感受性の変化について

村上春樹の小説が苦手だった。
やたらと比喩が多く、知らない音楽を引っ張り出しては物語のBGMにしている。よく分からない突飛な展開が始まる。高校時代に三冊読んで、もう人生で二度と開かない本の作者だと思った。

今、かの作者の本を読んでいる。夜、家を外と視覚的につなげている窓をカーテンで遮って、まるで自分の世界が今いる部屋だけのようにする。そして、ページを開くと、あれだけ嫌っていた比喩が、生き生きと情景として現れる。この場合、生き生きとは活発な様子のみならず、歯に挟まった粗挽きのこしょうを噛み潰したような遅れてやってくる嫌悪感や、明確にどこが痛いのか指し示せないような鈍痛を自分に近しいもののように感じられる様として使っている。

以前、あんなに嫌っていたのは、本をストーリーで読んでいたからかもしれない。今は部分にも美しさを感じながら、読み進めている。自分の感受性が大きく変わったことに驚いている。そして、これは変化というべきであって、決して成長ではない。

この変化は、自発的に書くことを始めたことでもたらされたのだとら思う。どうやって自分の思いを文字に起こすか。どうやったら伝わるのか。日々考えながら書いていたら、他の人が書いた文章にもそんな視点を持てたのだろう。物語への共感性ではなく、ものを書く人へのシンパシー。出不精で人生経験の浅い自分の近頃の変化といえば、そのあたりかなと推測する。だから、「成長」という意味性の強い言葉ではなく、状態を表す「変化」という言葉を好む。

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