好きを演じる

先日、書店でクラゲに関する書籍を手にしようとしたとき、私は何故この本を手に取ろうと思ったのだろうかと疑問に思った。

私はクラゲという生き物が好きだ。
きっかけはさっぱり覚えていないけれど、小学生のときから好きだ。
小学生の頃、夏休みの自由研究でクラゲの生態について調べ、レポートとして提出した。
周りの子の絵や工作の作品がキラキラと輝いて見えたのをよく覚えている。

両親は私の興味にとことん投資してくれる。
クラゲの展示種類数でギネスに登録された鶴岡市立加茂水族館に行きたいと言えば、その夏に連れていってくれた。
その他にも、沖縄、三重、ハワイなどどこに行っても水族館へ行くのに付き合ってくれる。

クラゲの他にも、私にはいくつか趣味があるが、趣味ならとことんやりなさいと言われて育ってきた。
私にとって、この上ない環境だと思う。

しかし、このサポートは段々と私にプレッシャーを与えるようになった。
一度これが好きだと言うと、ずっと好きでなくてはいけないような気がしてきたり、それについて詳しくなくてはいけないような気がしてきたり、そんなプレッシャーだ。

この謎のプレッシャーの原因は自分自身にもある。
冒頭に書いたエピソードから察しがつくかもしれないが、小学生の私は学校で1番頭が良かったし、誰もがそれを認めていたように思う。
勿論、自分よりも賢い人が星の数ほどいるということは理解していた。
だが、学校では「天才」というキャラでやっていくことが1番生きやすいやり方だと思って、そういうことにしていた。

ここで私はキャラを付けて生きることの楽さを学んでしまったのだと思う。

私立の中学に入って環境がガラッと変わっても、その生き方は変わらなかった。
キャラがあると、初対面の人に自分を覚えてもらいやすいし、会話も展開しやすいからだ。
人見知りにとっては強力な武器だった。
新しい学校でのキャラは「アイドルオタク」で、アイドルオタクとしてやっているSNSでは「演劇部員」を演じた。

どちらも嘘ではない。
本当にガチのアイドルオタクだったし、部活のことしか考えていないレベルで演劇に夢中だった。

ただこうして私は色々な場所で色々なキャラを作っていくなかで、キャラがあるときとないときの境目が分からなくなって、どんどんと自分を見失っていったのだろう。

こんなことを考えながら少し立ち読みをして、私はその本をそっと元に戻した。
一心不乱に読むような熱がないときは、演じているだけだと、そう判断したからだ。

しかし、だんだんとキャラを貼り付けた自分を客観的に見られるようになってきたとも言える。
キャラを作ることを今すぐやめられるとは思っていない。
ただ、せめてもの抵抗として、コントロールすることに努めようと、私は少し広めの書店の片隅で誓ったのだった。

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