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表現することとわたしの関係について、現時点の備忘録

世の中より一足はやく仕事納めをして
お休みに入った今日。
朝から引き出しをごそごそ、寝かせていたクロッキー帳を開封しました。
ぱたんと開くし
わら半紙と画用紙の間くらいの質感が気に入って
去年ベルリンで買ったもの。

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描くこと、しいては表現することと自分の関係について
考えたことを今日は書きます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

アーティストになることが、正解だった頃

以前の記事にも描いたけれど
母が立体作家で、よくわからない作品がごろごろ転がり
分厚い制作ノートと制作道具がいつもリビングにある家で育ったわたしは
ずっと頭のどこかで
「アーティストになることが正解」
と考えてた。
美大でも
「アーティストになるための教育」
を受けていたけど
大学2年生くらいから、だんだんと自分が目指すものが ”アーティスト” ではないのでは、、、と思い始める。
当時わたしの思うアーティストの仕事は「一人で画材や素材と向き合って、自分のメッセージを作品で発信する」こと。
他者との関わりのなかでイメージや形を創出することに喜びを感じる自分には、そんな仕事は向かないと思ったから。

でも、毎日毎日作品を制作する学生にとって、”アーティスト”というあり方はすごく憧れ。
わたしは”アーティスト”じゃない、という開き直りができるようになったのは、卒業後ずいぶんあとのことだった。
(ファイン系美大生のあるあるかも。
開き直ったらすごく気持ちが晴れたのを覚えてる。)


自分の中の矛盾


それから自分の目指すクリエイションには「ワークショップ」という名前がつくんだと知り、ぐんぐんその世界へ。
企画や構想段階で絵を描いたりすることはあっても、自分は絵を描いたり彫刻を彫ったりするアーティストとは違うという気持ちは変わらなかった。
手を動かすことは大好きなので、美術造形や美術塗装の仕事もすごく楽しかったけど、それらはデザイナーのイメージ(図面)を形に起こす仕事。アーティストとはやっぱり違う。

一方でワークショップを続けていたら
不思議なことに、参加者や関係者のかたに
「れいちゃんはアーティストだね」
と言われるようになった。
作品というモノをつくってないのに。
長い間憧れていただけに嬉しい気持ち半分、違和感半分。
でもだんだんと
「だれでも表現することは楽しめるし、それぞれの感性で独自のクリエイションを生み出すことができる!」というワークショップで自分が伝えたいメッセージとの矛盾を、自分自身が抱えていたことに気づき始める。

あれ、わたしが一番表現を特別なものだと思ってるかも...?
...反省。

参加者のみなさんの表現や、感性の解放に感動して
自分の表現を完全にあとまわしにしてた感じ。


結局、描く。

で、最近。
とても自然に、あー描きたいなあという気持ちがでてきて
クロッキー帳を開くにいたる。
入院してたころ以来だから、4年ぶり?
(その前もずっと描いてなかったし)


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"The pills" 2019.12.27

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"My control,left side" 2019.12.27


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"Release and Habit" 2019.12.27



とにかく非常に楽しくて
鉛筆も試したい、墨もペンも色鉛筆も試したい!
トイレで視界に入った布のしわ
毛玉をとった上着、犬の足
目に映るいろんな景色や
心に残ってる記憶がどんどん絵になっていく。
インプットセンサーがビンビンで
それにアウトプットがすっとはまる。
あっという間に一冊おわっちゃいそうな感じ。
(いつ失速するかわからないのも、表現のおもしろいところ)

表現することの価値や、アートとはなにかをずっと考え
本を読んだり友人と話したり研究会をしてることで
頭のなかにあるあれやこれやのロジックや言葉が
表現行為を通してなんだかストンと落ちた。
描くものも、これまでは具象的なモチーフが多かったけど
現象をおうことや抽象化することが増えたみたい。
自分の思考回路の癖が変わったのかな。

やっぱり描くって、作るって楽しい。
自分が手を動かすことで、ワークショップデザインやファシリテーションもまた変わってきそう。


で、アーティストって?表現って?

結局、わたしがやたらにこだわっていた”アーティスト”ってなんなのか。
最近幼児教育に関わっていて「こどもはみんなアーティスト!」って言葉をよく聞くけど、それは簡単に頷けない自分もいる。
だってアーティストは社会や時代の流れを汲み取りながら世界を観察し、自分を深く内省し、苦しみも伴いながら作品をつくっている。
感覚のままに、現象を楽しむことを優先する多くのこどもたちのそれとは違う。

⎯⎯⎯⎯いや、でもそうなるとアウトサイダーアートとかはどうなるんだ?

これは自分の中で輪郭は見えつつあるけれど、まだまだはっきりとはわからない問い。

参考までに、最近読んだ著書から印象的な言及をいくつかメモ。

美術批評家の椹木野衣著「反アート入門」(幻冬舎)のなかで
多くの人が「アート」って言葉の意味をよく意味がわからないまま、「これってアートだね」のように(なかば安易に)使いまくる現状を指摘した上で

"アートはその見方を知らなければ、絶対にわからない代物なのです"

"おのれの信じる美の世界をひたすら探求するとか、脇目もふらず個人の表現に徹するとか、そういうことは趣味としてはよいし、そのかぎりでは誰に文句を言われる筋合いもありません。けれども、ことアートというフィールドに足を踏み入れようとするならば、それはきわめて幼稚かつ素朴な考えであり、誰も相手にしてくれない勝手な思い込みに過ぎません。
(中略)
作品とは、(中略)それを作ったもの以外の誰もが、それについて自由に語ることができる、共有の存在でなければならないのです。"

と、表現とアートの違いをばっさり言及している。


一方、岡本太郎著「今日の芸術-時代を創造するものは誰か-」(知恵の森文庫)では

-芸術の問題は、上手い絵をではなく、またきれいな絵をでもなく、自分の自由にたいして徹底的な自信をもって表現すること。
(中略)人間は制約されているほうに慣れているし、ひじょうに楽ですが、自由という自分の責任においてやりとげるものには困難を感じ、なかなか自信を持つことができない。

-芸術は、いわば自由の実験室です。

-絵を描くということは、疑うことのできない、すべての人のうちにある本能的な衝動です。(中略)表現欲というのは一種の生命力で、思いの外に激しいものです。

芸術とアートを同義として考えると、アートと表現を同一線上に置いているように感じる。


また、この文脈でいうと
最近購入したスージーホッジ著「5歳の子どもにできそうでできないアート 現代美術100の読み解き」(東京美術)も非常に興味深い視点で書かれてる。
ダリ、ピカソ、ポロックなどの作品は、一見何も知らないこどもが作ったもののようで(それまで世界をそのまま模倣する芸術に価値を置いていた)批評家たちからは一蹴されることも多かったけれど
じつはそこにはたくさんの意図や歴史のながれが隠されているんだよ。
という目線で現代美術作品を紹介している。


個人的には岡本太郎氏のメッセージはすごく刺さったし、多くの人の表現をぐっと後押ししてくれるものなので好き。
こどもたちの表現に立ち会っていても、たしかに表現欲の存在を実感する。
いろんな見解がありそうなので、これからも勉強を続ける所存!


とりあえず
おばあちゃんになったらまた描くかなあ〜
くらいに思っていたけど
描きたくなるのが思ったより早かった、という驚き!
未だに自分が “アーティスト” とは思っていないけど
そういうのは生きてく中で、周りの人たちが決めてくれるんだろうと思う。
自分が表現行為そのものとどのように関わるのか
その関係にどんな名前がつくのか
とても楽しみ。


いつも長文を読んでいただきありがとうございます! サポートは、企画のための画材&情報収集に活用させていただきます。