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【小説】secret petition

【secret petition】
お題:『手放すつもりも、ないですけれど』
https://shindanmaker.com/392860

※【小説】Crucible of Worldsシリーズの続きです
https://note.com/friends17/m/m35d4f1525362

 誰もいないと分かっていながら、静かにドアをノックする。当然返事はないし、鍵も掛かっていない。それでもお伺いを立ててしまうのは、きっと幼少時からの躾のせいに違いなかった。
「入るよ」
 半ば癖のように呟いて、ゆっくりとドアを開ける。暫く換気していなかったせいか、若干空気が淀んでいる気がする。入口付近のスイッチを手探りで見つけ出し、部屋の明かりを点ける。柔らかな暖色のライトが灯り、暗かった部屋を優しく照らした。
 親父の部屋。多分、母さんも足を踏み入れようとしていない。
 念の為、入室前に母さんへ許可を求めたけれど。
「私が止める権利なんてないわ」なんて、悲しそうに眉をひそめて、かぶりを振ってから頷いた母さんの姿を思い出す。親父が亡くなってから、母さんは暫くの間ずっと泣いていた。親父の急逝で一番悲しんだのは間違いなく母さんだ。そして、誰よりも親父を愛していたのも。
 母さんは終ぞ知らないままだったのだろうか。親父が不倫している事を。性別を超越した、純粋な愛と言う名の邪悪に手を染めていた事を。
(邪悪、ね)
 自分の考えに自嘲する。同じ轍を踏んでいるのは誰だったか。ゆっくりと親父の部屋の中を進みながら思案する。俺達は間違いなく母さんを愛していた筈なのに、ずっと目を逸らし続けている。母さんの愛が異常だった訳でも、不足していた訳でもない。親父へ向けていた愛情も、俺に対する慈しみも、全部文句の付け所のない、平々凡々なものだった。
 そこまで理解していて逃げ続けているのはきっと。取り繕うのも愚かしい、罪悪感めいたもののせい。母さんが向ける無償の愛という清らかなものが、不貞行為という穢れに満ちたものを無言のうちに糾弾するからだ。
「分かってはいるんだよ、母さん」
 親父の机の前に立ちながら呟く。これから行う事は、きっと墓荒らしでしかない。
「ごめんね」
 そっと引き出しに手を掛ける。ガチ、と鍵が掛かって動かない。それを確かめてから、ズボンのポケットを漁る。中から小さな鍵を取り出し、鍵穴へ差し込んでみる。軽く捻ると、軽い金属音と同時に鍵が開いた。再度引き出しを引いてみると中から手帳が出てきた。ずっと中にしまわれていたので、埃は被っていない。これだけ厳重に秘匿されたいた事を鑑みるに、親父のものに違いなかった。
(どうしてあの人がこの鍵を持っているのか)
 差し込んだ鍵を見遣る。これはあの人から受け取ったものだった。親父の墓参り前、春から社会人になるのだからきちんと挨拶した方がいい、だなんて。そう言いながら俺へこの鍵を手渡したのだ。あの日、ホテルで散々俺の中へ欲を吐き出して、満足気に微笑みながら。
(どの口が言うのか、本当に)
 蔑みの言葉が頭の中へ零れ落ちる。彼の事は好きだ。この関係がどんなに罪深いものであっても、彼に対する感情は本物だ。歪でも、愛している。どんなに彼を軽蔑しても、それを上回る愛情を抱いてしまっている。でなければ、彼と同じ会社へ就職しようだなんて——もっと言えば、親子ほど歳の離れた人と不倫しようだなんて——そんな事、考えもしないだろう。
 俺の愛は、もうどこか、おかしくなっている。
「っ、はは」
 自嘲する。改めて思い直す程でもない。
 俺はかぶりを振った。
 改めて手帳を手に取る。手帳と言うよりか、どうやら日記帳に近いもののようだ。中をめくると、日々の出来事が細かく書かれていた。日付は、親父が亡くなる随分前からだ。パラパラとページを捲って、日付が新しくなった所で手を止めた。
「これ——」

 ◇

 会食に息子を連れて行った。あの子には、私の後を継いで貰いたいと思っている。利害にまみれた組織ではあるが、その実、やり甲斐はある仕事だ。
 彼にも会わせた。私に似ていると笑っていた。節操のない彼の事だから、私に飽きてしまわないか心配だ。きっと彼は常に刺激を求めている。いつか私がいなくなった時、絶対に彼の目は息子へ向かうだろう。
 もし、この日記があの子の目に触れるような事があれば、そうだな。彼は不誠実だが、物事は必ずやり遂げる。
『それが何であれ』
 私の懸念もきっと杞憂に終わる。私が彼を繋ぎ止めている間は大丈夫だ。
 だから、もし。私がいなくなったら。
 息子よ、どうか逃げ延びて欲しい。

 ◇

 日記はそこで途切れていた。
 いつに間にか日記を持つ手が震えていた。これをあの人は読んだのだろうか。だから引き出しの鍵を持っていたのだろうか。彼から逃げて欲しいと願いながら、彼の目に触れるようにしたのは——
「はは、あはは」
 おかしい。やっぱり、あんたらどうかしている。
「あははは、ははは!」
 腹の底から笑い転げてしまいそうだ。おかしくて堪らない。親父は分かっていたのだ。彼の興味がいずれ俺へ向く事を。彼を、俺と同じように愛していた筈の親父。いや、違う。
 親父は彼を『本当に心から愛していたのか?』
 まあ、まあ、それは。
「それは、もう、どうでもいい」
 どうでもいい。そうだ。もうどうでもいい。
 親父の真意が何であれ、俺はもう彼を手放すつもりも無いのだから。
 日記を引き出しに戻して鍵を掛ける。俺は何も見なかった。親父の遺したものを無視する。親父の事を尊敬していたし愛していたけれど、親父だって沢山のものを無視してきたのだから。おあいこさ、そう、おあいこ。
 彼は今俺の手元にあるよ、お父さん。
 鍵を握り締めたまま、俺は目を閉じた。

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