見出し画像

【小説】勿忘草の指輪

【勿忘草の指輪】
お題:『もう一度好きになって』
https://shindanmaker.com/392860

「あの!」
 仕事からの帰り。街を歩いていると突然腕を掴まれ、振り返ると見知らぬ女性がいた。走ってきたのか息遣いは荒く、普段なら綺麗に整っていそうな長い髪はボサボサに乱れている。彼女のただならぬ雰囲気に、すれ違う人々がチラチラと視線を送りながら去って行く。俺の右腕を掴む彼女の腕と顔を交互に見遣る。
「え、その。どちら様ですか」
 俺が訝しげな視線を向けると、彼女は逆に困惑の目で俺を見つめ返すではないか。それから、眉を八の字に曲げて何かを言い掛けようとするが、それきり口を噤んでしまう。一体どういう事なのだろうか。
「あの」戸惑いのまま声を掛ける。彼女はやはり何か言いたげに俺を見つめるが、俺が本当に彼女の事を知らないと悟ったのだろう。
「すみません、人違いでした」
 そう言いながら彼女は俯いて、そっと腕を離した。
「ごめんなさい、引き止めてしまって」
「いや、俺は大丈夫です。けど」
 踏み込むべきか迷う。こうやって近付いてくる怪しい勧誘の可能性も否定出来ない。ただ、彼女の必死な様子も気になる。いくら俺が平々凡々な背格好をしているからと言って、そう簡単に誰かと見間違えるだろうか。そういう経験が無いので分からないが。
「本当に失礼しました」
 一礼してから足早にその場から立ち去る彼女を見遣る。その姿が人々の波に飲まれるのを認めて、俺も踵を返して歩き出す。何だったんだ。
 それにしても、彼女のあの様子は尋常じゃなかった。もしかしたら本当は俺が忘れているだけで、彼女と俺は何処かで出会っていたのかも知れない。
(だとしてもまあ、それでどうしろって言うんだろう)
 彼女の腕を見た時、偶然目に入ったのだ。俺の腕を掴む手の薬指に、キラリと輝く指輪がはめられているのを。

 ◇

 彼の元から逃げるように去って、少し離れた所で足を止めた。呼吸が苦しい。
 間違いない。あれは彼だった。見間違える訳がない。ずっと、ずっと探していた。嬉しかった。彼はあの時のままの顔で私を見つめていた。
 けれど、彼は私の事を覚えていないみたいだった。
(無理も無いよね)
 左手の薬指に触れながら、心の中で独りごちる。
 彼は、私の恋人だった。
 数年前。私との待ち合わせ途中で交通事故に遭った。そして、それが原因で記憶喪失になったらしい。らしい、と言うのは、私は詳細を教えて貰えなかったから。私との待ち合わせが原因だ、と、彼のご両親に言われた。理不尽だと思ったけれど、ご両親の気持ちも分かる。それに、私達は婚約していた訳でも何でもない、ただの恋人関係だったのだから、踏み込んで聞く権利も無かった。
 彼が記憶を取り戻したら、私を薄情だと罵るだろうか。あんなにも愛を囁き合ったくせに、私は怖かったのだ。彼を心から愛していたのに。
 怖いくせに忘れられずにいた。この指輪——彼と一緒に買ったペアリング——も、外してしまえばいいと何度も思ったのに。出来なかった。私まで彼を忘れてしまったら、彼と過ごしたあの日々を全て否定してしまうようだったから。
 でも、でも。今日街で偶然彼と出会って、私は改めてこの指輪を外そうと思った。
 そしてまた彼と何処かで出会う事があれば、私は改めて彼に声を掛けたい。彼が好きな事、嫌いな事、全部知っているから。私は彼との出会いをやり直したいと思った。
 そうしたら。彼は私の事をもう一度好きになってくれるかしら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?