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得意は自信につながらない

何かが得意なことは自信にはつながらない。

私は学生時代から勉強とスポーツが得意だった。
手取り足取り教えられるまでもなく、苦労せずにある程度のレベルに達することができた。

しかし、私はこの二つについて自信はなく、むしろコンプレックスにまみれていた。

なぜなら、上には上がいるから。
上には上がいて、そのまた上にも上がいて、世界の頂点に立ったとしても没落する不安に付きまとわれる。

何かが「得意」であることで自信を得ようとする試みが成功することはない。

得意を磨いて心を満たそうとする人間は悲惨だ。

私自身がそうだった。
朝から晩まで練習とコンディショニングの繰り返しで、その顔には空虚感と焦燥が張り付いている。

難関大学を目指す受験生も大抵同じだ。
朝から晩まで机にかじりついて、友達と遊んだり、ゲームをしたり、自分の好きなことをやる時間を犠牲にして、大して好きでもない、興味もない単語や数式を頭に叩き込み、青春を犠牲にする。

このような試みは、たとえ当時の目標が達成されたとしても、心が満たされることはない。より得意になるという試練には終わりがないからだ。

この試みは、結果を追い求める態度とも言い換えられる。
結果を追い求める態度では、たとえ目標を達成したとしても心が満たされない。

心を満たして大きな目標を達成するには、過程を愛する必要がある。
東大に受かりたければ勉強そのものを愛していなければならない。
スポーツで成功したければトレーニングを、食事を、睡眠を愛さなければならない。

自分が得意だと思っていることは、案外大した才能でもなく、大して好きでもないという事はよくあることだ。

何年何十年もやらないうちの差というのは才能と呼べるほど大した差ではないし、何より好きである以上の才能はない。

自分が嫌いだ、苦手だと思っていたものに向き合ってみると意外と楽しかったり、好きになれたりすることがある。

私は芸術が学生の頃は嫌いで苦手で敬遠していたが、今では欠かせないものになっている。
自分がスポーツで花開くことはもはやないと思うが、創作や芸術の世界で一旗揚げることはできるかもしれないと思っている。

スポーツと違うのは、たとえ世間に認められないとしても一生続けて、満足できるだろうという感覚があることだ。

そのような心意気で物事に当たらない限り、すべての試みは本人にとって無意味か、有害なものになってしまうだろう。

ノイローゼになってまで打ち込む受験生やアスリートや芸術家は非常に多いが、一度自分がその試みの過程そのものを愛しているか確かめた方がいい。

どれだけの名声を集めて、どれだけの金銭を受け取ったとしても、あなた自身の心を満たせないのであれば、すべての努力は無意味だから。

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