては嫉妬するよりも逆に崇拝感情すら起こるものだ。当然、美沙は黒木のところへ行っても不思議ではなかった。
だが、大方の予想に反して美沙はおれを選んだ。
このことは謎のひとつで、彼女に問いただしてみても、今もって曖昧な回答しか得られないでいる。今から思えば、「助けてあげたい」という類いの同情を誘ったからではないかという気がしないでもない。なにしろ彼女にしてみれば、おれは「救う」対象らしいのだから。
もっとも今では、仮にそうだとしても、それはそれで作戦勝ちとも言えなくもないと開き直ることにしている。
今では互いに二十代の後半に差し掛かったが、黒木とは当時から友人同士であることに変わりはなかった。
「おまえの気持ちも分からんでもないが、彼女の、あの社会的責任感というやつは完全に刷り込まれたものだから、今さら変えようがないね」
大手家電メーカーに勤めていて出世間違いなしと周囲から見なされている男は言った。
「これまでもおれのほうがいつも彼女に合わせてきたんだよ。これからもずっとそうだとしたら、フェアじゃないだろ?」
「おれに言わせれば公平とか公平でないとか、そういう問題じゃないな」ネクタイを緩めたワイシャツ姿の黒木はまたぐいとグラスを傾けた。「やや行き過ぎかもしれんが、美沙は決して間違ったことを言っているわけじゃないんだ。だから、そんな彼女に変われというのは、筋を曲げろというのと同じだ」
「それが独善っていうんだよ・・」
「気の毒だが、嫌でも賢治のほうが適応するしかないね。とっとと諦めることだ」
「はっきり言う。気に入らんな」
実は、おれはそんな黒木をこそ気に入っていた。男らしい、潔いやつだ。
「ははは…」黒木はさもおかしそうに笑った。「贅沢言っていると罰が当たるぞ。彼女みたいな良家のお嬢さんは滅多にいないんだ。釣れただけでも幸運と思わなきゃ」
たしかに、これまで美沙の独善性に辟易しながらも、なんとか結婚を前提に付き合ってきたのは、彼女よりもいい女性が見当たらなかったからだ。
あの、時おり発揮する、教え諭すような態度を除いては、申し分がないともいえる女性だった。
「そんなもんかね…」おれはため息をつくしかなかった。
「そんなもんさ」黒木はそう言って、グラスを持ち上げた。「『結婚とは妥協である』を学んだ親友に乾杯!」
目の前にグラスを突き出されたおれは肩をすくめ、それから自分のグラスをチンと重ね合わせた。
改めて、自分が黒木を親友として完全に信頼していることを知った。
いったんこの話題から離れて、最近の仕事の状況など、とりとめのないことを話した。
「あっ、そうそう」黒木が急に何かを思い出したように切り出した。「ところで、今度の盆休みだが、何か予定はあるかい?」
「一応立てているが、どうして?」
「実は…」と黒木は説明を始めた。
なんでも、栃木県の那須高原で「大自然の中で人間性を回復する体験教室」とかいう、なにやらユニークなキャンプがあるという。気晴らしに、ウィークの前半にでも参加してみないかという誘いだった。話を聞く限りでは、面白そうな内容だったが…。
「生憎だが、京都や奈良を旅行しようかと美沙と話していてね。彼女に訊いてみないと」
「そうか」と黒木は別段残念そうにせず、またグラスに向き直った。
◆
「ええっ!? 友達とヨーロッパ巡り!?」
突然、話があるという美沙と合流したスターバックス店内で、おれは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「そうなの、ごめんなさい」と美沙は悪びれた様子もなく言った。「パリに留学している女子大時代の同級生から招待されちゃったの。当時の仲良しメンバー数人で集まって、フランスだけでなくスペインやイタリアも回ろうっていう話にまで膨らんじゃって…」
美沙の目が輝いていた。今からわくわくしているといった様子だ。
「京都や奈良への旅行はどうすんだよ?」
「また今度ね」
「そんな約束したことを…。身勝手だ」
「だから謝っているじゃない」美沙が口を尖らせた。「いくら賢治でも私個人の楽しみを奪う権利はないわ。そう思わなくて? もしかして、結婚してからもそうやって独裁者みたいにふるまうつもり? 私はそんな風に管理されるのはご免だと言っておくわ」
おれはむっとした。
「分かったよ」
おれはつっけんどんにそう言うと、彼女からぷいと顔を反らした。そして、カフェモカに刺さっているストローを無言でひたすらチューチューと吸いつづけた。我ながら子供じみた態度だとは思わなくもないが、おれにも意地があった。
「じゃあ、あたし、これから同級生たちとさっそく旅行プランを練る集まりに顔を出すから」と言って、美沙はさっさと店を後にした。
その彼女の後ろ姿を睨みつけてから数日後、おれは黒木に電話していた。
「おお、そうか」黒木は喜んでいた。
なぜか受話器の向こうで、一瞬、黒木がニヤリと笑ったような気がした。
◆
ツアー当日の朝は雲ひとつ見当たらない快晴だった。旅行日和になんとなくおれの気持ちも弾んだ。集合場所は新宿西口のロータリーそばである。某ビルを目印に集まった参加者たちはここで朝八時に専用バスに拾われ、栃木県に向けて出発する手はずになっている。
あの後、黒木に教えられた番号に電話すると、すぐにツアーパンフレットが郵送されてきた。高原でのハイキング、地元産の食材をふんだんに使ったバーベキュー、山々に囲まれた中での温泉、果樹園での梨や桃狩り、果ては農作業体験…。いろいろな要素をかき集めたような、なんとも不思議なツアーだったが、共通しているのは人里離れた大自然を思いっきり満喫しましょうというコンセプトだった。
盆休み中に美沙がヨーロッパ旅行を満喫している間、自分ひとりだけ自宅や実家で悶々としているのは耐えがたく思われた。結局、値段が安いこともあり、黒木も参加するということで、ツアーに予約した。
キャスター付のバッグパックを転がしながら新宿の集合場所に着いた。
周りには、すでにおれと同じツアーに参加すると思われる連中がちらほらと集まり始めていた。背広を着て腕章をはめた案内人らしき男が、片手にチェックシートを持ちながら参加者に声をかけて回っていた。
「失礼ですが、お名前は?」男がおれの方に向き直った。
「田村賢治です」
「田村様ですね…」男はチェックシートに記しながら饒舌に言った。「本日は当ツアーにご参加いただきまして真にありがとうございます。ところでつい先ほど黒木様から『仕事で急きょ宇都宮に出張に行かなくてはならなくなった』とのご連絡が入りまして…」
「はああ?」
「今日のところは来ることができないので、明日、直接現地に合流すると急ぎ田村様に伝えてほしいとの伝言を授かっておりますが」
おれは一瞬「なんで直接連絡してこないんだ?」と訝しく思ったが、次の瞬間にはいちいち腹を立てることすら億劫だという考えが起こった。
「そうですか…」
おれはため息をつくと、スマホを取り出して、黒木のそれにかけた。なぜか繋がらなかった。とりあえず、現実をただ受容するしかないと思った。
いつの間にかこの場が大所帯になっていた。ツアー総勢三十名といったところか。ツアーパンフレットに掲載されていた写真には参加者の三分の一くらいは女性であったように記憶しているが、今回どういうわけか、女性の姿が見当たらない。おっさんばかりの団体というのはむさくるしい限りだが、おれも他人からそう思われている一員に違いないので偉そうなことは言えなかった。
案内人が腕時計を眺めている。そろそろ出発の時刻だ。
その時だった。
場の一角からざわめきが起こり、巨漢が顔をのぞかせた。丸太のような二の腕とマッチ棒を思わせる形のアフロヘア、そしてドングリのような眼……見覚えのある風貌だ。
おれのそばにいる男がつぶやいた。「ドンキー大西だ」と。
そうだ、あの男はたしか五年ほど前まで四角いリングの上で傍若無人にふるまっていた――むろん演出だろうが――悪役レスラーことドンキー大西だ。常に隠し持った凶器で相手を攻撃する卑怯な役どころを演じていたが、一方でひどくドジなところもあってしばしば観客の嘲笑を誘い、憎めないキャラクターだったと記憶している。
引退後は、たしか不良少年たちを矯正するための林間学校か何かを開いたと雑誌で読んだことがある。まさかこんなところで有名人に会えるとは思ってもみなかった。
腕章をした案内人も彼に関しては名前を尋ねる必要すらないと思っているのか、「はい、大西さまですねえー」と独語すると、チェックシートに記した。
そのドンキー大西の到着が合図であるかのように、すぐに貸し切りバスが到着した。
◆
高速道の道のりは退屈だった。案内人の説明も事前に目を通したツアーパンフレットの繰り返しで、とくに傾聴に値するものではなく、東北縦貫自動車道沿いの景色も単調極まりなかった。ようやく変化の兆しが見えたのは、出発してから数時間後、バスが左にウインカーを出してからである。
栃木県の那須インターチェンジを降りたバスはすぐさま山道を登り始め、緑の繁茂でむせ返るような山奥へと、どんどん分け入り始めた。進むにつれ、まばらだった民家もやがてまったく見当たらなくなり、文明から遠ざかっていくのが実感できた。ところどころで現れる沢は水晶のような青い水をたたえ、周りの岩や砂利が強烈な真夏の太陽を反射していた。ここは人の痕跡こそないが、しかし生命力にあふれた樹林の海――まさに秘境に違いなかった。
「どうもはじめまして」ふいに見知らぬ銀縁眼鏡の男がおれの目の前に現れた。「白梅銀行の益田と申します。ご融資の相談の際は当日本橋支店にご来店を」
いきなり名刺を差し出された。状況の掴めないおれは、鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしていたに違いない。「ど、どうも」と言うと、それを受け取った。すると、男は隣の席に移って、また挨拶を始めた。何のことはない。彼はツアー客のひとりだが、バスの中で名刺を配って営業しているのだ。おれは名刺を見ながら、そうまでして営業成績を上げねばならないのかと呆れ、半ば同情した。
「さあ、皆さま、あと少しで到着します」案内人の背広男が言った。
その時、同じような外観をしたバスがふいに反対車線から現れた。向こうは三台が連なっている。道幅が狭いせいか、互いの運転手が技量を尽くしてすれ違う形になった。
相手のバスは、たぶんわれわれと同じツアーの帰りの客を乗せているのだろう。運転手同士もすれ違いざまに見知った感じで「よう!」と合図を送り、案内人の背広男もニヤッとした笑みを浮かべて軽く会釈した。
台数が三台なのは、ツアー人数がそれだけ多かったからだろう。右の窓際にいたおれには、先方の中の様子がある程度うかがえた。搭乗者たちは、みな晴れやかな笑みを浮かべて飲み食いしていた。彼らの表情はアルコールで弛緩しているように見えた。まるで、温泉旅館で酒宴を開く中年客のようだった。
あらゆる旅行には、期待感のほかに未知の領域に踏み込むことに対する一抹の不安が伴うものだが、この光景はそれを幾分払拭してくれ、おれは気分的に少し楽になった。
◆
到着したそこは緑を荒々しく切り開いただけの駐車場だった。公立小学校の二五メートルプールほどの空間だろうか。地面も舗装されておらず、バスのタイヤの動きに合わせて土埃が舞っている。われわれのほかには、所々赤い錆が浮き出た白いバンが一台だけ。端には建設作業現場でポピュラーな淡いグリーンのプレハブが建っている。その出入り口には出迎えの作業着姿の男が四人立っていた。
おれたちはここで降ろされた。
「えー、皆さま、お疲れ様でした」背広男が言った。「ここから目的の宿泊施設までは坂道が険しいため、車両では行くことができません。皆さまには大変申し訳ないのですが、これから三十分ほど歩いていただかねばなりません。その後すぐに温泉で汗を流していただきまして、昼食となります。とりあえず皆さまには、今からあそこで私どもの『自然服』に着替えていただきます。お荷物の方は作業員たちが上へお運びします」
そういえば、パンフレットには、ツアー客は一体感とリラックス効果を増すための百%天然素材の「自然服」を身につけるとあった。ツアーには農作業体験も含まれているので、泥だらけになっても構わないようにとの配慮もあるらしい。
われわれは作業員の手招きに応じて、案内人が指差したプレハブに入った。ひとりひとりに、「自然服」の入った籐の籠が手渡された。藍色に染められた麻のごわごわした作業着のようなものだった。Tシャツのような形状だが、首のところは大きく開いていて風通しがよさそうだ。ズボンは熱帯地方のイギリス軍兵士がかつて身に着けていたような、裾が膝まであるハーフパンツで、腰周りに埋め込まれた紐がベルト代わりになっている。これに着替え、代わりに自分の私服を籠に入れる手はずらしい。
着替えてみると、たしかにこの「自然服」は皮膚感触が気持ちよく、開放的な気分にしてくれた。夏向きの、涼しい格好だった。着替えには履物まで含まれていた。丈夫そうな皮のサンダルで、ベルトで足首を固定するタイプのものである。最後にツバの広い麦藁帽子を頭に被れば、これで変身完了だ。
三十名近い全員がすっかりこの「自然服」に着替え終わった。奇妙なもので、皆が同じ服装になるだけで、先まで他人だった人たちが身近に感じられる。
「皆さまよろしいですか。では出発します」
案内人の先導で、着替え所のプレハブから、すぐに獣道のような坂を上がり始めた。普段運動とは無縁なせいか、これがなかなかきつかった。たちまち汗が噴き出した。気の毒なのは四名の作業員たちである。彼らは二人で一組のペアになり、江戸時代の籠担ぎのような要領で三十人分の荷物の入ったケージを持ち上げ、よろよろしながら運んでいた。案内人も背広を脱いで、ワイシャツ姿になっている。
時計の類いも外すことを求められたので、正確な時間は分からなかったが、案内人の言った三十分よりは幾らかオーバーした頃だろうか。獣道にY路の分岐点が現れた。
「彼らはこれから皆さまの大切なお荷物を宿泊所の方までお運びいたしますが」案内人はY路の右を指した。「われわれはこちら側を少し歩いた所にある温泉まで直行して、とりあえず一風呂浴びることにします。そこには湧き水を冷やした水飲み場もございます」
温泉と冷えた水という言葉を聞いて、その場に安堵のため息がもれた。ありがたかった。真夏の炎天下を歩かされて汗だくになり、のどが渇いてきた頃だった。
われわれは荷物運びの作業員たちと別れ、案内人を先頭に歩いた。誰からともなく互いに「空気がおいしいですね」とか「いい運動になりますね」などと声を掛け合った。しばらくして、道の先に丘が見えた。道はまるで青い空と緑の大地との境目で途切れているように見えた。おそらく誰もがあの坂の向こうに温泉施設があることを想像していたに違いない。
期待で胸が膨らみ、少しばかり皆の歩く速度が速くなった。
おれも坂を上がった丘のところに楽園があることを信じて疑わなかった。
◆
坂を上がり切ったその先には、何もなかった。いや、正確には野球グラウンドほどの切り開かれた台地が広がり、そこは半ば耕され、向こうの端が山の麓に接していた。
何かおかしかった。そして心が黒い染みで覆われるように、急に嫌な予感を催した。
藍色の「自然服」を着た十数人の男たちが、鍬を振るって農作業に従事していた。彼らは髪がぼさぼさで、目がくぼみ、やせこけていた。服が磨り減ってぼろぼろになっていることもあり、まるで幽霊のようだった。
この場の光景をいっそう異様にしているのが、彼らを遠巻きにして入る五、六名の迷彩服姿の男たちの存在だった。いずれも黒光りするメタル状のものを肩から吊り下げている。
見間違えるはずがない。それは小銃だった。テレビで見たことがある。旧共産圏でよく使われていたAK47とかいう代物だ。
その銃口はピタリと農作業従事者たちに向けられていた。彼らの姿はまるで「兵士」だ。
農道に停車していた一台のジープからひとりの迷彩服の男が降り立った。マッカーサーのように黒いサングラスをかけている。ひときわ身長が高く、精悍な印象だ。その男が監視役らしい迷彩服ふたりを手招きし、三人でこちらに向かってきた。
他のふたりもがっちりした体格だが、目だけはヒヒか猿のような感じだった。部下らしきふたりは、こちらに銃口を向けている。
「新しい木偶(デク)か?」サングラスが案内人に訊いた。
「そうです、隊長」
ワイシャツ姿の案内人がわれわれのほうを振り返った。その顔には、先ほどまでの愛想良さは微塵もなく、まるで物を見るような酷薄な表情が浮かんでいた。
隊長と呼ばれたサングラスの男がニヤリと唇を歪めた。おれたちは面食らい、互いに顔を見合わせた。誰もが戸惑っている。おれは喉から何か言葉が出かかったが、もうしばらく成り行きを見守ることにした。
突然、向こうから、ガチャガチャと金属が擦れあうような音がした。見ると、数名の「自然服」を着た作業者と、同じく数名の迷彩服の男たちがこちらに向かっていた。作業者たちの引くリアカーには農具がどっさりと積まれている。よほど重いのか、彼らはよろよろとしていた。迷彩服どもが「ほら早く行け!」などと彼らを銃口でせっついていた。
その一団がわれわれに合流すると同時に、新たに出現した迷彩服どもがわれわれの周囲を固め、銃口をこちらに突きつけた。
おれたちはまた互いに顔を見合わせた。訳が分からなかった。われわれはすっかり銃に取り囲まれていた。
「さあ、みんな鍬を手にとるんだ」サングラスが居丈高に命じた。
その時、おれたちの中から「いったいこれはどういうことだ!?」という怒鳴り声が上がった。全員の視線が声の主に集中した。顔色を真っ赤にしたドンキー大西だった。
「どうもこうもない」サングラスが冷たく言った。「早くしろ」
「われわれはツアー客だぞ」大西が一歩前へ出てサングラスの顔に唾を飛ばした。「これは何の冗談だ? これがおまえらの言う農作業体験か? ふざけるのもいい加減にしろ!」
大男の野太い声がその場に響いた。やはり、迫力が違った。そして、元レスラーが抗議の先頭に立ったことがたちまちみんなを勇気付けた。
「そうだ! そうだ!」という誰かの声を合図に、みんなの不満が一斉に爆発した。まるで堰を切ったように、「いいかげんにしろ」とか「責任者を呼べ」とか「金を返せ」といった怒声がその場に飛び交った。
おれも、小銃を横目でチラリと眺めながら「モデルガンに違いない」と自らを納得させつつ、「おまえらの会社を訴えてやるぞ!」と叫んだ。
サングラスが突如、ドンキー大西に対して強烈なビンタを食らわせた。バチン、という破裂音がして、糾弾会がピタリと終わりを告げた。みんなが息を呑んだ。
「や、野郎ーっ!」大男は一瞬信じられないという顔をすると、次の瞬間には猛獣のような表情でサングラスに掴みかかった。
だが、サングラスは襲い掛かる丸太のような腕をあっさりと払いのけると、元レスラーの猪首に強烈な手刀を食らわせた。その瞬間、大男は電気ショックで痺れたように放心して動きを止めた。サングラスは大男の胴体ががら空きになるのを見逃さず、その腹に向かって強烈なアッパーを突き上げた。ドンキー大西は腹を押さえて苦悶の色を浮かべた。サングラスは彼の脚を柔道の要領で払い、大男を地面に叩きつけた。
信じられない光景だった。元レスラーはまるでピンで留められた蜘蛛のようにサングラスによって易々と地面に組み伏せられていた。どうやらこの男は武術の達人らしい。
「ぎゃーっ、痛ててて!」腕を捻り上げられたドンキー大西が悲鳴を上げた。
他の迷彩服たちが駆け寄り、大男の後ろ手に手錠を回した。サングラスの合図によってジープが横付けされ、拘束された大西がまるで物か何かのように乱暴に放り込まれた。ジープはそのままどこかへ走り去った。
まるで手品を見ているようだった。その場の空気ががらりと変わった。この連中は元プロレスラーの大男でさえも簡単にのしてしまうのだ。とても腕力では逆らえなかった。
おれはふと、これは「ドッキリカメラ」ではないかと閃いた。テレビ局が例によって悪ふざけをしているのだ。もしかして、このツアーそれ自体がドッキリの企画なのかもしれない。きっとあちこちにカメラが仕掛けてあって、われわれが驚き慌てふためく様子を陰から撮影しているのだ。みんなの不安が頂点に達したところで、看板をもったタレントが笑顔で「どうも皆さんこんにちは」とか言いながら登場し…。
「ぼ、暴力はやめたまえ!」またひとつの声が沈黙を破った。「客であるわれわれをこんな風に扱うなんて、断じて許されないぞ!」
やや甲高い、ヒステリックな口調だった。見ると、髪をきっちりと七三に別けた中年の男が真っ赤な顔をして仁王立ちしていた。見覚えがある。車内で名刺を配っていた銀行マンの益田氏だ。まだ互いに見ず知らずの間柄であるわれわれの中にあって、おそらく彼はドンキー大西に次いでみんなの印象に残っていた人物に違いなかった。
「さあ、みんな鍬を手にとれ」サングラスが無視して命じた。
迷彩服たち銃を突きつけながら「早くしろ」などと怒鳴り、みんなを手押し車のほうへ誘導しようとした。業を煮やしたひとりの迷彩服が手押し車から鍬をとり、みんなの胸元へそれを押し付けた。何人かは眉をしかめつつもそれを受け取った。迷彩服は順番にそれを押し付けていき、顔を赤くして憤る銀行マンにも鍬を突き出した。
銀行マンはいったん鍬を受け取ったが、内心の憤怒を表すかのように「こんなのは嫌だ!」と叫ぶと、手にもったそれを地面に叩きつけるようにして放り投げた。
「おい、きさま!」迷彩服が怒鳴った。
憤然とした様の益田氏は、その男に一瞥をくれると、身を翻して大またでその場を離れ始めた。
「おい待て、きさま!」
迷彩服がまた怒鳴り、肩を怒らせて大またで益田氏に詰め寄った。しかし、まるで決して距離を詰めさせないという決意表明でもあるかのように、銀行マンも振り返りもせずに早足でずんずんとその場を離れていった。
おれはチラリとサングラスの顔をうかがった。彼は眉間に皺を寄せていた。一方、迷彩服たちもまた彼らの隊長の顔をうかがっていた。どうやら指示を待っている様子だ。
サングラスがそのうちのひとりに目配せした。ふたりは互いに目で会話した。隊長が「許可する」という風に頷いた。その瞬間、おれは嫌な、恐ろしい予感を催した。
案の定、迷彩服のひとりが小銃のレバーを引くなり、それを水平に構えた。
「逃げろーっ!」おれは思わず反射的に叫んだ。
その声に驚いて、銀行マンが後ろを振り返った。背中に突きつけられた銃口の姿を見るや、眼鏡の奥にのぞく彼の目が恐怖で見開いた。
「ひっ」と小さな悲鳴を上げるなり、益田氏はパニックになって駆け出した。時おり畑のあぜに足を捕られながらも、彼は死に物狂いでその場から逃れようとした。
その背中を迷彩服の銃口が冷酷に追った。男がいっそう目を細め、照準を定めた。
――ダダダッ…。
あっけなかった。銃口が火を吹くと同時に、逃亡者の背中に血飛沫があがった。銀行マンはそのまま地面に倒れこんだ。時が凍りついたかのような静寂がその場を支配した。益田氏は地面に伏せたまま二度と起き上がることはなかった。
遠くで蝉の鳴き声が聞こえ、畑からはむらむらとした湿気を含んだ熱気が立ち上がっていた。おれは眼前の景色が陽炎でゆらゆらと揺らぐのを見て、すべての出来事が夢であればいいのにとぼんやりと思った。
やはりモデルガンではなく本物だったんだと、おれは戦慄した。おれは迷彩服の男たちが持つ黒光りする金属性の物体を改めて見やって、真夏にも関わらず恐怖で全身が凍りつくのを感じた。血の気が失せることで皮膚の表面から急速に体温が奪われていく様が自分でもよく分かった。気がつけば、足はがくがくと震え、ひどく息苦しかった。
その場の誰もが、一言も発することができなかった。抗議の声を上げようなどという者は、もはや誰もいなかった。
心のどこかでこれは「ドッキリカメラ」か何かに違いないと思っていた。今にも蝶ネクタイをした芸人だかレポーターだかが登場して、「すべてやらせでした」とペロリと舌を出しながらネタばらしするのではないかと期待していた。
そんな光景が展開され、おれたちはテレビ局の悪ふざけに怒りつつも、緊張の糸がほぐれて安堵できるのではないかと期待していた。
だが、それは虚しい期待に過ぎなかった。すべては現実だったのだ。
迷彩服のひとりが無線機に向かって何やら命じていた。しばらくして、エンジン音が聞こえ、ふいに先ほどのジープが現れた。ドンキー大西はどこかへ連行されたらしく、中は運転手だけだった。
ジープから担架が取り出された。射殺された銀行マンは、ひとりの迷彩服によって両腕を掴まれて持ち上げられ、担架の上に載せられた。その際、持ち上げられた彼の身体は、重力の法則に率直に従うかのように、しなだれていた。
益田氏の背中には真紅の大きな染みがあった。それはべっとりとした粘着質の液体に思われた。担架の上に載せられた死体は、ふたりの迷彩服たちによって運ばれ、ジープの後部座席にやや乱暴に放り込まれた。
ジープは再びどこかに向かって走り去っていった。
「逃げようとすると、おまえらもこうだ」
隊長がおれたちを見回しながら、サングラスの下からぞっとするような笑みをのぞかせた。そのサディスティックな様に、その場が震え上がった。
◆
日の傾き具合からして、夕方の六時くらいだろうか。いきなり笛が響き渡った。
「よーし、作業やめぇーい!」
笛を持ったサングラスが叫んだ。
結局、その日、おれたちは真夏の炎天下、畑の鍬入れ作業をやらされ続けた。じりじりと焼けるような日照りに、いくら拭っても汗が流れた。不幸中の幸いと言うべきか、のどが渇けば畑の縁に置かれたタンクから水を飲むことを許されたし、塩で味付けした玄米粥の昼食も支給された。粗末なものだったが、背に腹は変えられなかった。
全身汗だくになって分かったことだが、この麻の「自然服」は肉体労働に適したものとして作られたに違いなかった。生地が汗を素早く吸収して発散させるので、普段着で汗をかいた時のような不快さはなかった。
だが、おれたちが着いた時にすでに作業に従事させられていた十数人の男たちの、あの服装の磨り減り具合を思うと、これがまさに「囚人」の装いであることは疑う余地がなかった。
もっとも、おれたちにだけ麦藁帽子が支給されて、彼らが剥き出しのボサボサ頭のままでいる理由は、よく分からなかった。直射日光がさぞかしこたえるだろうと同情した。ちなみに、彼ら先客たちは、おれたちが畑作業に従事している間にどこか別の場所へと連行されていった。
「みんなご苦労」サングラスが尊大に言った。「本日のノルマはこれで終了だ。宿舎に戻ってゆっくりと休め」
相変わらず異論を挟ませぬ口調だった。疑問は山ほどあったし、殴りかかってやりたい心境だったが、それを実行する勇気はなかった。
小銃で武装した迷彩服たちが「ほら、早くいけ!」と、まるで家畜の群れを追うようにしてわれわれを銃で追い立てた。
いったいどこへ連れて行かれるのだろうか? 誰もがそんな不安に苛まれていた。しばらく歩かされると、林の間からふいに集落が現れた。木造の家屋が並んでいる。どう見ても湖畔のログハウスという風情ではない。中には有刺鉄線で囲まれているものもある。
おれたちはその有刺鉄線で囲われた大きな豚小屋のような粗末な家屋に入れられた。それは決して比喩ではなかった。部屋の隅に水の入ったプラスチック製のタンクと人数分の三段ベッドが設えられている以外は、地べたにムシロが敷いてあるだけだった。中の広さは五十畳くらいあった。タンクには傷だらけのプラスチック製のコップが紐で吊るしてある。水だけは元手がかからないせいか、気前よく飲ませてくれるらしい。
「私語は禁止だ」迷彩服のひとりが言った。「トイレはハウスのすぐ隣にある。おまえたちはここから出ることは許されない。脱走者は問答無用で射殺する。われわれが二四時間、見張っていることを忘れるな」
連中がくるりと身を翻そうとすると、ひとりのツアー客――もはやそう呼んでいいのか否か迷うが――が食い下がった。
「いったいここは何だ? あんたたちはいったい何者なんだ? われわれはただ観光にやって来ただけだ。なのに、どうしてこんな酷い目にあわなくちゃならない? 何かの間違いじゃないのか?」
迷彩服のひとりがおかしくて仕方がないという風に高笑いした。
「間違いじゃないな。おまえたちはたしかにツアー客だ」
「おれたちをどうしようっていうんだ?」別のひとりが血走った目で問うた。
何が気に食わぬのか、別の迷彩服がいきなりその男に対して小銃を向けた。男は「ひっ」と短く悲鳴を上げ、両手で顔をかばう姿勢をとった。その場に緊張が走った。
「立場をわきまえろ。好き勝手に質問していいというわけじゃないぞ。言ったはずだ。私語は禁止だ。逆らうやつは『ダーンッ!』」迷彩服が擬音を叫ぶと、銃を向けられた男は撃たれたと勘違いしたらしく「ヒイイイッ」と情けない声を発した。「容赦しないぞ」
扉が閉められ、迷彩服たちが家屋を後にした。おれは十数秒待ってから、扉を開けて隣接されている屋外トイレに入った。汲み取りを覚悟していたが、幸い水洗だった。用を足すふりをして、素早く周囲をうかがった。家屋を中心にしてテニスコート二面分くらいを囲う形で木の杭が打たれ、三メートルくらいの高さで有刺鉄線が張り巡らされている。唯一の出入り口のそばで、ふたりの迷彩服が立哨している。
とてもこの場を逃げ切れそうにないと覚悟した。
おれは疲れきって、家屋に戻るなりぐったりとムシロの上に崩れた。慣れない作業を強いられたせいか、腰が悲鳴を上げていた。腕と太ももも酷い筋肉痛だ。
ふいに扉が開き、迷彩服がワゴンを押して入ってきた。玄米粥の入った人数分のスープ皿が載せられていた。たしかアウシュビッツでは、豆が一粒多いか少ないかが生死を分けたというが、内容的にはそこまで心配する必要はなさそうだ。塩味の効いた晩飯は粗末で少し冷めていたが、おれは夢中でスプーンをすくった。大量に汗をかいたせいか、塩味に飢えていた。おそらく、値段的には数十円もしないものだろうが、はらわたに沁みるとはこのことだった。チクショー、こんなものがうまいのか、と思った。
三十分ほどして、迷彩服が今度はワゴンの回収に来た。彼が家屋を出るなり、銃を肩から吊り下げ、扉の開け閉めをする別の迷彩服が言った。
「十時に消灯する。明日は六時に起床だ。明日も作業があるから、ゆっくりと身体を休めておけ」
◆
われわれは、最初は息を殺していたが、段々と私語が見張りに伝わらない程度のボリュームで話し始めた。しばらくの間、みんなでこそこそと話し合った。
いわく、迷彩服の連中はいったい何者なのか。未知のカルト教団か何かか。それとも強盗団か何かか。あるいは銃を持っていることから、もしかして政府機関が関わっている秘密部隊か何かなのか。いったい連中の目的は何か。この施設は何なのか。強制収容所とかいう施設なのか。だとしたら、なぜこんな施設が日本にあるのか。いったい、どうやったら、そしていつになったら出られるのか…。みんなで意見をぶつけ合った。誰かが迷彩服どものことを「兵士」と呼んだ。たしかに、やつらは兵士の外見そのものだった。
誰もが不安に怯え、頭の中は疑問符で一杯だった。
突然、「おい、静かにしろ!」という怒鳴り声が響いた。と同時に、いきなりドアが乱暴に開き、大きな人影が室内に転がり込んできた。すぐに扉が再びバタンと閉められた。
兵士たちに突き飛ばされて入ってきたのは、ドンキー大西だった。
「大丈夫ですか?」
おれは慌てて彼のところに駆けより、上半身を起こしてやった。もっとも、どう見ても大丈夫そうではない。顔に青い痣を作り、憔悴しきっている。まるでリンチか拷問を受けた後のようだった。
部屋のみんなも集まり、心配そうに様子を見やった。
ドンキー大西はしばし放心状態だったが、やがて虚空を見つめる目が焦点を結び、瘤を作ったらしいアフロの後頭部を痛そうに撫でた。
「くそっ、やられたぜ…」
「殴られたんですか?」とおれ。
「ああ…」
誰かが鋭い舌打ちがし、「ひでえことしやがる」と呟いた。誰もが憤っていた。金を支払ってツアーに参加したにもかかわらず、いきなりこの訳の分からない仕打ち。しかも、連中は武装しており、反抗する者には容赦なく発砲するという、常識の通用しない集団。
誰もが情報に飢えていた。おれは大西が何か知っているかもしれないと思った。
「大西さんだけどこに連れて行かれたんですか?」
「牢屋だ」
「牢屋?」
「うむ。あの後、すぐに木造の頑丈な建物へと連行され、コンクリート製の狭い部屋の中で椅子に座らされた。それから、数人の兵士からぶん殴られ続けたんだ…」
みんなが息を飲む気配が伝わった。この巨体だからこそなんとか持ちこたえたようなもので、もし自分だったら殺されていたかもしれないとおれも戦慄した。
「実は」すぐ近くにいたひとりの男が口を開いた。「銀行マンが殺されたんですよ」
「なんだと!?」
「逃げようとして背中から撃たれたんです」
大西は一瞬だけ驚愕したような表情を浮かべたが、しかし、すぐに真顔になって「やつらならやりかねん、おかしい、どうも普通じゃない」と言葉を続けた。
「どういう意味ですか?」別のひとりが尋ねた。
「やつらは『なんとか革命軍』と名乗っていた」
「革命軍?」おれは思わず訊き返した。
「そうだ。得体の知れない連中だ」
「なんでこの日本にそんな連中が…」おれは絶句した。
議論になった。ひとりが「極左ゲリラの基地か何かだ」と言うと、別のひとりが「まさか、南米や東南アジアのジャングルじゃあるまいし」と応えた。海外に駐在経験があるという者は、こういった組織は発展途上国では珍しくないと主張した。
もっとも、結局、すべては推測の域を出なかった。具体的なことは依然不明だ。だが、事実としてやつらは、こんな人里離れた山奥に広大な土地を所有し、施設を作り、法律を犯すような真似をしでかしている。
そして、何らかの理由があって、このような半自給自足生活をしている。そのための労働力を徴収する手段が、「ツアー」を称する「人狩り」の仕組みだ。まるで王国である。
そして、今やおれたちはその擬似国家の囚人であり、生殺与奪の権限を気まぐれに握られた奴隷に他ならなかった。事実、隊長らしき男はわれわれのことを「木偶」などと呼んでいた。逆らえば昼間の銀行員のように処刑されるだけだという点で、みんなの意見は一致していた。
「おい! 静かにしろ!」
いきなり戸口で怒鳴り声がした。どうやら私語が一定のボリュームに達すると、門番の耳にも届くらしい。壁の時計もそろそろ消灯時間が近いことを知らせていた。
「今日のところはみんな疲れきっている」ドンキー大西が言った。いつの間にか彼がリーダーになっている。「とりあえず休んで英気を養ったほうがいい」
密談はお開きになった。おれは部屋の隅にあるベッドに向かった。見た目の印象と違い、麻の敷布団と毛布は思いのほか不潔ではなかった。少なくとも変な臭いはしなかった。
疲れきったおれは、ベッドに倒れこむなり、すぐに寝入った。眠る直前、昨日まで過ごしてきた生活とのあまりのギャップに、奇妙に現実感が失われていくのを感じた。なーんだ、これは時々見る「怖い夢」だったのかと、おれは納得した。
◆
どこからともなく、ニワトリの鳴き声がしていた。
起きてみて、やはりこれが現実であることが分かり、ひどく落ち込んだ。
朝食は玄米のおにぎりが二つだった。具はないが、塩味が効いており、同じ皿に大き目の梅干が添えてあった。目が覚めるような酸っぱさだった。
朝食を終えるなり、兵士たちに銃で突付かれ、農場へと連行された。
作業は前日とほぼ同じだった。
ひたすらクワを土に入れて耕す。それだけである。しばらくして、腰が痛くなった。農作業がこれほど腰にくるものだとは想像すらしなかった。
おれは時おり身体を伸ばした。ついでに、山の中腹に接した広大な農地を見やった。端のほうには何か野菜が植えられている。昨日いた幽霊のような一団は、今日はいなかった。
おれはふとひとりの兵士の険しい視線に気づき、作業に戻った。やつらにとって囚人を監視する仕事は天職らしく、作業の進展に常に目を光らせている。作業の手をちょっと休めた者や不審な行動をとる者は、容赦なく怒鳴られ、詰問された。
数時間後、粗末な昼食が支給された。玄米粥だ。ところどころに豆が入っている。畑の縁にある地べたに腰を降ろし、スプーンで粥をすくう。意外と滋味に富んでいる。とくに塩気が疲れた身体に染み渡る。普段なら見向きもしないような内容の食事だが、極限状態に置かれると、こんなものでもうまく感じるから不思議だ。「空腹は最高の調味料」とどこかの美食家が言ったらしいが、本当だとおれは思った。
昼食を終えてもまだ十分くらいの休憩時間があった。おれは袖で汗を拭いながら、タンクの水を飲んだ。私語は禁止されているので、みんなと話すこともできない。炎天下、三十人近い男たちがじっと無言で座っている。畑の縁に座って遠くを見つめていると、土壌からゆらゆらと立ち昇る陽炎に重なって、様々な妄想が浮かんだ。
ほとんどは食事のそれだ。もっとも、ラーメンとか、牛丼とか、回転寿司とか、そんなものばかりだ。あとはデザートとして、アイスクリームと菓子パンと清涼飲料水などだ。若いサラリーマンにとって、それは普段の食事であり、決して貧相なものではなかった。
「おい、おまえたちにおもしろいショーを見せてやる」ふいに兵士のひとりがニヤニヤ笑いながら叫んだ。「キャンプへと戻るぞ」
やつらは集落のことを「キャンプ」と呼んでいた。
その「ショー」の中身は何だろうか、とおれは思った。兵士の顔を見る限り、あまりいい予感はしなかった。われわれは農場から集落へと続く道を移動させられた。舗装されていない道だ。サンダルの下がざくざくと音を立てる。おれは、昨日から気になっていたことがあったので、思い切って近くにいた兵士に声をかけてみることにした。
「あ、あの…」
「あん?」兵士が睨みつけた。「なんだぁ」
「ここに…」おれは唾を飲み込んだ。「ここに、黒木という男は来ていませんか?」
「ああん?」兵士が訝り、そして怒りだした。「何を言っとるんだッ、きさま! そんやつはここにはおらんぞッ!」
途端、胃に苦いものがこみ上げてきた。
この「ツアー」は、たしかに黒木次郎から紹介されたものだ。ということは、少なくともひとつだけはっきりしたことがある。
おれは親友だと信じていた男に、まんまと罠に嵌められたのだ。あいつは好青年然としながらも、実際は心の底で美沙を奪ったおれを許していなかったに違いない。やつはおれと表面では親しくするふりをしながら、密かに復讐する機会をうかがっていたのだ。結局、おれは黒木のことを何も知らなかったのだ。
突然、道の向こうから「オラオラ!」と怒鳴り声が聞こえた。そこはカーブになっていて視界は林で遮られていた。やがて、怒鳴り声が大きくなり、一団がざくざくと道を踏みしめる音がした。向こうから現れたのは、案の定、昨日農作業をやらされていた別の集団だった。
われわれは、藍色の「自然服」を着た十数人の男たち――もっともわれわれも同じ格好であるが、彼らのほうがみすぼらしくなっている――とすれ違った。
おれは彼らの顔を間近で見て改めてショックを受けた。ハングリーゴーストそのままだった。痩せているだけではなく、なによりその目に生気が感じられなかった。無気力で、無表情。あれが、自分たちのなれの果ての姿かと思うと、「ここから出してくれ」と急に叫びたくなった。
キャンプの一角に広場のような場所があった。
といっても、そこはキャップファイアーや盆踊りをするためのスペースではない。そこでは、例の幽霊のような男のひとりが目隠しをされ、地面に突き立てられた丸太の杭に磔にされていた。
つまり、処刑場である。おれはひどいショックを受けた。
「た、助けてくれ…」男はぞっとするような、しわがれた声を発した。
おれたちは処刑を見学するように命ぜられた。
「こいつは隙を見て脱走しようとしたんだ」サングラスの隊長が叫んだ。その声には、どこか楽しんでいるかのような嗜虐性が含まれていた。「まだそんなことをしでかす気力が残っているとは、恐れ入ったよ。それに免じて、苦しませずに殺してやる」
隊長が自分のホルスターから自動拳銃を引き抜いた。
バン、と破裂音がした瞬間、ちょうど男の心臓の上あたりで血飛沫が噴いた。実にあっけなかった。男の後ろ手の縄がずるずると杭を滑っていき、座り込むような形に落ち着いた。男は二度と動くことはなかった。
「おまえたちもこの男と同じ目にあいたくなかったら、妙な気は起こさないことだ」
おれは一瞬、目眩を催した。本当にこれは現実だろうかと思った。妙なデジャヴを感じたので、必死で頭の引き出しを探ると、以前テレビのドキュメンタリーで見たことのあるポルポトの強制収容所に行き当たった。
兵士のいう「おもしろいショー」を見学させられた後、おれたちはまた小銃で威嚇されながら、移動を命ぜられた。今度の行き先は、集落から百メートルほど離れたところにある道の一角だ。作業は、この間の大雨で崩れたらしいあぜ道の補修だった。ひたすらスコップを使っての土木作業である。
おれは作業しながら、ふとこの道具が武器にならないものかと考えた。振り下ろせばやつらの頭を叩き割れないだろうか。いや、それよりもやつらの首筋めがけて「突く」ほうが効果的かもしれない、などと思った。
だが、見張りどもも心得たもので、こんな時に限っていつもより遠巻きに監視している。
おれはふと隣で作業する大男の様子を見やった。ドンキー大西は、腕力を生かして、おれの倍くらいの仕事量をこなしていた。その目が怒りで燃えているのが印象的だった。
作業は昨日よりは早目に終わった。
われわれはまた移動を命ぜられた。集落とは反対方向だ。山の中腹へと進んでいく。おれはてっきり集団処刑されて埋められるかもしれないと心配したが、杞憂だった。着いた先には小さな滝つぼと小川があった。その泉のところで、水浴びを許可されたのだ。
われわれは囚人服を脱いで泉に浸かった。最初は冷たかったが、すぐに身体が火照り、生き返るようだった。おれは、身体を手の平でごしごしと擦ったり、顔を洗ったりしている間も、素早く兵士たちを盗み見して、脱走のチャンスをうかがった。
しかし、絶妙なフォーメーションに囲われていることに気づき、今は無理だと自分に言い聞かせた。
しばらくして、笛を合図に一斉に泉から上がった。その反射的な行動に誰も違和感すら覚えなくなっている。みんなすっかり囚人だ。
いったい、この連中の正体は何だろうかと、また考えた。
◆
二日目の夜だった。
おれは疲れきっていた。肉体だけではなく、精神も磨耗していた。つい先刻の処刑風景が目に焼きつき、極度のショックと緊張に苛まれていた。ヘタを打つと、おれもこの世から抹殺される…そう想像するだけで、身体が恐怖で震えた。やつら殺人マシンに対して反抗するとか、脱走するなどというのは、論外のように思われた。
兵士が夕食のワゴンを運んできた。あまり食欲はなかったが、スープ皿を残したままにしておくとどんな叱責があるかも分からないし、連帯責任扱いされてみんなに迷惑がかかるかもしれない。そう思うと、無理やりでもスプーンを口に運ばざるをえなかった。
もっとも、玄米の粥を一口食べてみると、急に食欲が沸いてきた。この塩加減がまた絶妙だった。どうやら、おれの疲れた身体はひどく塩味を欲していたらしい。
結局、数分で完食した。もっとゆっくり食べればよかったと少し後悔した。
備え付けのタンクから水を飲んだ。胃腸が満たされるや、先までの悲観的な気分のほとんどが霧散していた。
しばらくして、兵士がワゴンの回収にやって来た。その間、扉の開け閉めをする別の兵士がわれわれに対して目を光らせている。やつらが小屋を後にするのを見届けるなり、おれは床の敷物のうえにゴロリと仰向けになった。
じっと裸電球を見つめた。ここに来てまだ二日目だというのに、もう以前の暮らしが別世界のように感じられた。
おれは甘味に飢えていた。今まで当たり前すぎて気付かなかったが、自動販売機にコインを入れただけで手軽に缶コーヒーや清涼飲料が買えるというのは奇跡に他ならないと思った。おれは舌の上で砂糖の独特の甘さを思い出した。
ボサボサの頭を掻きながら、いつしか様々な文明の恩恵に思いを馳せていた。トップバッターは仕事から帰るなり毎日浴びているシャワーだ。蛇口をひねるだけでふんだんにお湯が出る。香料入りのシャンプーを使えば、頭皮の毛穴まですっきり爽快だ。なんて凄いんだろう。それから、蒸し暑い日中の畑での作業を思い出し、この季節にはエアコンも欠かせないと思った。今日みたいなかんかん照りの日でも、スイッチひとつで秋が訪れる。おれは、あのエアコンの吹きだし口からスーッと降りてくる涼しい空気を思い出し、首筋で感じるようにした。空気が冷えたら、今度はソファでごろ寝しながら、ポテトチップスをかじり、テレビを見るのだ。プロ野球とニュース、そしてドラマ。やがてそれに飽きると、今度はDVDの映画を見る。カウチポテトというのはまったく極楽体験だ。そういえば、最近二ヶ月ほどレンタルビデオ店に行っていなかったけ。まだ見ていないハリウッドの最新作がずいぶんと溜まっている。おれは最新映画の題を次から次へと思い浮かべていった。ふと、トイレに行きたくなった。むろん、快適なウォシュレットだ。今や自宅でも職場でもそれが当たり前である。お湯を噴射する時のモーターの音が今にも聞こえる。さて、小腹が空いた。よし、カップラーメンを取り出す。蓋を開け、電気ポットのお湯を注ぐ。たった三分で出来上がりだ。それからパソコンを立ち上げ、なじみの掲示板にかじりつく。みんなの意見を読んで、自分も書き込む。気に入らない意見に対しては、批判的なことを書く。すると、相手もムキになって反撃してきた。また、言い返す。すると、相手もまた反撃を行う。こんなやり取りもまた楽しい…。
おれの想像の足は、いつしかコンビニに向かっていた。そう、自宅の都内ワンルームマンションの近所にある、仕事帰りに毎日のように寄っている、あの夜中に煌々と光り輝く消費文明の象徴コンビニエンスストアのことだ。
おれはカゴを持ってコンビニの中をぐるぐると徘徊した。入り口をくぐると、まず漫画雑誌をカゴに入れる。それから、棚のひとつひとつをじっくりと見て回る。カッパえびせん、しょう油せんべい、チョコレートなどのお菓子類を次々とカゴに放り込む。次は弁当コーナーだ。三角おにぎりは欠かせない。カツ丼弁当と鮭弁当を手に取る。それから飲料棚に向かった。ビールや清涼飲料をカゴに放り込む。最後にデザート類を目指す。プリンやアイスクリームをたくさん買い込む。カゴはいつしか満杯だ。レジに到着した。ここでまたホット惣菜に目が移る。ええい、ヤキトリと肉まんも買った!
コンビニはまるで竜宮城だった。なぜ今まで気づかなかったんだ? この世のものならぬ極楽は、おれの自宅のすぐ近所にあったじゃないか。
「ずっとここに閉じ込められているのかなあ…」
誰かがぼやく声が耳に入った。
急に裸電球に目の焦点が合わさり、おれは現実へと引き戻された。半身を起こした途端、目に飛び込んできたのは、粗末な家屋の中と囚人服を着た男たちの姿だった。おれは今まで浸っていたコンビニ店内と比較した。ふたつの世界はあまりにも違っていた。ここには文明の光がなかった。何もかもが原始的で、貧弱で、物がなく、洗練されていなかった。
おれはむかついた。人がせっかく妄想の世界に浸っていたのに、それを妨害しやがってと呪った。おれは、失ってみて初めて、文明世界の素晴らしさを悟った。快適で、便利で、物にあふれ、娯楽に満ちた世界…まさに極楽だ。そして、それを実感すればするほど、こんな環境に閉じ込められているのが不当である気がした。腹が立った。こんな仕打ちがあってたまるか、と殺意が沸いてきた。早くやつらをぶっ殺して、娑婆に戻り、コンビニで五千円分くらい思いっきり買い物してやるんだと心に誓った。
まるでおれの胸のうちを代弁するかのように、大男が先のぼやきに反応した。
「脱走するしかないぜ」ドンキー大西が言った。
おれは大西のほうに向き直った。
「どうやってやるんですか?」
何かいい方法があるなら、彼のアイデアとやらを是非とも聞いてみたかった。大西が周囲を警戒するそぶりをした。誰もが今一番、興味のあることであったためか、以心伝心よろしく、みんなが音も立てずに彼の周りに集まってきた。彼を中心に車座ができた。
「盗聴器があるかもしれない…」
聞こえるか聞こえないかくらいの微かな声で、大西がぼそっと漏らした。
昨日は気がつかなかったが、盗聴器らしきものが隠されているかもしれない。すぐに、みんなで手分けして家屋の中を探し回った。床のムシロをめくり、ベッドもひとつひとつ敷布団を引き剥がし、部屋の隅々まで確認する。その結果、どうやら部屋の中には盗聴器はないらしいことが分かった。
ようやく、本題に入ることができる。とりあえず、交代でトイレに行くふりをして、頻繁に外を見回ることにした。兵士が聞き耳を立てていないとも限らないからだ。
天井からぶら下がる裸電球の下で、謀議が始まった。
「誰か銃を扱えるか」
大西が言った。われわれは互いに顔を見合わせた。おれは、この中に自衛隊とか警察の出身者はいないかと期待した。
しかし、三十名くらいの全員が首を振った。
「兵士たちが持っているあの銃が扱えなきゃ、どうにもならない」大西は言った。
「モデルガンの知識ならありますが…」と、四十歳くらいの黒縁メガネの男が恐る恐る挙手した。たしかに、軍事オタクっぽい顔つきに思える。
「教えてくれ」
「こう、こんな風にレバーを引いて、そしてこういう風に安全装置を落とし…」と、空間に架空の小銃を浮かべて、黒縁メガネは説明し始めた。
「なるほど…」大西が満足そうに頷いた。「では、まずおれが門にいる見張りのひとりを倒す。それで銃をひとつ奪う。あんたは、その銃を使って別のひとりを倒してくれ」
責任重大である。黒縁メガネの顔がさっと青ざめた。
「ぼ、僕が、ですか?」途端に腰砕けだ。
「そうやって、ひとりを倒すごとに銃を奪っていけば、段々とこちらの武器も増える。そうすれば、やつらと互角に戦える。これだけの人数が人目もくれず逃亡することは不可能だから、結局、戦うしかないと思うんだ」
ちょっと待てよ、とおれは言いたかった。そんな首尾よくいくものか。計画があまりに大雑把すぎる。みんなも「うーん…」と渋い顔でうなり、首を傾げている。大男の肉体派は、やはり頭も単純なのか。
「どうも実効性が薄いかな…」大西自身が照れ笑いを浮かべた。「何かもっといいアイデアはないかな?」
「見張りをおびき寄せるっていうのは、どうですか?」おれは言った。
「おびき寄せる?」
「たとえば、誰かがここで急病のふりをして、別の誰かが慌てて門番の連中に知らせに行ったら、やつらとしても何事かと様子を見に来ざるをえないしょう?」
「なるほど。入ってきたところを不意打ちか」
「そう、扉の横の壁に誰かがピタリと張り付いていて、背後からいきなりガツンと」
「それなら、やつらが食事を運んできた時でも可能では?」黒縁メガネが言った。
「いや、飯を食った後のほうがいい」別のひとりが言った。「やつらがワゴンを回収に来た時にしよう。空腹じゃ、戦えん」
笑いが起こった。みんなの緊張が少しほぐれた。
やがて、謀議は徐々に熱を帯びた。
そうこうしているうち、車座を右回りするトイレの順番がおれのところに来た。おれは席を立ち、外に出た。緊張しながら、兵士たちの姿を探った。門のところに兵士がふたりいた。幸い、こちらに気づいている様子はなかった。
トイレを済ませて家屋に戻ると、ちょうど結論のところになっていた。
リーダー格の大西がまとめた。
「よし。明日の夜までに各自が脱走の方法を考えること。それをみんなで検討しようじゃないか」
◆
翌朝。目が覚めると、すでに数人が車座になっていた。みな黙ってうつむいている。どうも様子がおかしい。
「どうしたんですか?」おれが尋ねると、ひとりが顔を上げて「大西さんがいないんだ」と言い、またうな垂れた。
おれは「ええっ?」と訊き返すと、小屋の中を見回した。三段ベッドもひとつひとつ確認する。用足しついでに、外に出て併設されているトイレの中も覗いた。
「いませんね…」おれも首をかしげた。「まさかおれたちみんなを置いて、独りで首尾よく脱走しちゃったんですか?」
「僕らも最初はそう疑ったんだが」黒縁メガネの男が言った。「考えみればそんなことをすれば今ごろ大騒ぎになっていてもおかしくはないでしょう」
おれは表の警備の厳重さを思い起こした。家屋は金網で囲まれ、二四時間、兵士が交代で立哨している。脱走しようと思えば、少なくとも見張りのひとりやふたりを始末しなければならない。そしてそんな事態が起これば、朝がこれほど静かであるはずがない。蜂の巣を突付いたような騒ぎになり、とっくの昔に全員が点呼されているだろう。
「たしかに」おれは言った。「でも、だとしたら、どうやって姿を消したんですか?」
「うーん」とその場にいた誰もがうなった。
そうこうしているうちに、みんなが次々と起床し始めた。われわれは互いに「大西さんを見なかったか?」と尋ねあった。あいにく誰も彼の消息を知らなかった。
「ひとつの可能性としては、僕たちが寝ている間に連れて行かれたというものでしょう」
「誰にも気付かれずにですか?」
おれは黒縁メガネに訊いた。
みんなの意見が飛び交った。深夜に兵士たちがこの家屋に入ってくる場面を見たと言う者はいなかった。もっとも、仮に黒縁メガネの言うとおりだとして、誰も気付かなかったのは不思議ではないという意見が相次いだ。
なにしろ、誰もがヘトヘトに疲れきって熟睡していたのだ。
おれも「そうかもしれない」と言った。
ひとりが「トイレに立った時にタイミングよく連行された可能性もある」と言い、別のひとりは「やはり独りで脱走しようとして失敗したのでは?」と言った。ある者は、「自分独りだけ助かりたいがために敵と取引したという可能性も捨てきれない」と言い、大西を信頼する幾人かからたしなめられた。
黒縁メガネが、「やはり真夜中に突然、銃を突きつけられて叩き起こされ、『黙ってついて来い』とすごまれれば、抵抗できるはずもない」と先の意見を補完した。「なるほど」と誰かが頷いた。その可能性が高いと見なす空気がその場に広まった。
実際、そうとでも仮定しなければ今の状況を説明できなかった。おれも、たしかに銃で脅された状態ならば叫んだり暴れたりできないのも無理はない、と納得した。
「しかし、どうして彼だけ連れて行かれたんですかね?」
おれはまた頭に浮かんだ疑問を黒縁メガネにぶつけた。彼もお手上げという風に無言で首を振った。ひとりが「あっ」と叫んで、みるみる青ざめた。隣の者が「どうした?」と訊くが、その男は「な、なんでもない」と引きつった様子で答え、黙り込んでしまった。おれは、そいつを、人騒がせなやつだと思った。
結局のところ、すべては憶測でしかなかった。なぜドンキー大西だけがこの場から忽然と姿を消したのか、本当の理由は依然として謎のままだった。これ以上、議論しても無駄だった。われわれは訝りながらも、朝食を待った。すでに腹のベルが鳴り響いていた。
その時だった。突然、蹴破るようにして、扉が乱暴に開けられた。おれはびっくりして思わず飛び上がった。小銃を構えた数人の兵士たちがドカドカと乱入してきた。
「おい、きさまたち!」兵士の目がつり上がっていた。「今日は朝飯抜きだ! 今すぐこっちへついて来い!」
われわれは「オラオラ、真っ直ぐ歩け!」などと数人の兵士どもに小銃で突付かれながら、有無を言わさずキャンプ内の広場へと連行された。
そこでの光景を目の当たりにした瞬間、おれは絶句した。例の処刑場で杭に括りつけられていたのは、ドンキー大西だった。顔にひどく殴られたような真っ青な痣をつくっている。われわれの姿を目に留めると、彼は悲憤をあらわにした。
「チクショーッ! いったいどいつだ、密告しやがったのは?」
おれは「密告」という言葉に頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。思わず互いの顔を見合わせた。このメンバーの中にスパイがいるのかと思うと、ぞっとした。
大西は卑劣な密告者とこの場の専制者に対する呪いの言葉を吐きつづけた。
すでに数人の兵士たちが大西の巨体に向けて小銃を狙い定めていた。サングラスの隊長が例によってサディスティックな笑みを唇の端に浮かべていた。
「脱走を扇動した罪で、今からこの男を処刑する!」
隊長がそう叫んで片手を挙げ、それを振り下ろすと、お馴染みの光景が目に飛び込んできた。ドンキー大西の胸の辺りで血飛沫が舞った。悲鳴を上げた巨体は一瞬、えびぞりになると、次の瞬間には重力に従った。
「脱走しようなんて考えるやつは、こうだぞ」
隊長が、ただの物質と化した巨体を見据えて言った。どうやら、この男は処刑マニアか何からしい。
ドンキー大西の処刑が終わると、われわれはまた「オラオラ!」と家畜のように追い立てられ、そのまま農作業へと駆り出された。
結局、朝飯抜きである。作業中の空腹は耐えがたいほどだった。何も考えることなどできなかった。無心で作業すること数時間、ようやく昼食として玄米の粥が支給された。おれには、それがまるでご馳走か何かであるように思えた。塩味の粥は、疲れた身体にエネルギーを充填するように腹に染み渡った。こんなうまいものがこの世にあるのかと思った。
そして同時に、大西の死に直面したばかりであるにもかかわらずこうして食べ物を味わっていることに、ひどい罪悪感を覚えた。
それから、ようやく考えごとができるようになった。
ドンキー大西が脱走計画を密かに打ち明けたのは昨日の夜だった。そして、彼はおそらく朝方のうちに密かに連行され、今朝にはもう処刑された。
大西は死の間際に叫んでいた。密告者のことを。われわれの中に仲間を売ったやつがいるのだろうか。そんな馬鹿なことがと信じたいが、でもたしかに盗聴器は無かったのに、敵はわれわれの脱走計画のことをちゃんと知っていた。だから、首謀者の大西が処刑されたのだ。ということは、本当にスパイがいるとしか考えられないではないか。
今にして思えばうかつだったかもしれない。おれたちが脱走の計画を練ることくらい、連中にしてみれば分かりきったことである。当然、対策は考えているだろう。連中が今と同じことを過去にも繰り返してきたとしたら、経験上も予想していたはずだ。
もっとも、おれたちは貴重な労働力であり、家畜であるらしいから、全員を殺すわけにはいかない。反抗の意志をくじくだけなら、誰かひとりを見せしめに殺せばいい。生贄にふさわしいのは、当然、リーダー格の男だろう。
結局、やつらは何もかもお見通しというわけだ。おれは己の甘さを思い知った。
午後の作業中、大西の断末魔の声が脳裏から離れなかった。
◆
その夜。誰も口をきかなかった。全員が疑心暗鬼に囚われていた。
やることといえば、互いにじろじろと見て、探りを入れるだけ。実際、この中の誰かが敵と通じているのかと思うと、脱走計画どころか、反抗的な言葉を口にすることすらためらわれた。実に嫌な雰囲気だった。誰も彼もが部屋の端にじっと身を寄せ、目だけを左右に動かしている。
当分、誰も信じることはできなさそうだと、おれはため息をついた。
ドンキー大西の損失は実に大きかった。みんなの先頭に立ってくれる人物がいなくなったのだ。彼は単に腕力のある大男というだけではなく、みんなをまとめ上げるリーダーシップもあった。
どう考えても、大西に代わる人材はいない。
おれも、とてもではないが、リーダーなんかできない。だいたい、もし先頭に立って「脱走しよう」などと口にすれば、大西の二の舞になるのは火を見るより明らかだ。処刑されるなんて、真っ平ごめんだ。
おれは部屋の隅っこに座り、姿なき密告者を呪った。気づかれないように、みんなの顔を順番に盗み見た。この中の誰かが囚人に偽装したスパイなのだ…そう思うと、段々、誰も彼もが疑わしく思えてきた。あいつは首を傾けてばかりいるからどうも様子がおかしい、あいつは顔の黒子が大きいから変だ、あいつはなぜか思い出し笑いをするので怪しいと、そんな考えばかりが脳裏に浮かぶようになり、収拾がつかなくなった。
結局、その夜は誰も発言しなかった。
◆
以来、おれは誰も信用できなくなっていた。それはみんなも同じだろう。われわれは互いに口をつぐんでいた。それが現時点で自分の身を守る唯一の方法なのだ。
密告者が誰かはっきりしない以上、不満をもらすことはもとより、言葉を交わすことすら危ないかもしれない。もしかして、そいつは悪知恵の働くやつで、密かに「脱走しよう」などと耳打ちして近寄り、反抗の言質をとろうとするかもしれない。もし賛同すれば、翌日には処刑が待っているというわけだ。
あるいは人前でとくとくと不平をぶちまけ、同調を求めてくるかもしれない。もし同調すれば、反乱分子としてマークされるという寸法だ。だから、親しそうに近寄ってくる者には警戒しなければならない。
つまり、もはや誰も信用してはならないとうことだ。悲しいかな、全員が同じ境遇にいる被害者であるにもかかわらず、互いに信頼し協力し合えないのだ。
とりあえず「集団脱走」などというのは、よもや妄想の類いでしかなかった。そういえば昔、スティーヴ・マックィーン主演の『大脱走』という映画があった。連合軍捕虜たちが互い協力してナチの収容所から脱獄するというストーリーだが、今のおれにとってはナンセンスの極みでしかなかった。
仮にやるとしたら、自分ひとりで脱走するしかない。パートナーを作ることも困難だし、危険だ。あずかり知らぬところで蜘蛛の巣のように張り巡らされているらしい密告制度の下では、内通者の目をかいくぐることは不可能だ。また、銃で武装した屈強な見張りの兵士を空手で倒すなどという考えも、夢物語でしかない。
だから、今はじっと雌伏するしかない。表向きは従順に振舞うのだ。そして、ひたすらチャンスを待つ。それがいつ、いかなる瞬間に訪れるのか分からないが、じっと待ちつづける。そして、いざチャンスが到来したら、それを決して逃さないことだ。
大西の処刑のあとも、たびたび処刑があった。その後の数日の間に、幽霊囚人たち二名が処刑された。
まったく、ぞっとする光景だった。何に一番怖気がしたかというと、処刑の残酷さ以上に彼らがなすがままにされていることだった。反抗する気力というものが片鱗さえうかがえない。長年の収容所暮らしで、精根尽き果ててしまったのだろうか。
あるいは、これが、誘拐犯によって強い恐怖を与えられた被害者は足がすくんでしまって動けなくなるという、例の症状なのか。彼らはすでに恐怖で身が縮み上がってしまって、逃げる気力を失ってしまったのか。あれがおれの末路なのかと思うと、絶望しかなかった。
おれはふと、これには粗末な食事も影響しているのかもしれないと気づいた。
ひもじさは人間の思考力を減退させ、気力を萎えさせる。「反抗する」という意志と行動には、思いのほか精神的なパワーを必要とする。今の食事が続くようだと、とてもではないが精神的にも肉体的にも衰えていく。
どうやら、肉と砂糖を完全に断たれ、植物性の食べ物ばかり食べさせられていると、人間は徐々に草食動物化するらしい。つまり、環境に対して受動的になり、運命的になる。羊のように、だ。
もしかして、粗末な食事には、経費削減以上に、囚人たちを従順に改造するそんな意図があるのかもしれない。
そう考えると、おれはますます肉と砂糖を渇望せざるをえなかった。それらを口に入れることで、やつらへの反抗の意志を持続させたかった。心の炎を絶やしたくなかった。
おれは頻繁に普段の生活を思い出すようになった。
その日一日の労働が終わり、疲れきってベッドに寝転びながら裸電球をじっと見つめていると、「娑婆」に居た頃の生活がまるで夢のようだった。自分でも驚くほど遠い世界のことのように感じられた。おれはほんの数日前までいた文明生活を思い起こした。
エアコンの効いた清潔そのもののオフィスや、ちょっと狭いが快適な自宅マンション。ランチタイムに楽しみにしている定食屋の日替わりメニューや、スーパーマーケットで買う唐揚げやコロッケなどの惣菜。ふわふわの布団。お湯がふんだんに出るシャワー…。
おれは、そういった豊かな物質生活のありがたみを、失ってみて初めて理解した。今まで当たり前だと思ってきた日常生活の素晴らしさが身に沁みて分かった。
それと同時に、後悔と自責の念が沸き起こってきた。
おれは今まで、いったい何に不平不満ばかり言っていたのだろうか? 毎日、天国のような暮らしをしていたじゃないか。何もかもがあんなに恵まれていたじゃないか。
もしかして、満ち足りた日常に何一つ感謝することがなかったから、神様がおれに罰を下したのだろうか。だから、おれはこんな運命へと追いやられたのだろうか。今この瞬間にも都会で幸せに暮らしている友人知人たちを尻目に、自分だけが収容所で奴隷として野垂れ死ぬかもしれない運命に。
もう二度と不平は言わない。だから神様、お願いだ。この悪夢を終わらせてくれ。おれを元の暮らしに戻してくれ。贅沢は言わない。元通りでいい。それで十分だ。それ以上は望まない。だから神様、おれを助けてくれ。
◆
神への必死の祈りもむなしく、とうとう一週間が過ぎた。
反抗の意志は徐々に萎え始めていた。玄米の粥ばかり食べているせいで、おれは羊のような草食動物になっていた。
おれは、ある恐ろしい可能性について考え始めた。ここの連中にとって、この強制収容所の存在が世間にばれることが一番恐ろしいはずだ。ということは、散々こき使われた末に、最終的におれたちは処分される運命にあるのではないか?
いずれ処刑されるなら、一かバチか、脱走を企てるよりほかにない。しかし、どうやったらそれができるのか、未だに見当もつかない。ドンキー大西のように処刑されるのは絶対に嫌だ。でも、脱走しなければ、いずれは殺される。いったい、どうすればいいのか。
七日目の夜、おれはベッドから天井を見上げながら、虫の声に耳を澄ました。
連休も終わりに近づいている。ふと、おれが連休明けになっても帰宅しなければ、どんな騒ぎになるだろうかと考えた。麗子はどう思うだろう? 会社と同僚たちはどう思うだろう? きっと大騒ぎになるに違いない…。
いや、案外、冷たいかもしれない。ヨーロッパ旅行の興奮も冷めやらない麗子は、すねたおれが居留守を使っているのだろうと邪推するに違いない。
会社の同僚なんか、「あいつ、来ねえの」で終わりかもしれない。そして、それっきり忘れ去られてしまうか、欠勤を理由にした解雇通知を一枚よこして終わりかもしれない。
おそらく、おれのことを本当に心配し、必死で探してくれるのは郷里の両親だけだろう。急に涙が浮かんできた。もっと親孝行しておくんだったと後悔した。親父、お袋、ごめん、おれは親友と信じていた男に騙されたんだ、もう会えそうにない。
まるで走馬灯のように子供時代の幸せだった日々が思い浮かんだ。そして、両親からの恩を何一つ返さなかった自分を恥じ、懺悔した。おれは泣いた。
結局、おれは、自分で想像していたような勇者でも何でもなかった。夜中にめそめそと泣きじゃくるだけの、ただの弱虫にすぎなかった。
八日目の朝が訪れた。
本来ならツアーも今日の午前中で終わりのはずだった。しかし、朝方、いつもと同じようにたたき起こされ、いつもと同じような朝食が始まり、そして、いつもの農作業へと駆りだされた。結局、いつもと同じだった。
やはり奇跡は起きなかった。
「ようし、作業やめい!」兵士がふいに怒鳴った。
まだ昼食時間には早かった。どういうわけか、午前の仕事を早目に切り上げ、移動を命ぜられた。われわれは兵士たちに囲まれ、小銃で突付かれながら、キャンプのほうへと向かった。「また処刑ショーを見学させられるのか?」と、おれはうんざりした。
広場の入り口のところにサングラスの隊長が立っていた。全員に緊張が走った。鬼教官は奥を指して、「みんなそのまま真っ直ぐ進め」と怒鳴った。
◆
大きな拍手が鳴り響いていた。
われわれをワッと取り囲んだ人々はいずれも満面の笑顔を浮かべ、中にはうっすらと涙を滲ませている人もいる。一瞬、われわれは面くらい、反応に戸惑った。おれも訳が分からず、唖然としてその居並ぶ顔を見回した。
おれは思わず「あっ!」と叫んでしまった。
そこに臼井美沙と黒木次郎の顔を発見したからだ。やがて、われわれの中から身内を発見して驚く声と、先方に向かってその名前を呼ぶ声が上がり始めた。
「皆さん、無事卒業おめでとう」
ふいに聞き覚えのある野太い声が響いた。人々の輪がさっと開き、その背後から大男が歩み寄ってきた。その顔を見て、おれはぎょっとした。観客たちの拍手が止んだ。
「どうでしたかな、この度のツアーは?」相好を崩したドンキー大西がよく通る声で言った。「そうそう、皆さんの中には私が殺されたはずではと疑問に思ってらっしゃる方もいるでしょうが、ご安心ください。毎回、私か、私のプロレス時代の弟子がこのツアーに参加して、反抗の挙句、殺される手はずになっております」
すっかり読めた。やはりペテンに引っかけられていたのだ。それも大掛かりな。
「助かった」と思うと同時に、どっと安堵感が襲い、全身が弛緩した。
「皆さんは七日もの間、粗食と重労働によく耐えてこられた。そんな苛酷なツアーを無事に乗り越えられた皆さんに、改めて敬意を表したいと思います」
ドンキー大西がそう叫ぶなり、観客たちが歓声を上げ、盛大な拍手をした。
「さて、皆さん。今回、このようなペテンに嵌められたことはさぞかし不本意であったに違いありません。『私はこんな内容のツアーに応募した覚えはないぞ』と憤っておられる方がほとんどでしょう。お気持ちはよく分かります。まったく、そのとおりです。実は、今回このツアーに皆さんの参加を希望され、了承されたのは、こちらにいらっしゃる方々のほうなのです」
大西が片手を挙げて紹介したのは観客集団のほうだった。
おれは思わずあちら側にいる美沙の顔を見た。彼女が悪戯っぽく舌を出し、ちょっと申し訳なさそうに頷いた。どうやら、おれは彼女に嵌められていたらしい。
「つまり、私どもは、こちらのご家族ご友人の皆さんとの契約に基づいて、このツアーを敢行させていただいているのです」ここで大西が咳払いをした。「それでは、皆さんにこんな山奥まで遠路はるばる足を運んでいただいたことですから、ここでちょっとしたショーをご覧に入れましょう」
おおっ、と期待に満ちた感嘆の唱和。すぐにスタッフたちが現れ、ドンキー大西にさっと小銃を手渡した。「スタッフ」というのは例の頬のこけた、幽霊みたいな作業員たちと、それを監視する役を演じていた迷彩服たちのことだ。今はいかにもショーマンらしい明るい笑みを浮かべている。
例の「隊長」もいた。ただしサングラスを外している。その温和な目つきを見て、なるほど、目元を隠さなければならない訳だと納得した。
ドンキー大西の向かいに、見知った顔の男が立った。「射殺」された「銀行員」こと「益田氏」である。どうやら、行きのバスの中でスタッフである彼があえて銀行マンのふりをしてみんなに挨拶して回ったのは、少しでも自分を印象付けるためだったようだ。
なるほど、と思った。まったくの見ず知らずの人間よりも、少しでも見知った人間が殺されたほうが、誰しもショックが大きいものである。
大西が彼に向かって小銃を水平に構えた。
「このモデルガンの引き金を引くと、空砲と同時にリモコンの電波が発信され…」発射音が響き渡り、“益田氏”の胸の辺りで血糊が飛び散った。
芝居がかった様子で彼がうめき声を発し、地面に崩れた。
「仕込んだ火薬が血袋を破裂させるという仕組みになっています」
その様子を間近で見た観客たちは、またしても「おおっ」と驚きの声を挙げた。
益田氏――本名はともかく――が再び起き上がった。そして、片手を挙げて余裕の表情を見せた。彼に惜しみない拍手が浴びせられた。すでに何度も演じられたショーなのだろう。実に手馴れた様子だった。
それにしても、よく出来た演出だった。銃という殺人兵器と、射殺されることに対する強い恐怖心が、これほどのものだとは想像しなかった。
“処刑”は、反抗の意志をくじけさせるための、うまい演出だったと言えよう。
寸劇が終わり、再び大西がわれわれに向き直った。彼がやや真顔になった。その引き締まった表情を見て、おれは少し緊張した。
「さて、卒業生の皆さん。思い当たるフシもあろうかと思いますが、今回ここにお集まりいただいた皆さんは多分に浪費癖があって、普段から食べ物や持ち物を粗末に扱ったり、無駄にしたりする傾向があったのではないかと思います。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私はプロレスラーを引退した後、全国の不良少年たちを矯正するための学校を作りました。しかし、私は少年たちを矯正するうちに、これは大人から直していかなければならないと次第に思うようになったのです」
ここで大西はぐっとわれわれの顔を見据えた。
「実は、そのために作り、企画したのが、このキャンプであり、ツアーだったのです。私は人を変えることができるのは、教科書ではなく体験であると思っております。昔の日本人が持っていた美徳である『もったいない』の精神を失い、浪費に慣れきった人々を鍛えなおすには、いわばショック療法しかありません。そうしてはじめて、社会や他の人々が日々与えてくれる恩恵に対して感謝する心を呼び覚ますことができるのです。無事にこのツアーを卒業なさった皆さんは、身をもってそのことを学ばれたはずです。ここでの体験を貴重な教訓とすることによって、皆さんはこれからも日々感謝し、満足して生きるということができるでしょう」
ドンキー大西が背後の観客陣を振り返った。
「それでは卒業生の皆さんの健闘を称え、再び盛大な拍手をお願いし、もって当ツアーの終了とさせていただきます。皆さん、この度は私どものツアーにご参加いただき、まことにありがとうございました」
一斉に拍手が起こった。気がつけば、おれも、周りのみんなも、彼に向かって拍手をしていた。まんまとしてやられた気分だが、彼に対して少しも悪い気はしなかった。
ドンキー大西の独壇場が終わると、観客たちがそれぞれの身内のところへ一斉に歩み寄った。美沙が涙を浮かべながらおれに抱きついてきた。
「ごめんなさいね、全部あなたのためを思って…」
「まったく、死ぬかと思ったよ」おれは彼女を抱きしめた。
しばらくふたりで抱き合った。やがて、美沙が顔を上げた。
「黒木君にあなたこと相談したの」
「そうだったのか…」
おれは隣にいる黒木の顔を見た。黒木が申し訳なさそうな、それでいてどこか「してやったり」と舌を出しているような、そんな複雑な表情を浮かべた。
「くそっ、まんまと嵌めやがったな、この野郎」
「ははは、すまん、すまん」と黒木は笑いながら頭をかいた。
「あたし、このままだと賢治が駄目な人間になってしまうと思って、心配で心配で…。かわいそうで、放っておけなかったの」
「あはは…」おれは苦笑いするしかなかった。
◆
帰る前に風呂に入れるという。主催者の案内で丘を下ると、突然、近代的な建物が現れた。おれは呆気にとられた。キャンプのこんな近くに、こんな建物が隠れていたとは。中は、今まで属してきた世界とはあまりに違っていた。そこは、ちょっとした温泉旅館だった。
ひとりずつ洗面用具を渡された。ちゃんと髭剃りセットも入っている。おれたちは楽しそうにお喋りしながら、大理石の床をした大きな風呂場で、ゆっくりとそれまでの垢を落とした。
誰かが兵士の口調を真似て、「よく身体を洗え。洗わないやつは処刑だ」と言うと、その場で一斉に爆笑が起こった。まったく、生き返るような気分だった。
風呂を出ると、洗濯済みの元の私服が網かごに収められていた。
いよいよ帰路につく際、一枚の書類に署名だけ求められた。要約すればツアーの内容について「口外しない」という誓約だった。おれは喜んで署名した。
帰りのバスに乗った。今度は身内の分を含めて三台だ。
さすがに「生還」した気分は最高だった。おれは美沙と黒木にツアーで体験したことを語って聞かせた。ふたりとも目を輝かせて聞き入った。ちなみに、黒木がこのツアーのことを知っていた訳は、下の弟が会社の同僚から嵌められたクチだからだという。
車内でちょっと豪華目の幕の内弁当が配られた。久しぶりにまともな飯にありついた参加者たちは、誰もが「うまい!」と感嘆の声を上げていた。おれも普通の食事がこんなにも美味しいものかと驚いた。今回のような体験をした者でなければ、とてもではないがこのことは理解できないだろう。バスにはこの他にも酒類や肴がたんまり用意されていた。まさに極楽としか言いようがなかった。
「さあさあ、皆さま」案内人の背広男が数個のビニール製ハンマーを配った。「思う存分、気晴らしをしていただいても結構ですよ」
「この野郎、騙しやがって!」
おれたちは背広男の頭をピコピコとハンマーで叩いた。男はその度におどけたり、反省したりするフリをして見せ、皆の笑いを誘った。参加者のひとりが男の頭からビールをかけた。それをきっかけにして、みんなでよってたかって男に冷えたビールを浴びせた。
車内はどんちゃん騒ぎと化した。
帰り際の山道で、一台の同じバスとすれ違った。今から騙されに向かうやつらだ。そう思うと、無性におかしかった。
◆
不思議なもので、自分がまんまと嵌められた罠を誰かにも試したくなる心理というものが、人間にはあるらしい。
なるほど、この商売がうまく成り立つわけだ。友人をペテンにかけるという行為には、何にも代えがたい快感がある。
しばらく経って、おれは高校時代の同級生のひとりに電話した。
「よう、田村、久しぶりだな」と返事したその友人は、大学卒業後にいったん就職したものの、半年も経たずに辞め、以来ずっとぶらぶらしている男だ。最近では自堕落にも拍車がかかり、パチンコ三昧の毎日を送っていると聞いている。おれは開口一番、言った。
「おまえ最近、評判よくねえよ」
「余計なお世話だ」
「どうだ、そんなに暇なら、来月辺り、おれと一緒にキャンプに行かねえか」
「キャンプ? お断りだ、そんなもの」
「まあ、話を聞けよ。なあに、ちょっとした林間学校みたいなもんよ。女の子もたくさん来ることだし…」
「なに!」声色が変わった。「いっぱい来るのか?」
「おう、なんでも選り取りみどりらしいぜ」
「どこだよ、そこは? 教えろよ」
「ちょっと待て。今、電話番号を言うから…」
おれは例のツアーパンフレットを取り出した。
(了)
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