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健全な精神とは

「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という言葉をどこかで聞いたことがあるだろうか。
確かにこの格言には一理あるかもしれない。
しかし、もともとは「健全な精神は、健全な肉体にやどれ"かし"」という形で、「かし」というのは願望の助動詞であるため「健全な精神は、健全な肉体に"宿ったらいいのにね"」という意味だったそうだ。
その時代のことはわからないが、お金を持っていて肉体は健全に肥えているのに性格の悪い貴族などに対して抱いた言葉だったのだろうか。

精神とは

そんな話は置いといて、先ずは「精神」というものについて考えてみたい。
私は昔から「精神」というものを絶えず疑問視してきた。
それは、目に見えず感覚できるものでもないのに、誰もが存在を疑わない不思議な概念だからだ。
精神をGoogleで調べると「人間の心。非物質的・知的な働きをすると見た場合の心」とある。
精神とは心のことらしい。では、心とは何だろう。
同じようにGoogleで調べると、心とは、「体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。」とある。
何やら書いてあるが、心とは精神的な働きのことらしい。
精神が心で、心が精神。循環している。
小学生の時に辞書で調べた時もこんな感じだった気がする。

しかし近年以降はこのような、あまりにも抽象的で、循環や矛盾を含んだ解釈ではなく、精神・心は脳の働きであるという捉え方が一般的※になっている。(※一般的というほど一般には広まっていないかもしれない)

それはどういうことかというと、脳の中の電気信号のオンオフが記憶であり感情であり、意志であるという事だ。
詳しい説明は省略するが、この考えは養老孟司先生の『唯脳論』などの本を読んでいただければより詳しくわかると思う。

精神病と自由意志の問題

私が小学生のころは、まだうつ病などの精神的な病気が心の弱い人間がかかるもの、自己責任のものだという認識が蔓延していた時代だったと思う。(残念ながら今がそうではないとは全く言えないけれど)
子供心に、精神が弱いのは恥ずべき事なのだと思っていた記憶がある。
精神が弱いのを恥ずべきという認識は、実は自分に自由意志があるという前提に基づいているのだとある時気付いた。
どういうことか。
精神病が自己責任でないと認めてしまうのは、自分の自由意志を否定することと同義なのだ。
人間は、生まれた時には誰もが自分の自由意志を信じているものだと思う。
何もかも自分の思い通りにいく、とは言わぬまでも、ある程度は自分の意志によって世界を切り開いていけるのだという驕りが誰にでもあると思う。
年を取るにつれて、何事もままならないと悟り、この自由意志への信仰は多少は弱まるだろう。
しかし、ほとんどの人間は死ぬまである程度は自由意志を信じていると思う。個人の考えに限らず、例えば日本の法律は国民に自由意志があることを前提に作られている。心神喪失の人間に罰が下らないのは、そうでない人間には自由意志があるという前提があるからだ。

そうであるとしたら、精神病が、ある日突然降りかかってくるようなどうしようもないものであってはならないのだ。
自分の意志とは関係なく、ある日自由意志を失うような可能性があるなら、自由意志は存在しないことになるからだ。
答えを言ってしまったが、少なくとも私の考えにおいて、自由意志は存在しない。自由意志が存在しない以上、精神や心なんてものも存在しないのである。
ここまでは、精神病を元にして自由意志の否定をしてみたが、実際はもっと簡単に述べることもできる。

人間の欲求を考えてみればわかりやすい。
人間だれしも健康で、金銭的に不自由なく、友達などと仲良くして過ごすのが理想のはずだ。
それなのに、タバコやアルコールをやめられず健康を失い、お金が欲しいのに勉強せずゲームばかりして、友達が欲しいのに怖くて声がかけられないのはなぜか。
自由意志なんか存在せず、自分が感情や意思と思っているものはホルモンとホルモンの受容体、それと脳の状態による結果でしかないからだ。
タバコやアルコールがやめられないのは、ドーパミンという興味や関心をつかさどるホルモンが大量に放出されるからだし、勉強せずゲームばかりするのもゲームのほうがより効果的にドーパミンが放出されるからだ。
見知らぬ人に声をかけるとき緊張するのは、コルチゾールなどのストレスホルモンが分泌されることで、脳も体も緊張状態に入るためだ。
習慣に限らず、喜怒哀楽もホルモンに支配されている。
恋愛の欲求も相手の顔やにおいやフェロモンなどに反応して特定のホルモンが分泌された結果に過ぎない。
ここまで聞いても自由意志を信じられる人間というのは、幸せな人間だと思う。

負け犬の発想


なぜかというと、こんな考えは正誤に限らず負け犬の発想だからだ。
人生でよほどどうしようもない苦痛に悩まされてこなければ、こんな考えにたどり着いたり、こんな考えを受け入れたりはしないと思う。
神経症の人間の発想なのだ。
神経症だからこんな発想をするのか、こんな考えにたどり着いたから神経症なのかはわからない。
社会全体がこのような考えに寄ってしまっては破綻すると思う。
自分の生活に自分の意志が一切ないと認識して正気を保てる人間はいないだろう。ニーチェもこのような結論に達してツァラトゥストラだのを書いたようだが、自殺で人生に幕を下ろした。

自由意志がない世界で

自由意志がない世界で生きる我々の選択や意思(のように思えるもの)にはどういう意味があるのだろうか。
自由意志がないと知った人間はニヒリズムに陥る。
ニヒリズムは日本語で虚無主義といい、人間の存在には意義も目的も真理も価値もないとする立場のことである。
自由意志を否定する立場は決定論を支持する立場でもある。
決定論というのは生まれた瞬間から、もっと言えば宇宙が生まれた瞬間からすべての出来事は決定されているという考え方だ。
どんな選択も意思も結果も自由意志の入る余地はなく、決まりきったものだとしたら、人間の生きる意味とは何だろうか。

人間の生きる意味

ニヒリズムに押しつぶされないために重要なのは、人間に自由意志がなくて未来が決まったものだとしても、あなた自身の生活には何の関係もないという事を自覚することだ。
人間に自由意志がないことも、未来が決まっていることも、論理的に否定しようのない事実である。
だからこそ、頭でっかちな人間はニヒリズムから抜け出せなくなる。
未来が決まっていても、自分の精神や心が本質的には電気信号のオンオフでしかないとしても、それが生きる意味がないことにはならない

未来が決まっていたとしてもそれがどうなっているかはわからない以上、最大限よくなるように頑張るのが人の生き方だろう。
精神が電気信号のオンオフでしかないと認識してしまったのなら、そのオンオフを最適化してやるのだ、というところまで割り切ってしまえばいいのだ。
脳の電気信号のオンオフを最適化するという事は、生活の最適化をすることにつながる。
うつ病の治療で考えてみよう。うつ病というのは言うまでもなく、脳のオンオフが悪い状態だ。うつ病の治療法は大きく二つ、薬物による治療と生活習慣を整える治療がある。薬物は脳に直接作用して、不安を感じるようなホルモンを減らしたり、精神が安定するようなホルモンを強制的に出させたりする。生活習慣を整えるというのは、例えば私がこの前に出した記事のように食事を最適化することであったり、朝は早く起きて日光を浴びることであったり、散歩をすることであったりだ。
重要なのは、すべての行動は脳のオンオフに作用するという事だ。
日光を浴びると幸せホルモンといわれるセロトニンが出るし、夜遅くまで起きたり、SNSをやっているとドーパミンの分泌に異常がでるため不安が湧き出たり意欲がなくなったりする。
もっと言えば、私がこの記事を書いていることもそうだし、呼吸も歩き方も会話も、そのすべてが脳に影響を与える。
そのパターンをある程度把握して脳のオンオフをできるだけ良い状態に持っていくのが、ニヒリズムに陥った人間のマシな生き方だろう。

以前の私は自分の意欲や感情が電気信号の結果でしかないのなら、すべてが嘘でしかないと思っていた。
しかし、今は違う。今は違うと言えるのも電気信号の状態が変わっただけに過ぎないのだろうが、
感情や意欲が電気信号でしかないとしても、それはそれで本当なのだ。
自分の怒りも、悲しみも、喜びも、関心も、すべて本当だ。
感情がプログラムの結果だとしても、それはそれで本当なのだ。

というより、本当も嘘もないというのが正しい。
だから、自分の好きなように突き進めばいいんだと思う。

自分の好きなものも分からないほどに脳の状態が悪い場合は、薬に頼ってもいい。ドーパミンの分泌に異常を来すうつ病などの病気にかかった人間は、自分の好きなことがわからなくなる。何かを好きなことがあり得ない状態といってもいい。これは私が最初に書いた記事の内容になるが、私はニコチン≒タバコの作用によってそれが改善できた。
ニコチンの作用でドーパミンが補われたことで、集中力や意欲を取り戻したのだ。
私は文章を書くのが好きだった。哲学的な話や、脳の話や、健康の話が好きだった。それを思い出して、実行したいと思えたのだ。

そういうことを、一つ一つ見つけてこなしていくのが人生なのではないか。意味があるかなんてわからないし、わからなくていい。
ただやりたいからやる。それを消化していくのが人間であり、生物の定めなのだろう。

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