祖母との会話

祖母がいる。
昭和8年生まれ、今年で90歳になる。
だいぶ記憶は怪しくなったが、体は元気で元旦にエビと蟹をぺろりと平らげていた。

大晦日、私は食卓に御馳走というには大げさな、でも少しは年の瀬らしい料理を並べ、できるだけ皆が退屈しないように年に数回も合わない親族との共通の話題を探して場を持たせていた。

今年(2022年)あったいいことを各自が話す流れの中で祖母に「今まで90年間生きてて一番幸せだったことは?」と話を振った。

なんとなく「子供が生まれたことだよ」とか「結婚したことだよ」なんて答えを皆が期待していたと思う。福島県出身の祖母は空襲等を経験していないから戦争の話はしない。

だが、祖母は「会社勤めして初めてボーナスを頂いたときだね」と本当にうれしそうな顔で答えた。

親族が「えー。なんかもっと違うのあるでしょお母さん!」なんて言ってるのを尻目に古ぼけたアルバムを持ってこさせると、昭和27年頃、江の島で撮影したらしい娘時分の祖母の写真を見せてくれた。「もらったボーナスでみんなでいったんだよ。川崎から国鉄に乗ってね。」
(省電とは言ってなかったと思う)

祖母は福島の農家の次女だか三女の娘で親族を頼りに川崎に上京してきた。
今の人権感覚であれば体のいい口減らしと捉えられてもおかしくはない。
祖母の口から恨み言は聞いたことはないが、成人もしていない娘が縁薄い川崎で暮らすのは随分心細かっただろう。
祖母にとって月給とは違うボーナスをもらって、職場の皆と海に遊びに行ったというのはひょっとしたら川崎で自分の居場所を見つけたことを実感した時だったのかもしれない。
それからアルバムをめくって写真に写る人や舗装されていない川崎の街並みの話を皆に聞かせていた。

別の話題に移って、しばらくして若干の間が開いた時ちょっとした悪戯心で祖母にもう一度「ばあちゃん。今までで一番幸せだったことってなんだい?」と聞いてみた。
祖母はちょっとテレビから目線を外して「ああ、●●子(長女)が生まれた時だねえ」と答えた。
みんな「さっきと変わってるよ。お母さんは本当に適当だなあ」なんて笑ってたが、私はそうは思わなかった。
だいぶ時間の感覚が怪しくなってきた祖母は最初に聞かれたときは若いころに記憶が飛んだのだろう。2回目に聞いた時は自分が家族を持った時の記憶が甦ったのだろう。3回目に聞いたらひょっとしたら初孫の私が生まれたときといってくれたかもしれないし、祖父との結婚式をしたときと話したかもしれない。

幸せなんてものは定量化して比較できるものではないから、「一番幸せだったこと」なんて話題自体が無粋だったな。と思う。

祖母は近いうちに施設に入る。
コロナが続けばこうして皆で囲む卓に付けることはないかもしれない。

ただ、たとえガラス越しの面会でも、「幸せだったことはなに?」と聞いた時に「会いに来てくれたことだよ」と話してくれるかもしれない。
人と比べて時間があるわけではないがたまには会いに行こう。

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