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【小説】quick silver

【quick silver】
お題:『その口で何人の女を口説いたの?』
https://shindanmaker.com/392860

「本日のご予定ですが——」
 秘書が私の今日の予定をつらつらと読み上げる。ある程度頭に入っているのでただの儀式でしかないが、それが彼の仕事なので咎める事はしない。一般的な始業時間に合わせて行動している為、私の朝は意外と早い。少し眠気の残る時間に聞いても、彼の声は落ち着いていて心地良い。
「——以上です」
「ありがとう」
 彼が言い終わるのを待って返事をする。彼が私の秘書となってもう二年。彼はいつでも真面目で、忠実に仕事をこなしてくれる。公私混同は絶対にしない。
「それで、業後の会食ですが」
「ああ、それは私的なものだから。今日も良い子と会えそうなんだ」
「そうですか」そう言って何事も無かったように目を伏せる。
 例え、私がどんなに女遊びをしていても、だ。
 私がどれだけ火遊びに興じようとも、全て彼が後始末をしてくれる。お陰で、私の享楽が表沙汰になった事は一度もない。その手腕たるや、先代の秘書に手解きを受けたと言っていたが、彼の努力に依る所が大きいだろう。まあ、私が『これ』をやめれば良いだけの話ではあるが。彼はそれを承知の上で私の秘書になったのだ。
「では、私は途中までご一緒します」
「ああ、頼むよ」
 首肯し、デスクの上に溜まった書類を手に取ってパラパラと捲る。それらは全て既に彼が一度目を通しており、きちんと整理されているので後は判子を押すかサインを書くか位でいい。勿論、内容に目は通すが。どんなにITだデジタルだ何だと言っても、所詮判子直筆サインの文化からは逃れられない。こういうアナログな部分があるからこそ、彼の仕事も減らずにある訳だが。
 ちら、と彼を見遣る。スケジュールを読み終えてから、私の横のデスクに着席してカタカタとキーボードを叩いている。彼は本当に不要な干渉を一切してこない。そんな彼の事を好意的に見ていた。もし彼が私を咎める事があっても、私は素直にそれを受け入れるだろう。
「どうかなさいましたか」
 私の視線に気付いたのか、彼が顔を上げて問うた。私はいいや、とかぶりを振って微笑んだ。
「君は本当に良くやってくれるから。君の事が好きだなと思った迄だよ」
 そう言うと、彼は珍しく目を丸くして私を暫し見つめてきた。彼が表情を崩す所を見るのは久々な気がする。やがて、ふうと息を吐いて、彼は困ったように苦笑いを浮かべた。
「そのお言葉で、一体何人の女性を口説いたのですか」
 彼の意外な言葉に一瞬口ごもる。この言葉は、どう捉えるべきか。決して表に出さないが、彼は彼なりに思う所があったのだろうか、それとも。
「さあ、どうだったかな」悪戯めいて笑ってみせる。「口説いたのは女性だけじゃ無いさ」
「今の私のように?」ぽつりと呟く。笑みは消え、いつもの彼の表情のまま。静かな水面のように、決して波立たぬその顔。彼の真意は、ただの冗談なのかどうか。
「そうだね」ひと呼吸置いて、彼を改めて見据える。「でも、こんなに素直な気持ちを伝えた事は無いよ」
「悪いお人だ」
 それきり、彼は何も言わなかった。
 私も書類へ視線を落とす。この会話はきっと、彼の記憶の中には残らないだろう。私もそう、忘れてしまうのが正しいと思った。普段見せない彼の狼狽。今まで色んな人と遊んできた私でも、彼の真意ははかれない。
(だから君が好きなのだけど)
 心の中で独りごちる。彼はもう私を見ていないだろう。
 本当に口説きたい人は、いつまで経っても私を見ようとしないな。

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