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『おかしのまちのおかしなはなし』作者・いわさきさとこさんってどんな人?①いわさきさんを創った幼少期~社会人になるまで


みなさんは、フレーベル館のこちらの絵本をご存じでしょうか?


見ての通り、和菓子と洋菓子の姿をしたキャラクターたちがなんともユニークで、眺めているだけで楽しくなってしまうこの作品。

こんなおもしろい世界を生み出した作家さんは、いったいどんな方なんだろう…!?と、つい気になってしまう方も多いはず。

今回は『おかしのまちのおかしなはなし』の生みの親、いわさきさとこさんのことを知りたくてたまらない筆者が、いわさきさんご自身のこと、絵本のことなど根掘り葉掘り聞きまくり、たくさん語っていただきました!

その量なんと、全4回連載できるボリューム…!
(いわさきさん、お付き合いいただきありがとうございます…)

そしてそして、今回の連載をするにあたり、いわさきさんがイラストカットを描き下ろしてくださいました!!👏
いわさきさんらしさ溢れる、ついクスっと笑ってしまうユーモアたっぷりなイラストもお楽しみください。

幼少期からいわさきさんと一緒に振り返るもよし、絵本の裏話を知ってから
絵本を手に取ってみるもよし。
どら焼きでも食べながら、お好きな回からまったりと読んでいただけたらうれしいです。



では、ここからいわさきさんにバトンタッチです!


いわさきさとこさん。いわさきさん自作(!)のキャラクターグッズたちと。

◆書籍詳細はこちらから




絵と漫画にどっぷり浸った幼少期


物心ついた時からずっと描いていたくらい、絵は好きでしたね。
だから、いつから絵や本が好きになったのかは分からないです。

絵本作家というお仕事をしていますが、絵本はあまり家になかったです。
覚えているのは、4歳くらいのときに、父が買ってきた漫画の『こち亀』※を擦り切れるまで眺めてたこと。当時文字は読めなかったけれど、感覚的に「なんかこの本、おもしろい!」となり…。
それがはじめての漫画でしたね。
※こち亀:正式名称『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(集英社)

そこから父や兄の影響で『北斗の拳』(集英社)を読んだり、思春期には漫画雑誌「りぼん」(集英社)などの少女漫画にも触れたり。図書館では伝記ものの児童文学のリアルな絵を楽しんでいたりもしていました。
ずっと絵と本ばかりで、相当変わりものだったと思います。

はじめての漫画との出会い。


小学生時代は本当に四六時中、家でも学校でも妄想しながら絵を描いていましたね。
授業中ノートをとっていても、気づいたら妄想していて、先生にチョーク投げられるみたいな。。
当時は教科書やノートの下に自由帳を広げて常に落書きしていたし、それがばれたらシャーペンの芯を小さく削ったものを使ってこそこそ描いて、落書きしているのがばれないように工夫していました。(笑)

授業中に描いていた絵は、小学校の時の仲が良い友だちを主人公にしていました。そこから妄想を繰り広げて思いついた話をノート1冊分にして、その子に渡して。

そのころからお話をつくる、ということもしていて、今思えば、絵を描くだけよりも、描いた絵にお話をつけるということが好きでした。そのお話はノート数冊分になっていて、友だちは大人になった今でもそのノートを残してくれているみたいです。


常に妄想していた小学生時代




寝ても覚めても、妄想ばかりの日々


小学生のころから、妄想することがすごく多かったです。
校長先生の話が長いなと思っていたら、いつの間にか妄想が始まってしまって、ここがどこかわからなくなる、みたいなことは日常茶飯事でした。
何かでスイッチが入るんでしょうね。
自転車に乗っていたときにふっと妄想スイッチが入って、1メートルくらい下の用水路に自転車ごと落ちてしまったこともあって…(笑)

今でも、夫に「1つのことしかできないよね」と言われることがあります。目の前のことに没頭・熱中しやすい性格はずっと当時のままですね。

妄想のしすぎはよくない…

絵と本ばかりではありましたがインドアというわけでもなく、わりと外で遊ぶのも好きでした。
バッタを捕まえたり、神社の裏に秘密基地とかツリーハウスを作っていて。兄の影響もあってか、男の子寄りの遊びが好きだったかもしれません。

部活はバレーボール部に所属していました。絵とは関係ないんです!
田舎の小・中学校に通っていたので美術部がなくて、ありあまるものをスポーツで発散させていたのかもしれないです。

絵は趣味というよりもはや生活の一部、ライフワークという感覚。
学生時代の中で絵や本に飽きるタイミングは全くなかったです。
これがいつか仕事になったらいいな、という気持ちも漠然とありましたね。田舎に住んでいたからそんなことは叶うかわからないけれど、願望は持っていました。




やりたいことが分からなくなった藝大時代


そんな願望を抱きつつ挑んだ大学受験は、かなりいろいろありました。
現役、1浪目までは普通の大学を受験したんです。
でも、2浪目に「これで最後だから好きなことをしなさい」と家族に言ってもらって、美術の予備校に行くことを決意して。
そこから一浪してとある美大に合格したのですが、目指していた藝大(東京藝術大学)は不合格でした。
でもその時に、「もう1回受験したら受かるな」という直感があったので、その美大に通いながら、夏休みや冬休みには美術の予備校に通って、3浪目でようやく藝大に合格することができました。

やっとの思いで叶えた「藝大合格」だったのですが、予備校の先生や、いろいろな人の知恵があったから入れたんだなという感覚があって、今ひとつ自分の力で入った気はしなかったですね。

3浪目、現役生ばかりの中で混じって気まずい


藝大生のころは、生活費をとにかく漫画やビデオにつぎ込んでいました。
食費にまわすお金がなくて軽い栄養失調になり、視界がぼや〜っとぼやけた感じになったことも。。
当時からサブスクがあればよかったんですけどね。
それを機に、レンタルビデオ店でアルバイトを始めたりしました。

今でも映画は洋邦問わず大好きです。
BGM代わりにして、常に流していますね。
ラフを描いたりしながら、子どもと一緒に観ています。
普通の家庭だったら子どもには「宿題してからじゃないと見せないよ!」とかいろいろ決めて言うんだろうけど、自分の場合は自分も子どもの時そうだったからあまり強く言えないですね。
何かの役には立つだろうし。

大学時代は、やりたいことがわからなくなった時期でもあります。
周りのみんなはアーティストを目指しているし、もちろん自分もそのつもりで入学したんですけど、なんか違うな、という感覚があって。

現代のアートって、高尚(格が高い)じゃないですか。
自分の世界を貫いているものが多くて、本当にそれに興味を持ってくれている、限られた人しか美術館に鑑賞に行かないイメージがあって。
それで自分自身が楽しめるかな、満足できるかな、と考えた時に少し違和感を持ったんです。

もっと広くみんなが知っているものがいいな、と思ったんですが、そのときはまだ「絵本をやる」という答えは出なくて。
生活に必須ではないけれど心を潤してくれたり、楽しくなるようなものとして雑貨が思い浮かんで、雑貨制作会社でデザイナーをするという道を選びました。
そこから10年ぐらい続けましたね。


連載第2回目では、雑貨デザイナーとして働いてみて感じたこと、絵本作家を志したきっかけを語っていただきます。

次回もぜひ、お楽しみに!


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