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14日目〜語るに値しない記憶〜

まずは、この日からひと月以上が経過した後に、当日の出来事を書き起こそうとする現在の自分の心情から文章をはじめようと思う。そうすれば、いかにこの一日が語るに値しない日であったかが明瞭な形で表されるはずだからである。私はそれを表す努力に加え、語るに値しない記憶を語ろうとする苦悶にこそ、ここで記すべき内容が含まれていると直覚した。

この一日がもたらした記憶を一つ一つ並べるようにして思い浮かべると、眼前に一つの情景が立ち上がる。イメージされるのは、愛着のない古物をやむを得ず一つずつ露店に並べるひとりの無気力な老婆である。彼女は品を手にしながらこう思っている。

「このがらくたが一体何の役に立つのだろう。同じような物をあたしゃ何度も目にしてきたんだ。とっくに見飽きてしまったよ。露店に並べても誰も見やしないさ。だってあたし自身がこれを捨てたって一向構わんと思っているんだからね。ごみ同然さね、こりゃ。こんな物しか持たされちゃいないのに、どうしてあたしゃ人が通るところで店なんかやろうとしているんだろうか」

私も彼女と同様、見飽きるほど繰り返し同じような物を見てきた。「昼過ぎに目を覚ました」という記述を幾たび冒頭に持ってきただろうか。それから習慣的な食事と買い物と娯楽とがひと繋ぎにこの日の夕方まで連なる。果たして、何を食べ、何を買い、何を遊んだのかという無感動な記録を改めて記すことにどれだけの価値があるのか自分は知らない。

「ああ、またしても同じような記述から始まり、語るに値しない出来事を詳細に記すのか」そう思うと、それだけで自分は絶望的なつまらなさに捕縛されるのだった。老婆がそんな私を無表情に見下ろす。

「お前さん、売るに値しない物を売る苦痛ったらありゃしないよ。それについて本当の言葉が出てこないんだからね。見かけの売り文句はあるさね。でも心の中で『ああ、つまらんなあ』と終始思いながら嘘を並べ立てることになるんだよ。どれだけ言葉を尽くしても空を打つようなもんでさ。あたしゃそれが嫌になっちまったから客が来ても黙りこくってるのよ。つまらないと心で感じつづけることがあたしにとって一番耐え難いことだからね。でもお前さん、いまだって本当につまらないんだよ。だいいち世間で売るに値する物なんてそうそう見当たらないんだよ。お前さんのこの一日も売り物にしたら相当酷いもんだろうね。あたしゃ吐きそうになるよ。ここに並んでるがらくた物とそう変わらんわ。誰も買い取っちゃくれないさ」

この黴臭い語りが降りかかると、自分は心底嫌になり堪らず老婆を置いて走り去った。未定の空白をその場その場で埋めるように確定していった過去の一日を完成品として改めて見る行為は実に残酷である。それは人生全体にも通ずることなのかも知れない。

この日、私は一人でいる時間が長かった。K君は配達で昼過ぎまで出払っていて、夕方になると洛北のショッピングモールにある楽器屋へ電子ピアノを見に一人で出掛けてしまった。一緒に行こうと誘われたが、日中の怠慢を取り返すべく京都滞在四日目の作文を優先させたのだった。

今にして一緒に行くべきだったのかはわからない。ただ、自分の記憶がいかに物語的に保存されているのかを考えれば、外出する選択も悪くはなかっただろう。しかしそれと引き換えに過去の記憶が拙くとも文章として形に残されたのである。それをいま軽く読み返しても、自分が記憶を極めて視覚的に捉えているとわかる。ゆえに心象としての記憶に価値を求めるならば、習慣と日常は敵なのである。

K君は複数のどら焼きを買って帰宅してきた。彼が出掛けるときと同じ姿勢で私は寝転がりながら文章を作成していた。「まだ書いてるの?」といつまでも残業する人を発見したときのような驚きをK君は口にした。「どら焼き食べようよ、半分あげるから」と言われてようやく私は起き上がったのだ。それからお茶しながら電子ピアノの感想を聞く。

「選択肢は基本的にYAMAHAかCASIOだね。YAMAHAはシンプルでクラシック、CASIOは鍵盤が光るオモチャって感じ。ピアノは音を確認したり遊ぶためにあったらいいかな、くらいに思ってるから鍵盤がピカピカ光るオモチャの方が絶対に楽しくていいよね」そう言う彼は激しい葛藤の末、深夜にネットでYAMAHAを注文した。遊びより音そのものの質に拘ったのだろう。しかし後日、不良品のピアノがYAMAHAから届いたため、ピカピカ光るCASIOのオモチャに買い替えることになる。

夜、京都滞在四日目の作文を終えた私は、ここに来てようやくクラシックギターの練習を再開するようになった。楽曲は去年と同じ『禁じられた遊び』と『Un Dia de Noviembre』である。小さな子どもたちが常軌を逸した笑い声で何度も何度も公園の滑り台を滑るように、私はこれらの冒頭だけをひたすら繰り返すのである。聴き飽きたのか「そろそろ違う曲やったら?」と新しい課題曲の楽譜を印刷してくれたK君を無視して弾き続ける。十一月のある日、禁じられた遊びに興じる自分にはこれらがぴったりの曲名だとつくづく思うのだった。

昼に西陣のスーパーまでうどんを買いに行ったことや食後に自分の好きなキャラクターのタイプ論を話し合ったことなど記憶は他にも残されている。しかし古物商の老婆がそれらを詳細に語ることを許さなかった。

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