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世間がすなるといふnoteといふものを・・・


 突然だが、みなさんは紀貫之の「土佐日記」の冒頭を覚えていますでしょうか。土佐日記はこう始まる。

「男もすなるという日記といふものを女もしてみむとてするなり」

 男もする(書く)という日記を女の私もしてみようと思ってする(書く)のである、というの現代語訳である。おそらく、「馬のはなむけ」とか「よくくらべつる人々」のあたりが穴あきになって、意味も分からず、暗記させられたはずだ。

学生の頃、この一文に出会い、「軽やかなだなぁ」と思った。ちょっと、そこまでお散歩に行きますんで、といった感じのフットワークの軽さを感じたのだ。何故だろう。

 無論、紀貫之は男である。その彼が、女性の語りに仮託して、漢文体でなく、仮名遣いで書いたのが土佐日記である。しょっぱなから軽やかに嘘をつく。別に彼は悪気があったわけではないのだろうけども、さっと読者を欺き、帰京までの道のりをユーモアと創作を交えて書いている。

話は変わるが、どうも「如何ともしがたい」状況が続き、家篭りの日々が続く。これは精神衛生上、非常によろしくない。鬱々とした日々から抜け出すには、秩序なき表現の大海に漕ぎ出さないといけないのかもしれない。手元のちっぽけなモノリスには、偉ぶった言葉、真面目ぶった言葉が溢れている。軽やかに嘘をついて、ゆらりと煙に巻き、汀に消え入る泡沫のような言葉を紡いでもいいではないか。

だから、

世間がすなるというnoteといふものを女もしてみむとてするなり

というわけだ。

 数多の文学作品とその作者名、複雑怪奇な活用に、絶妙に覚えずらい古語の数々。学生時代、古文にひどく苦しめられた方も多かろう。例えば、「先生ー。古文の知識って何に役立つんですか〜?」と窓際に座る後ろから2番目のスポーツ刈りの青年が尋ねたとする。すると教師は振り返り、柔らかな笑みをたたえてこう言う。

「例えば、あなたがnoteをはじめる時に」


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