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授業において、自由な議論を抑制・阻害する要因とその対処…

 自由に意見を交わすことを、先生方は子どもたちに求める。

 しかし、教師が前に出れば出るほど、子どもたちは教師が何を考えているかを忖度し、先生に認められる、気に入られる意見を考え出す。しかも、意見を出す子どもは忖度できる子どもに限られる。これは自分が子どもだった時を思い返してもそうだろう。
 

そんな時の一つの方法論を提示したい。 

 例えば「やまなし」の授業。宮沢賢治のその豊かな表現力と比喩を国語として読み解きつつ、授業の最後には全体を俯瞰して、「そもそも宮沢賢治は『やまなし』を、なぜ書かいたのか」「作者から受け取ったメッセージとは」、なども問いを投げかけグループでディスカッションした後、自由に書かせる授業をやると仮定する。
 

 グループディスカッションでは、毎回まず初めに「バカな意見を一つ言ってからスタート」することを伝える

 初めにいわゆるできる子どもが、もっともらしい意見を言った時点でそのグループの雰囲気は、「もっといい意見をいわないと…」「自分はこんなに考えられない…」となり、お通夜状態になること必至である。実際、異年齢で構成された大人のグループディスカッションでも若年者の発言を引き出したい場合は、「年長者のバカな意見」が呼び水となることは多い。


 結果、子どもたちの発想の豊かさには驚かされることになるだろう。もちろん、バカな意見で盛り上がりすぎる子どもたちもいるが、方向性を守りつつ自由な意見を交わしている子どもたちを声に出して評価していれば、自ずとそんな子どもたちも方向づけられていく。


(以下、少し論点がズレます…。)


 『素直さ』はこれまで集団教育を進めていくうえで、重要なものであり、多くの教師が評価軸の中心に据えている傾向がある。いわゆるいい子と言われる子どもは素直で従順、規律正しい子どもたちのことである。逆に、疑ってかかったり、反論してきたりする子どもは教師の規律を乱す反乱分子とみなされ、排除や矯正の対象になってきた。


 もちろん子どもであるので、何らかの原理原則に基づいて理路整然と反論する子どもは稀であるが、やはり反論の目を摘めば摘むほど子どもは委縮し、自由な発想、自由な意見、自由な議論ができなくなるように思う。自由な意見を求めるためには、自由に意見を言える環境が大前提である。


 逆に、自由を規制し、教師にとってよりよい環境を作った末路が現在、香港で起こっている反政府の動きのようにも思う。香港で起こっていることは、自由を抑圧されてきた市民による暴動で、学級で例えると教師の一党独裁に抑圧されてきた子どもたちによる学級崩壊のようなものである。天安門事件では強力な力で制圧可能であったが、ソーシャルメディアが発達し、人権を、無視するような国家権力の姿が一瞬で世界に拡散される恐れがあり、中国政府も容易に手出しができない状況である。これも、80年代は教育現場で教師の力の行使ができたが、今はそうはいかない状況と酷似している。

 時代は変わり、それに合わせた教育(政策)が必要なことは世の中の動きから、学ぶことは多い。

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