【青山士(前編)】たったひとりでパナマ運河建設に向かった青年〜土木スーパースター列伝 #03
土木偉人の扉へようこそ!
横浜国立大学の有馬優と申します。憧れのデートプランは、聖蹟桜ヶ丘のラウンドアバウト(環状交差点)で、アニメ『耳をすませば』の世界に浸ることです。
私は大学職員として、土木を学ぶ外国人留学生のサポートをしています。母国の発展のために、日本で学ぶことを決意した留学生と交流する中で、日本の土木の素晴らしさ、大切さを日々学んできました。そして、その学びを「ことば」で届ける活動をしています。
演説動画『語られざる遺産』
そんな私に同シリーズ第3回目を“海外で活躍した土木偉人”というテーマで託されました。今回は、私の推し偉人『青山士(あきら)』の半生を辿りながら、彼が実践してきた哲学を「モチベーション」に置き換え、前編と後編に分けて、ご紹介いたします。
たったひとりでパナマに向かう
青山士は、パナマ運河の建設事業に貢献した唯一の日本人技師です。
東京帝国大学土木工学科卒業時に、アメリカがパナマ運河建設の技術者を募集していることを知り、卒業後すぐ、単身渡米します。1903年のことでした。
パナマ運河
大西洋と太平洋を結ぶ、パナマ地峡に設けられた運河。多くの人々がこの地峡に運河を造る夢を抱いていた。1881年、フランス人外交官フェルディナン・ド・レセップスが建設に着手したが、難工事、疫病の蔓延等により中断。1903年、パナマ共和国の誕生を機に、アメリカが運河地帯の永久支配権を得て、運河開設を再開。1914年に完成させる。
一体なぜ、ひとりでパナマに向かったのでしょう。
国内で活躍してから海外に行く。スポーツ選手ではよくあるステップアップです。自身をよりレベルの高い世界で試すために、海外に拠点を移す。こういったスキルアップの動機付けは、段階的に見ても納得しやすいですよね。
しかし、当時の青山は大学を卒業したばかりの青二才です。
豊富な現場経験、最先端の土木技術、巨大プロジェクトをまとめる統率能力、それらを有していたとは言い難い。ましてや、青山は体力がなく、ひ弱な体だと言われていたのです。そんな彼が決意を固めることができたのは何故でしょうか?
実は、青山にパナマ運河へ向かうことを勧めたのは、恩師である廣井勇です。廣井もまた、22歳で渡米し、ミシシッピー川改修工事に充実した唯一の日本人技師でした。
そんな廣井を、青山は生涯に渡り尊敬し続けていました。背中を見せてくれた身近な存在への憧れ、それが若き青山にとっての大きな原動力になっていたのではないかと考えられます。青山はのちに、当時のことをこう語っています。
「廣井先生のご懇意の御方で其の時のイスミアン・カナル・コミッション(パナマ地峡運河理事会)の理事の一人を知って居るから紹介状ぐらい書いてやろう、と云うことで其の時に私はパナマの事を読んだこともございますし、又面白い所だから行ってみようと思いまして、二、三人の人を誘いましたが、物好きに遠くまで行く人はございません。それ故、一人で三六年の八月に郵船会社の船でヴィクトリアに参りました」
同期に誘いを断られても、青山は廣井の呼びかけに応えると心に決めていたようです。
また青山は、「東京経済雑誌」に掲載されていた峰岸繁太郎の講演筆記「パナマ運河視察談」を読み、渡航を決意したとも語っています。
土木工学を専攻していた青山は、経済学の専門誌も読んでいたのです。青山は経済の観点からもパナマ運河建設の意義を見出し、渡米へのモチベーションを更に高めました。
これらのエピソードから見える青山のモチベーションの源泉は「素直さ」にあるのではないかと思います。尊敬する人の言葉を素直に受け止める。興味のあることを素直に学ぶ。
そんな実直な姿勢を持ち続けていた青山にとって、恩師に勧められ、やりがいを見出していたプロジェクトに、挑戦をためらう理由はなかったのです。
7年半で4000人が亡くなる世界
(荷下ろしドックとセメント置き場、パナマ・ガトゥン工区/出典:土木学会ライブラリー青山士写真集より)
パナマ運河建設工事が中断しているなか渡米した青山は、工事再開を待ちながら鉄道会社に測量員として勤務し、測量の腕を磨きながら英語で仕事をする環境に適応したと言われます。
そして、1904年6月、ようやくパナマ運河工事委員会に採用され、パナマ運河開削工事に従事します。パナマに来た当初は末端の測量員でした。
当時のパナマの情勢は、特に建設に携わる人々にとって相当に過酷なものでした。伝染病の流行りやすい気候の中での重労働の結果、青山が滞在した7年半の間に、約4000人の労働者が亡くなります。
青山自身もジャングルに分け入り、マラリアに罹患しました。そんな中でも目覚ましい昇進を続け、測量技師補、測量技師、設計技師を経て、最終的にガトゥン工区の副技師長に登りつめます。
何が青山をそこまで突き動かしたのでしょうか?そして、なぜ昇進を続けることができたのでしょうか?
「死んではならぬ。パナマ運河で働く唯一の日本人なのだ。死んではならぬ。」と、マラリアに苦しみながら、青山は自らを励まし続けました。晩年、青山は当時を振り返ってこう語っています。
「熱帯無人の境における測量は中々費用を要するのみならず、天然との戦争で大いなる苦痛を伴うものでありますが、今になって顧みると血湧返るを覚えて愉快のこともあります」
若くして異国の地に踏み入れたことが、逆に青山の強さを育んだのかも知れません。
目の前のことに真正面から取り組み、面白さも見出しながら、青山は着々と成果を残しました。まるで、スポーツ選手が、小中堅クラブからビッグクラブへとステップアップするように。
アメリカ人技師からトランプやチェス、ビリヤードに誘われることもあったそうですが、青山はそれらを断って仕事に打ち込みました。
それでも、孤独が青山を襲うことはあったようです。
故郷の友人から書き送られた島崎藤村の詩「椰子の実」を読み、胸にこみ上げるものがあったと。それは、椰子の生茂る宿舎から、遠い故郷を想うことで、心が奮い立たされたからでしょう。
逆境にも負けない青山のモチベーションは、「日本への想い」に支えられていたのではないでしょうか。青山は、給与の大半を、家族への仕送りに充てたと言われています。
後編では、"帰国してからの青山士"をお届けします。
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付記:横浜国立大学都市科学部都市基盤学科では、学生有志による広報活動として「優しさの街」というページを運営しています。土木技術の優しさに支えられる、日本の美しい街。その様子を、学生自らの手で撮影した写真たちが物語っています。ぜひお立ち寄りください!
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文責:有馬優(横浜国立大学都市イノベーション研究院職員)
<プロフィール>
留学生との交流を通じて土木工学に興味を持ち、土木偏愛家たちに弟子入り。土木の魅力や重要性を広く伝えるために、「ことば」を重視した広報活動に取り組んでいる。「デミーとマツの土木広報大賞2020」優秀賞受賞。低身長、低体重、低血圧の三重苦にも負けぬ丈夫な精神を目指して修行中。