インターネットの原風景
ピーガガガガガッ
私が物心ついた時のインターネットはそんな音がした。
「パソコンが手の届く場所にあった」という意味では、私はあの時代にしてはすごく恵まれた環境の子供だったんだと思う。
当時パソコンでやることといえばポストペットくらいだった。それも親戚のおばさんとメールをやりとりして遊ぶくらいだから、せいぜいキャラクターを介した文通くらいにしかとらえてなかった。
ある時だったか。地球のマークをしたアイコンだったと思う。そいつをクリックすると、知らないページが広がった。なんだかいっぱい並んでる文字を適当に押すと、今まで見たこともないような情報がワーッと広がる。
夢中になって押しまくったけど当然後から怒られた。「電話料金が高くなったじゃないのよ!」と。そこで私は初めて知る。パソコンなるあの機械は、誰とでも繋がってるし繋がれる万能電話機なんじゃないかと。
幼いころの私には、どうにも居場所がなかった。
面倒くさい田舎の家に生まれたばかりに、子供っぽい夢一つ呟こうものなら「お前には継ぐものがあるだろう」とコテンパンにされたし、考えたことをリアルタイムで音声に変換して話すのが極端に苦手だったから、何を話したって「お前の言っていることは分からないから聞かないね」を普通に目の前でやられたりしていた。
けれど、インターネットは違った。自分は誰でもなかったし、相手も誰でもなかった。
苦手な音声言語を操ることができなかったけど、体当たりでhtmlを覚えた。
たったそれだけで、家しかなかった私の世界が少しだけ広くなった気がした。
それからの私は、隙を見てはノートパソコンやアップルコンピュータのキーボードをたたき、徐々に「時間帯によってはお金があまりかからないらしい」という情報を得てなるべく触ってませんよというそぶりを見せてみたりもした。
モデムの音がしなくなった後、いかにも「学校で習ったことを復習してますよ」という顔をしながらこっそり裏でチャットを開いていたりもした。
そこでは誰でもなくて、誰にでもなれる私でいられた。責任なんて文字は匿名性の前では断ち切られてしまっており、しょうもない釣りやスパムを踏んで憤ったこともある。
普段過ごす社会では当然名前がある。その背景がある。全てが紐づけされて、一人の人間になる。全てにおいて一直線で繋いでも構わないぜと思えるほどに私は良い趣味の人間でもなければ、社交的な人間でもなかった。
そんな人間が意図的に連続性を失えるのがインターネットだったし、過去との連続性を消した者同士のなんとなく薄暗い日陰者の連帯感の空気が心地よかった。
そして、インターネット触ってはや十何年だか二十何年だか。随分と気軽に手が届くようになったし、当時卑下してた「なれ合い」のようなものも悪かねえなと思える程度には社会性が発達してきた自分がいる。
けれど、時折思い出す。あの無責任でくだらなくて陰の「俺たち」が石の裏のダンゴムシみたいにもぞもぞとうごめいていた時代を。
ダイヤルアップ音を響かせる石はとっくに割られた。あの時動いてたダンゴムシの一部は多分蝶にでも変わって今のインターネット日向を飛んでいるんだと思う。
それでも僕は生きていけている。けれど、あの薄暗くてぬるかった日常をもう一度味わいたくなったら、いったいどこに行けばいいんだろう。
終わってしまった祭りの年齢を未だに数えている自分がいる
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