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<男>からは降りられないよ 『おかえりアリス』評 後編

慧ちゃんは降りたって言ってるけど。

僕は
僕は一応男ですが
男は もう降りました
下世話な質問はしないでください
よろしくお願いします

1巻 pp.89-90

『おかえりアリス』の性に関する評、後編。

前編では、三谷と洋ちゃんの視点から綴られる性の息苦しさについて解釈してきた。いよいよ後編では、慧ちゃんの視点から見た性の息苦しさとその解決について見ていこう。

前編はこちら。(一応、前編を読まなくてもこの記事の主題部分は読めるようにしたつもりだ。)

引き続き、ネタバレ全開である。


慧ちゃん

ストーリー前半の慧ちゃんは、物語上の謎として場をかき乱す役割を与えられていた。高校入学と同時に帰ってきた幼馴染がめちゃくちゃ似合う女装をするようになっており、自己紹介で「男は降りました」などとのたまう。幼馴染3人組の再会パーティでも不意にキスするなど過激な性的接触をおこない、2人の性的な感情に揺さぶりをかける。その姿には、意図不明のまま周囲を弄びながらも、我々をどこか新世界へ連れて行ってくれるトリックスターのような感覚が強かった。

けれど、その仮面は3巻から徐々に剥がされていき、4巻で美術部の阿野が登場してからはすっかり鳴りを潜める。性に翻弄される洋ちゃんや三谷の物語を解決しようとやってきたかに見えた慧ちゃん自身も、実は性に迷走し戸惑っている人物だということが明確になっていくのである。

「男から降りる」と言ったとき<男>とは何か

1巻冒頭、慧が自己紹介で「男はもう降りました」と言ったとき、めちゃくちゃびっくりした。

「男から降りる」は一見、例えば「競争から降りる」のような、ごく一般的な日本語の使い方に見える。しかしこれはフェミニズムやその周辺の言論界隈における専門用語でもあるのだ。作者は分かっていてそう言わせたのか? この疑問は5巻のあとがきにフェミニズムという単語が出てきたことで、YESという答え合わせを得ることができた。

さて、慧ちゃんについて語るとき、最も重要かつ難しい要素は「男から降りる」という言葉の意味である。それはどのような<男>から降りることを意味するのか。

人の性別をざっくり大別すると、セックス(生物としての性)、ジェンダー(社会的な性)、セクシュアリティ(自身の性に関する態度全般)の3つに分けられる、というのが性に関する議論で多く用いられる前提である。(セクシュアリティについては、今回深入りしないので忘れても良い。)

ここで、一般にフェミニズムが問題にする男性性とは、社会的に構築された男らしさ、つまりジェンダーとしての男のことを指す。だから、その文脈において「男を降りる」とは、「わたしは男性優位社会を形成するマッチョな価値観から降りますよ」「女性を劣位で保護されるべき対象とみなすような、有害な男らしさを捨てますよ」という意味である。

では、『おかえりアリス』においてはどうだろうか。

ジェンダーから降りたい

まず1巻の時点では、ジェンダーとしての男から降りたいと思っているように読み取れる。

そもそも「男を降りる」と言ったときの慧ちゃんは女装している。制服のスラックスをやめ、現代日本社会においては女性服とみなされるスカートの制服を着てやってくる。髪も肩甲骨が隠れる程度まで伸ばしており、男性ではありえないほどの長さである。

いま挙げた女性服とか男性ではありえない長髪といった慧の外見に関する女性性は、ジェンダーに属する。なぜなら、スカートが女性のための服であるという文脈は文化的に作られたものだし、髪の長さも同様だからである。そこにあるのは生物学的な必然性というよりも、社会的な了解である。

つまり、男なら大体こういう格好だろ、というジェンダーに従っていない。

さらに、「男を降りたって…どういう意味だよ?」と尋ねる洋ちゃんに対して、慧ちゃんはこう答える。

「男はこうだ」「男なら当たり前」って言われてること
僕にとっては全部違った
…まあもっと単純に言えば
この方が僕に似合うって思ったから
それだけだよ

1巻 pp.108-109

ジェンダー的な男から降りる、ということを最も象徴的に表しているのが、3巻終盤、洋ちゃんが三谷とセックスしようとして、しかし勃たずに失敗して帰るシーンである。土砂降りのなか傘もささずに慧ちゃんの家の前に来てしまう洋ちゃんと、その後ろ姿を見て引き止める慧ちゃん。しばらくのやり取りののち洋ちゃんは事の顛末を話し、「ハハハ…おかしいよな俺…! 男失格だよな…!」と言う。この文脈における男とは間違いなく、「ヤるべきときにしっかりヤる」性的能力の誇示というジェンダー的な男の意味である。

それに対する慧ちゃんの返答はこうだ。

たたないからってどうしてダメなの?
洋ちゃんは洋ちゃんでしょ
自分のことを笑わないで
気持ちを閉じ込めないで
出してあげて
出して…いいんだよ

3巻 pp.172-173

ここで慧ちゃんは、上述の性的能力という男らしさに加えて、「男はどんな苦難にあっても涙を見せず感情を見せず笑い飛ばさねばならない」という別の男らしさをも解体する言葉をかけている。

慧ちゃんが降りたい<男>には、ジェンダー的な意味での男が含まれることは明らかである。

性欲そのものから降りたい

ところが、慧ちゃんが降りたい男は、いわゆる男らしさのようなジェンダー的意味に限定されない。そのことが、巻を重ねるごとにだんだんと明らかになってくる。

慧ちゃんは、第二次性徴によって自分の中に生まれるようになった性欲そのものからも降りようとしていたのである。

土砂降りのなか、セックス失敗直後の洋ちゃんを見つけた慧ちゃんは、彼を家へあげて体を温めるためシャワーに連れて行く。そこで、なし崩し的に2人でシャワーを浴び、「オナニーよりすごいこと」と称してペッティングをおこなう。ここで、2人の魂は第二次性徴前の少年同士の爽やかな精神空間に転移し、快感へと達する。

この出来事のあとで、セックスをやり直そうと誘惑した三谷に導かれるようにして、洋ちゃんは女性とのセックスの味を知ることになる。

ここで洋ちゃんは岐路に立たされる。性欲を実現した三谷とのセックスと、精神的な繋がりを見た慧ちゃんとのペッティング、どちらを取るのか。言い換えれば、性を知った男と性を知らぬ少年との対立である。

三谷とのセックスを洋ちゃんに報告されたとき、慧ちゃんの言葉は寂しさに満ちている。

僕としたことは…もうくだらない?

5巻 pp.40-41

洋ちゃんがどちらを選ぶかは本人に委ねながらも、あれだけ三谷と付き合いたい洋ちゃんを応援する体だった慧ちゃんが初めて見せた、本音を抑えたことが分かる憂い顔のように思う。(その表情は、ぜひ買って自分の目で確かめてくれ!)

次の決定的な瞬間は、三谷の1週間オナニー禁止令によって性欲に支配され言いなりになっている洋ちゃんの姿を見せつけられた慧ちゃんが、なんの発言もできず顔を歪めて退散するしかできなかった場面である。

逃げ帰った自室で慧ちゃんは、美術部の阿野を聞き手に、男女の肉体に発露する性欲からの逃れがたさに言及する。

それで…
三谷は…
笑ってたよ……男の子だねーって
男の子……か……
三谷は…男の子が必要なんだ
女の子になるために
恋愛と性欲はその道具で
僕はどっちにも乗っかれない
(中略)
恋愛も…性欲も…同じだ……
結局僕もその中にいる……
僕は…そこから出たかった……

6巻 pp.50-52

慧ちゃんは、性欲から出たがっている。性を知らぬ少年の頃と比べ性欲の沼に沈み込んで「汚く」なってしまった体から脱して、「キレイ」になりたい。

その思いに共鳴するのが、物語最終盤の洋ちゃんである。洋ちゃんは、ついに三谷とのセックスを自発的に拒絶する。性という穢れた世界から出たいと欲する。

地獄だ
たってもたたなくても
ヤッてもヤられても
男でも女でも
好きでも嫌いでも
恋も愛も
キスもセックスも

慧ちゃん
慧ちゃんもこんな地獄の中にいたの?
僕は どうやって出ればいい?
どこに向かって行けばいい?
出たい
ここから出たい
出してくれ
 
出してくれ

6巻 pp.84-89

しかし、出る方法が分からない。そして、洋ちゃんは性欲の根源と考えられる自身の性器を切除しようと思い立ち、カッターを刺し、失敗する。洋ちゃんも、自身の身体から湧き出てくる性欲そのものの消去を望んだ。

つまり、『おかえりアリス』における「男を降りる」とは、ジェンダー的な男らしさ規範からの離脱と、性欲そのものからの離脱、その両方を指しているのだ。

女装は慧ちゃんにとって一時しのぎ

性からの解脱が作中でどのように解決されたかを見る前に、作中で提示されたもうひとつの問題について触れておく。

『おかえりアリス』で示された問題は、三谷の性の証明と、慧ちゃんの性からの解脱のほかに、もうひとつある。それが、美術部の阿野による身体の肯定である。

阿野は4巻から登場した4人目の登場人物である。阿野(と慧ちゃん)の抱える問題は、自分の身体を好きになれないということだ。

阿野の生物としての性は女性だが、自身の体が女っぽくないことに悩んでおり、かといって女らしくなりたいわけでもなく、男性を好きになるような恋愛関係を営むこともできないでいた。

慧ちゃんの方でも、身体や見た目に関する悩みはあった。というのも、「男を降りる」という目的のために取った女装という形態が、「エッチな女の子の姿を借りてる」という意味において別のジェンダーを利用していることの矛盾に気付いたからだ。どの場面で気付いたかは明言されていないが、3巻にて、女の格好をした男ということで先輩から性的ないじりを受け対応に困るというシーンがある。この出来事は、「男性性を捨てようとしているが女性性という別の性を身に纏っている」ことを慧ちゃんに突きつけている。慧ちゃんは初めから、男から降りただけで女になりたいわけではないと明言しており、その観点で、慧ちゃんの女装は中途半端で一時しのぎ的な行為なのだ。(作者あとがきでも「暫定的な方法に過ぎ」ないと指摘されている。)

ファンタジー的解決

整理すると、「おかえりアリス」が提起した問題は3つある。第一に、自身の性的価値を証明したいという三谷や洋ちゃんの問題。第二に、性という欲望の鎖から己を解き放ちたいという洋ちゃんや慧ちゃんの問題。第三に、己の身体をそのままで肯定したいという阿野と慧ちゃんの問題である。

作中では、第二、第三の問題に対しては解決が語られる一方、第一の問題を解決する方法は示されない。これは、性的価値を証明したいという問題は、性からの解脱を図れば包含して解決されるからだろう。性そのものから降りてしまえば、性を持ったまま性の中で生きていく方法を考える必要はないというわけだ。

では、ここから作中で示された解決方法を見ていこうと思うのだが、正直なところ、私にはよく分からなかった。初読時にいまいち飲み込めず、しばらく時間を空けて読み直したが、やはり腑に落ちない感がある。

というのも、提示された方法に実現不可能なファンタジーのような印象を受けるのだ。

身体肯定という問題は、身体コンプレックスを抱える阿野と慧ちゃんが、互いの悩みを打ち明けながらそれぞれの女と男の裸体を見せ合い、相互に承認することで解決する。慧ちゃんは最終的に女装もやめる。

性からの解脱という問題は、最終7巻の大半の紙面を割いて解決が描かれる。4巻のシャワーでの出来事のように、慧ちゃんと洋ちゃんが肉体的な接触によって精神世界を接続し、第二次性徴(思春期の性の目覚め)のはるか前、第一次性徴(人間の誕生時点で有る身体の性)よりも前の汚れなき高次空間に到達することで解決する。

どういうことやねん、と思った。

ファンタジーとしては納得できる。しかし、私には抽象的すぎる。現実の自分に持ち帰れる方法だろうか、という問いに、YESと答えられない。

いや、最大限に抽出するなら、性的な交わりを抜きにした親密な二者関係を成立させることで、(身体の肯定や)性からの解脱を達成することができる、ということになるだろうか。だが、しかし。

結局のところ、この物語の私にとっての分からなさは、男を「降りる」ために示された手段を現実のこととして了解できなかったことにある。作者の完結あとがきには、作者自身は未だ降りられていない、でも降り続けようとする姿勢が大事だ、などと書かれている。その言葉が歯切れ悪く聞こえて、妙な納得感があった。

ここには2つの困難がある。第一に、幼馴染級に精神世界を繋げられる存在などという「降りる」必要条件の確保が無理ゲーすぎる。そして第二に、そういう存在がいたとして、精神世界を繋げるという「降りる」手順が不明瞭なことだ。

そもそも性欲は降りられるものなのか

私はこう考える。

男からは降りられない。

というか、そもそも、降りる必要があるのだろうか?

私は、ジェンダーからはある程度降りられると思うが、生物としての男からは降りられないと考えている。

ジェンダーに限らず、何らかの規範や先入観というものは、個々人と社会の持つ統計的な思考と判断のショートカットである。ある事象に対する基本的態度を定めておくことで、個別ケースへの対応負荷を減らすことができる。「◯◯はだいたいこういうもの」という初期値を持つことは、自分でイチから考える手間とか、最終的に選ぶときの意思決定コストの軽減につながる。遊園地でひとり周囲をキョロキョロ見渡している小さな子供はだいたい迷子なのだ。

ジェンダーという規範を利用することの目的が社会における思考と決断のスキップにあるならば、自分がそれを目的にしなければ良い。思考コストと決断コストを自分で払いたければ、そうすればよいだけのことだ。男らしくしたくない、女らしくしたくない、その思考と決断の結果を自分で背負うことができるなら、なにをしたっていいだろう(近代において人間は基本的に自由)。

ところが、肉体としての男性性から発生する性欲を降りることは、不可能だ。(一応、とあるおくすりの副作用に性欲減退があるらしいが……そういう問題か?)

なぜなら端的に、私たちが魂と知覚するものは、肉体と不可分だからである。

だが、そんなことは洋ちゃんも分かっている。彼は自分の性器を切り落とそうとして、失敗したのだから。そして、肉体と精神を切り離す方法はいまのところ、死、以外に無い。

そこで話の焦点を、そもそも、なぜ性欲そのものから降りようとしたかに移したい。

性欲はジェンダー由来か肉体由来か

『おかえりアリス』の世界観には、性欲によって、肉体や魂が汚されたという意識がある。ゆえに、第二次性徴以前の、性を知る前の身体や心のイメージに「戻りたい」という願望が生じる。

ここで少し考えておきたいのが、性欲はどれほどジェンダー的なのかという問いである。作者はあとがきにて、エッチな漫画やビデオといったコンテンツによって自身の性欲が醸成されてきたことを語っている。実際、例えば靴下に性的興奮するとしたら、それはかなり社会的文化的に構築された性欲と考えてよいかもしれない。靴下という概念の無い社会ではその性欲に気付けないからだ。

ところが、大多数の人が持つ性欲の根本はそうではなく、異性の肉体に対して発生している。これはある種の思想における欠陥だと思うのだが、性欲すべてを社会構築物だとみなすのは無理がある。その考えは、ただの動物としての人間の生命を無視している。もしそこに靴下が無かろうが、動物は勝手にオスとメスで性欲のもとに駆動し子孫を残しているだろう。でなければ、その種は今日まで存続していないのだから。

であるならば、不当な文化によって醸成させられた性欲が自分の肉体や魂を汚してしまったという感覚は、論理的には間違いであるということになる。

性欲は、生物が持つ様々な欲望のひとつに過ぎないはずだ。

例えば、食欲という欲望の気持ち悪さについて語ることが可能である。食欲とは、体の一部分の空洞に、特定の成分(糖分とか脂質とか)からなる物体をつめこみたいという欲望である。空洞内で液体を分泌させつつ、空洞を構成する下半分の器官を何度も動かし、入れた物体を細かくして体内に送り込む。しかもこの行為のために、わざわざ動植物の命を刈り取ったり、台所と呼ばれる専用空間で調理という作業をおこなうなど、随分な手間をかけている。

作者は、性欲への嫌悪感に関して、性欲を「処理」するという言葉遣いに言及している。「処理」するべく、「ゴミみたいに『溜まる』」ものなんて、本当は無いのではないか、と。

だが、発生した欲望を「処理」するのは何も性欲に限らない。食欲だって、私たちは「処理」することがある。

私たちはそれを、食事を「適当に済ます」と呼んでいる。

要は、肉体から湧き上がった欲望そのものや欲望の成就そのものを楽しもうとせず、その欲望を解消することを目的としたとき、人は欲望を「処理」するのだ。スマホを見ながらぼんやりと取る朝食など、まさに食欲を「処理」していないか。別に朝ごはんが食べたいのではなく、食べなければその後の活動に差し支えるから食べているのだ。

このような理屈を捏ねれば、性欲と食欲との差異はどんどん無くなっていく。

しかし、こんな理屈で納得できれば苦労はしない。

では、食欲そのものを心から楽しむのと同じように性欲を扱うよう、自分の中に位置づけるのが難しいのはなぜだろうか。

他者を必要とする欲望だからなのか

6巻にて三谷とのセックスを拒否した洋ちゃんの独白の冒頭を見てみよう。

…ごめん
 
傷つけている
僕は傷つけている
慧ちゃんを
三谷を
僕は…僕自身を傷つけている

6巻 pp.82-84

洋ちゃんの感じる性欲という沼の地獄感は、性欲によって周囲の人々や自分自身を傷つけている感覚によるものである。

これを性の暴力性、とでも呼ぼうか。自身の性欲を果たそうとするとき、そこに暴力的な感覚、やってはいけないことをして誰かを傷つけているような感覚になる。

確かに、三谷は洋ちゃんを性欲によって傷つけた。性欲の支配という、洋ちゃんが望まない形で性的交際をおこなった。結果として洋ちゃんは、セックスの拒否という三谷が望まない行動によって三谷を性的に傷つけた。

性欲が、ほかの欲望と大きく異なると感じられる理由のひとつには、セックスには他者が必要不可欠だという考えがあるだろう。食欲や睡眠欲は一人で解決できるが、性欲はそうではないのだ、と。

しかしそれもまた偽である。食欲を満たすとき、明らかに生産者や流通業者などといった他者が介在している。彼らがその労働によって疲弊し傷つくことはないのだろうか。スーパーで鶏肉を買うときに感じない後ろめたさを、ドンキホーテの暖簾の奥に一人用アダルトグッズを求めるとき感じるのは矛盾である。

だが繰り返すように、問題の核心はそんな表面的な部分にはない。

もっと内面の深いところに、性的なこと自体をネガティブに感じる原因が眠っている。

そこには罪の意識がある。

性欲に対する罪の意識

5巻のあとがきにて、セックスによって心のなかがズタズタになる感覚があると述べられている。セックスの成功のために自分はオスという機械だと言い聞かせ、事を遂行するたびに、自分の中の「少女」が傷つき血まみれにズタボロになっていく。

でも僕は、僕の中で血まみれになっている少女を忘れることができていない。どうしたら助けることができるのだろう。僕はいつも、フェミニズムにおいて男の無意識の女性差別が攻撃されるとき、引き裂かれるような痛みを感じる。自分がオスになろうとしたことの罪を暴かれるから。自分が内なる少女を傷つけていることの罪を突きつけられるから。

5巻 あとがき

セックス(やオナニー)によって自分の性欲を達成しようとするとき、自分の中の少女を傷つけていることの罪。

『おかえりアリス』という作品の本質が、ようやく明らかになってくる。そのタイトルの意味するところは、自分の中にある少女性の回復なのである。

なぜ男から降りたいのか。

心の中の少女――本来の自分があるべき、性に汚されていない無垢な精神の象徴――が引き裂かれ泣いているからだ。

その解決には、男らしさを振る舞おうとすることをやめること、そして性欲そのものを消去することの両方が必要である。

果たして本当にそうか? 

確かに、性欲そのものが消え去ってくれれば、男らしく振る舞おうとする動機そのものが消滅するからすべて上手くいく。

しかし、性欲そのものを何もかも消す必要はあるのだろうか。

この問いにYESと答えたくなるのは、その罪の意識のせいではないか。

降りようという試みそれ自体に、到達不可能性を感じる。

その道は、自己否定の道だから。

確かに、人生には自己否定的な努力が必要になる場面は多いのだろう。今の自分じゃダメだ、もっと良い大学へ、もっと良い企業へ、もっと良い人生のステージへ、もっと良い人格者へ……。

実際、そういう過去の努力によって人が現在の不幸を免れているのは事実なのだろう。今晩食べるものに困ったりしないのは、今晩寝るところに困ったりしないのは、そういう社会的に積み上げてきた要素のおかげな気がする。

でも、それを第一信条にして進んでいった先に幸福はない。

自己否定型の努力とは、現在の自分を殺し、より良いとされる自己へ作り変えるプロセスのことである。小さな自死の繰り返し。やっぱりある程度は必要なんだろう。しかしその先に待っているのは、自己全体の死だ。

全部に「おかえり」を

ここで、前編で論じた問題を思い出してほしい。三谷や洋ちゃんは性に翻弄されて苦しみを受けている。だが苦しみの原因は、性欲そのもののさらに奥にある、性的有能さを示そうとして(失敗して)いることへの無自覚によるものであった。

「オスになろう」とした自分がいたこと。

その存在に、まず「おかえり」を。

そして、その先で必要なのは、男を降りることではない。

今の自分とは別のあり方を無限に求め続けることによって男を降り、ズタズタに引き裂かれた無垢な少女が二度と傷つかないように「おかえり」を言おうとする。そのとき、男らしく振る舞おうと懸命に努力した男のほうの自分が、逆に否定され、ズタズタに傷つけられるのではないか。

消去するのではない。受け入れる。

そこに多少の諦めを持って。どうしようもない、この身体に勝手に沸き上がってくる性欲は、否定しようと思ってもそこにあるのだと。

「そんなものがそこにあってはならない。存在してはいけない。」そう強く念じれば念じるほど、その存在は自分にとって巨大で強固なものになり、意識はそこへ縛られていく。

そうではなくて、ただそういう自分がそこにいるなあと認めること。

性欲に狂わされみじめに汚くなった自分。
男らしさを実現しようとする自分。
その結果ズタズタに引き裂かれた自分。

そして、性欲を嫌悪する自分も。

ただ、そこにいるなあと思う。

いるなあアリス。いるなあ性欲。いるなあ罪の意識。

ぜんぶ居る。ぜんぶ要る。

ぜんぶに「おかえり」を言ってあげてよ。

引き裂かれたアリスがいることをゆるせば、あがいて引き裂いた男がいることも、引き裂いた男を許せない心までも、ゆるせるはずだ。



私自身、女装などという、世間の覚えが芳しいとは言えない趣味がある。それは一般人と呼べるラインからこぼれたところに居ると考えている。仕事で求められるまま男性性のようなものを発揮したあと帰宅して女装すると、内なる少女性のような欠けた何かが回復するのを感じる気がする。似合ってないと思うこともあるし、似合うために頑張ってもないなとも思うし、客観的には気持ち悪いよなと思ってしまう自分までいる。

そこまで全部ひっくるめて、どうしようもなく自分なのだという気がしている。

女装に対して気持ち悪いと思う自己否定の自分に、そんな自分なんている「べき」でない、と思うことがある。けれど、その社会的な視点のおかげで、実際の世の中と折り合いを付けることができているんだと思うと、いてよかったと思った。(たまにやっぱり消したくなるけど!)

外で男らしさを使って日銭を稼ぐ自分も、家で男からの逸脱を繰り返す自分も、その状況に気色悪さを感じる自分も。

いるなあと思う。

性欲に惑わされる自分も、性欲に泣いている自分も、性欲を消したいと思う自分も、そこにいる。いていい。

その思うほうが、自分に湧き出る何かを殺そうとするよりも、自然に生きられる気がする。


私は、「降りる」ことは自殺のほかできないと思っている。だから「降りない」で生きる方法を記したくて筆を執った。

けれど「降りよう」とする道のりにも、もしかすると実りがあるのかもしれない。何か分かったら教えてください。

でも、もし、あなたが「降りる」ことに疲れてしまったら、こんな与太話もあったなって、思い出してほしいな。


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