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【小説】九十日後のあなたへ

【九十日後のあなたへ】
お題:『君の涙の味』
https://shindanmaker.com/392860

※【小説】レインコレクターの続きです。
https://note.com/friends17/n/ncef9913ca33d

 仕事を辞めてから丁度三ヶ月が経った。
 あの日、会社のビルを出てふらふらと駅まで歩いていた時。『レインコレクター』と名乗る青年に心の内を全て吐き出して、わんわん泣いて。彼は最初の言葉通り、差し出したハンカチに沢山の涙を掬った。どれだけ泣いたか——もう最後の方は鼻もかんでやった——分からないくらい。
 気が付くと、私と彼の周りに軽く人だかりが出来ていた。そこで漸く我に返り、彼へお礼を言って立ち上がった。彼は私を見上げ、優しい笑顔を浮かべて言った。
「もうお姉さんが泣かないといいなって思います」
 そうしたら商売上がったりじゃない、と笑ったのを覚えている。
 それが彼と交わした最後の言葉だった。
 その後も、ずっとあの青年の事を探していた。流石に前職の最寄駅へ向かうのはまだ心に対する負担が大きかったので行けていない。もしかしたら彼の活動拠点はあの駅周辺で、他の場所にはいないのかも知れない。
 それから、暫しの休息を経て、前の現場でお世話になった方の伝手を頼りに転職した。全く違う業種に就く事も考えたけれど、十年続けた経験を無碍にするのも憚れたし、収入が不安定になるのが怖かった。一応、事情を説明した上で受け入れてくれたので、感謝してもし切れない。
 新しく配属された現場は、相も変わらずシステム開発だったけれど。国内でも有数の大企業故か、環境と人の質が単純に高かった。同じ業種なのにこうも違うのかと感嘆してしまった。新しい現場、新しい人間関係。元から人と関わるのは好きだったので現場にはすぐ馴染めた。同じ業種で言語は違うけれど、十年やってきた経験である程度読み書き出来たおかげで、開発も問題なく進められた。
 天国だった。同じ業種なのに、どうして前の現場があんなに酷かったのか、今となっては本当に分からない。もう比較するのも馬鹿馬鹿しくなって、いつしかあの現場の事は考えなくなっていた。
 そんな折、上司から面談の連絡があった。第一クウォーターでの評価面談との事で、久々に本社へ帰ってきた。客先常駐の常か、転職先でも帰社する事は稀だった。本社の面々に挨拶しながら、軽く扉をノックしてから面談室へ足を踏み入れる。
「お疲れ様。調子はどう?」
「はい、おかげさまで。今の現場、とても良い所で。ご配慮頂いたようで」
「良かった良かった。それにね、君の能力に合うと思ったから薦めたから」
 上司と向かい合って座る。上司——私が以前の現場でお世話になった方——はノートパソコンのキーボードをひとしきり叩いてから、優しく微笑んだ。
「心穏やかに仕事が出来ているようで僕も嬉しいよ。何かあったらすぐアラートを上げてね。力になるから」
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げる。上司は「そんな、良いんだよ」なんて笑ってみせるが、前職での出来事を思えば手厚い配慮どころではない。
「現場の皆様も本当に良くして下さっています。しっかりと管理されている組織は良いです。私の気質に合っていると感じます」
「うんうん。君は真面目だからね。それと、現場の皆さんが優しくしてくれるのは、君が誠実だからだと思う。だから君ももっと、自分に誇りを持ってね」
 穏やかな口調でそう言うものだから、思わず涙腺が緩んでしまう。どうも心を病んでしまってから、人の優しさに触れれば触れる程、泣いてしまう事が増えたように思う。上司は私の事情も全て知っているので、ただ黙って首肯し、私が落ち着くのを待ってくれた。
 それから。現場での事、これからのキャリアの事、と言うより、リハビリに近い日々の過ごし方について話し合った。約一時間程経った頃合いで、次の面談者が来たので一旦区切りを付けた。
「本日はありがとうございました」
「いえいえ。じゃあ、身体に気を付けてね」
 一礼し、面談室を後にする。そのままオフィスを出て、会社のビルの前で立ち止まった。大きく深呼吸。会社が違うのだから当たり前だけれど、こんな清々しい気持ちでビルを出たのはいつぶりだろう。三ヶ月前はあんなにボロボロだった心も漸く癒えてきて。人に、仕事に、沢山のものに傷付けられたけれど、それを癒すのもまた、同じものなのであると思った。
 そのままの足取りで駅へ向かう。帰社日だったので少し帰りが遅くなってしまったけれど、夕飯は何か美味しいものでも買って——
「お姉さん」
 何処からともなく声がした。顔を上げる。
 忘れる筈がない。ずっと探していたのだから。
 辺りを見回して声の主を探す。すると、やはり同じ調子で「こっちですよ」と声を掛けるのだ。
「お姉さん、お久しぶりですね」
 視線を落とす。彼はあの日と変わらず、ゆったりとした服装にサンダル、今日は少しまとめられた髪と、綺麗に整えられた顎髭という出で立ちで、ちょこんと体育座りをして私を見上げていた。
「覚えていてくれたの」
「はい」彼は何かを思い出すように目を細め、柔らかく微笑んだ。「お姉さん程泣いてくれた人、後にも先にもいないんで」
「ふふ」あの日の自分の様子を思い出して、私も小さく笑った。彼の前にしゃがみ込んで視線を合わす。私の穏やかな様子に気付いたのだろう。彼は嬉しそうに何度か頷いた。
「今日は商売にならなさそうですねぇ」
 でも、と最後に付け加える。
「お姉さんが覚えているか分かんないんですけど、俺、お姉さんが笑顔でいてくれたらいいなって言ったんですよ」
「覚えているわ」彼の前に置かれた、少しくたびれたスケッチブックを手に取る。「あなたの、レインコレクターっていうサービスも」
「ありがとうございます」
 ずっと探していたと言ったら、彼は驚くだろうか。それとも、気味悪がってこんな風に声を掛けてくれないだろうか。
 けれど、ずっと言いたかった。あの日、私の涙を、私自身を、そっとすくってくれた彼に。
「貴方にお礼が言いたかったの」
 すると、彼は目を丸くして私を見た。あの日、あれだけ恨み言込みで泣き噦った私から、お礼の言葉なんて想像もしなかったのだろうか。私は構わず続ける。
「あの日、人生で一番泣いたんじゃないかって言う位泣いて。貴方が私の涙を集めて帰ってくれたから、今凄く心が穏やかなの」
 彼は黙って頷く。
「仕事も上手く行っているし、苦しくて泣く事も無くなった。全部辛かった事を吐き出したから、私はもう平気。貴方に差し出す涙はもう無いわ」
「はい、はい。ええ」彼は頷き、そっとズボンのポケットからハンカチを取り出し、私の前に差し出した。
「言ったでしょ、もう——」
「お姉さん。それ、嬉し泣きですよ」
 言われ、己の目元へ触れる。先程上司と話していた時と同じように、気付いたら涙が浮かんでいた。ちょっと、これじゃあ示しがつかない。慌てて涙を拭おうとする私を彼が身を乗り出して制す。そしてそのまま、あっという間にハンカチで私の涙を掬っていった。
「あっ」
「今日のお代はこちらで」
 そう言って、彼は涙を拭ったばかりのハンカチを口に当てる。
「貴女の涙の味。もうつらくないですね」
 かあ、と顔が熱くなる。間接的にとは言え、涙を舐められるなんて経験、生まれてこの方一度もした事が無い。
「ちょっと、何やって! それにつらいって何、それは味の感想なの?」
 気が動転して見当違いの事を口走ってしまう。彼はクスクス笑いながら、私の手からスケッチブックをやんわりと取り返してパラパラと捲り、眼前へ差し出した。
「前読みませんでした? 涙には感情が表れますから。お代として涙を頂いた時は、貴女の感情も少しだけお裾分けしてもらいます」
「そんなの読んでない」そうだ。私は知らない。書いてあったかも知れないけれど、読んではいない。
 いないけれど。
「もういいわ。うん、もうね」
 頷く彼を見遣る。うん、もういいのだ。
「もうつらくないわ。レインコレクター」
 そう告げると、彼はにっこりと微笑んだ。
 レインコレクター。もう貴方の前で泣く事は無いわ。貴方に差し出す涙はもうおしまい。
 今はただ、それで充分だった。

(了)

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