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<少女>は幸福の象徴である 『VRおじさんの初恋』感想

待望の単行本が発売された。

『VRおじさんの初恋』は、ここ1年私が読んだマンガの中で最も胸に刺さる素晴らしい作品だった。去年noteに投稿されていたものを読んでから、ずっとお布施したくてうずうずしていた。単行本発売に加え、期待を超える第二部という新たな展開もあり、ファンとしてとても嬉しく思う。

記念すべき単行本発売の折に何かしら思うことを書きたいなと思った。しかし、私自身VRに興味はあっても未だ経験がなく、浅学の身ではどうにも考察という考察はできそうもなかった。そして、ファンレターとなると初読時の衝撃やストーリーの濃密さに語彙力を喪失して「尊い!」しか言えなくなってしまうことは確実だろうと思った。だからこれは考察でもファンレターでもなく、感想として書くことにしようと思う。

ナオキが女学生の姿をしている理由

第一部で最も印象的だったのは、ナオキがホナミに自分の過去を語ったことで、ナオキが自分でも気付いていなかった自分の女学生姿の理由が明らかになるシーンだ。学校でいじめられているさなか、いつも楽しそうな少女たちの姿を横目に眺めていた。ナオキにとって、少女は幸福の象徴だ。

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(episode4 pp.46-47)

私にとって、この考えはとても身近なものに感じられた。少女とは、その全身で幸福を体現する存在だ。幸福になりたくて少女の姿を選ぶことは、私にとって自然な発想だった。あまりに自然な発想だったので、てっきり、世の多くの人も同じ考えだと思っていた。しかし、「少女 幸福 象徴」でググってみても何も出てきやしない。もしかして、誰もそう思っていないのだろうか……? ナオキや私だけが狂っているのだろうか? 『VRおじさんの初恋』を前にして、私に書けるテーマがあるならばこれしかないと思った。

もちろん、現実の少女がすべて幸福であるわけではない。少女ならば幸福であるという命題を真だと主張することは、過去に少女だった経験を持つすべての成人女性からの顰蹙を買うだろう。しかし、概念としての<少女>は、確かに幸福の象徴なのだ。それは理想的な姿で言えば、例えば『ご注文はうさぎですか?』の世界のように。ナオキの目にそう見えたように、私の網膜にも、<少女>の世界が幸せで満ちているように映る。

<少女>が幸福な理由

現代日本という環境において、<少女>は人々が求めるものを最も多く手にしている存在である。その話をするために、現代日本という我々の生きる舞台の設定を確認しておきたい。

現代の日本は非常に治安が良く平和で、機械化の進行で便利な道具で溢れ、ただ生きていくだけなら凌ぐことができる。紛争も無ければテロも無い。明日街中で事件に巻き込まれて死ぬかもしれないなんて思わない。牛丼が380円で食べられるし、家に帰れば便利な家電が空調の管理でも洗濯でも何でもしてくれる。そんな平和な社会、ひとまずの物質的な欲求がおおよそ満たされた社会である。

そして、「失われた何十年」に代表されるような長きにわたる不景気が続き、これ以上生活の物質的な発展を求めることが難しい社会でもある。労働者の手取り給料は何十年も減り続けている。昔は冴えないサラリーマンのはずだった野原ひろしは、今や戸建てで嫁と子供2人を養うだけの力を持つ者として憧れの眼差しを受けるようになっている。

治安が良く暮らしやすい一方で、これ以上の物質的な富を望むことが難しい社会。このような社会において人々は、精神的な充足を求めるだろう。現代日本は、精神的に満たされることを求めるフェーズにある。そしてそれは、何かと繋がることによって得られるものだ。近代化や核家族化によって急速に進んだ地縁・血縁共同体からの解放、それにともなう個の漂流も、この欲求を後押しする。

何かと繋がりたい。本や芸術作品で時空間を超えた他者と繋がってもいい、家を出てあちこちを旅し世界と繋がってもいい、しかし本質的には、精神的に満たされることとは目の前の他者と繋がることだそして、<少女>が最も多く持ち合わせているものこそ、目の前の他者と気軽で楽しいコミュニケーションをする素質なのだ

現在の東京において、最も自由に街を歩き回れる存在は「清潔で」「経済資本や文化資本に恵まれた」「小柄な」「女性」ではないだろうか。そのような女性は、外見で威圧感や不安感をもたらすこともないし、臭いや行動で他人に嫌な思いをさせることもない。これは、従来の社会ではありえなかった転倒だ。

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』イースト・プレス 2020, p.179

従来の社会において街を我が物顔で歩いていたのは、腕力や権力を持った男性だった。ちょっと人通りの少ない路地に入ると、昼間でもたちまち危険の香りがする社会。世界を見れば、今でもそんな街の方が圧倒的に多いだろう。しかし、現代日本はその真逆の社会を形成している。非常に同質的で、秩序だっていて、極めて治安が良い。

そして、このような治安の良い社会において、治安を悪くする潜在因子として危険視されるのはおじさんである。年をとっていて、腕力がある存在だからだ。人を見た目で判断してはいけないと道徳の授業で教わるが、なんのことはない、実際に外で人とすれ違ったとき見た目以外に相手を判断する材料はほとんどない。街に出れば、ネットの海に出れば、簡単に数百人数千人と繰り返される初エンカ。その初対面で相手の内面なんて知りようがないのだ。だからこそおじさんはその外見で、どうしようもなく周囲を遠ざけてしまう。おじさんとは、目の前の見知らぬ他者とのプラスなコミュニケーションが最も取りづらい存在なのだ。

では、おじさんとは対照的に、出会ったときに相手に不安感や不快感を与えない外見とはなんであろうか。それこそが、おじさん=中年男性と真逆の属性、すなわち若い女性=<少女>の姿である

ここに、<少女>という属性の優位性がある。<少女>に話しかけられて、不快感や嫌悪感を催す人はまずいない。<少女>がそこに存在していることを鬱陶しく思うこともない。そこにいてもいい、いやむしろいてほしい。お店の看板娘が機能するのはそのためだ。<少女>であることは他者とのコミュニケーションにおいて、ほとんど全ての場合でプラスの価値を持つ。

「かわいいは正義」というネットミームがあるのをご存知だろう。この言葉は何も、萌え豚が二次元美少女を前にして発露させた興奮だけを表しているのではない。「かわいい」は現代日本において他者と関わろうとする際に最も優れたコンセプトであるという意味で正義であると言っているのだ。上に引用した熊代氏の著書でも、中性的で清潔な印象が求められるようになった男性アイドルたちや地方自治体のマスコットとして生み出されるゆるキャラたちに見られる共通性として、「かわいい」があることを指摘している。そして「かわいい」を最も適用しやすい人型、それは勿論<少女>の姿だ。

『ご注文はうさぎですか?』の幸福な世界。日常系アニメに登場する<少女>たちの幸福とは何であったか。激しい競争、掴み取る勝利、輝かしい名誉、そんなものではない。ただ<少女>たちは<少女>たちと関わり、街の人々に受け入れられて、世界に受け入れられてささやかで楽しい日々を過ごしていく。それが、<少女>たちの幸福だ。

これを平凡な幸せだと嗤うかもしれない。平凡さに閉じ込められた、退屈な日々だと。しかしこう言いたい。そんな平凡が欲しいんだ。

そんなありきたりな幸せをナオキは掴みたいんだ。

ただそれを手にしたくて、ナオキはVRchatで<少女>の姿になったのだ。

だからナオキは<少女>をまとう

ナオキは昔から社会でのカーストが低かった。

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(episode4 p.45)

学校ではいじめられ、人々とのコミュニケーションはマイナス寄りの価値を持っていた。そして現在も、「40歳。独身。男。派遣社員。」人々とプラスのコミュニケーションを取るのに不向きな属性のオンパレードだ。裏表紙のあらすじ一行目の破壊力は伊達じゃない。

さらに、ロスジェネ世代のナオキは、これから自分の人生が好転するなんて期待は思っていない。現実の人生の可塑性はもう失ったと考えている。

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(episode6 p.72)

そんなナオキだから、VRchatにやってきた。VRchatは、他者と関わるためのツールだ。他者との気軽で楽しいコミュニケーションを求めて、ナオキはVRchatの世界で、幸福の象徴である<少女>の形をまとった

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(episode3 pp.40-41)

ナオキは嘘をついている。本当は他者と関わりたい。でなければ、VRchatなんてやらない。1話で不審者感丸出しのホナミの相手なんかしない。2話でホナミにVR世界の案内なんかしない。3話で苦手な人混みのするワールドに出かける約束なんて取り付けない。わざわざ「自己顕示したくないしできない」なんて言わない。こんな表情なんてしない。全部、全部、ナオキが他者とプラスの繋がりを持ちたいからしていることだ。

ナオキは、目の前の他者との繋がりを求めていた。

第二部で得た確信

第二部最終話、ホナミの家に来ていたナオキが帰りの新幹線に乗った場面。

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(episode13 pp.169-170)

私はこれを読んで本当に胸がいっぱいになった。私の思っていたことと全く同じことを言っていて、もうなんだか自分が目の前に現れたようだった。

作者の暴力氏はこう言っているけれど、やはり「<少女>の体が必要だった」ことも重要なことではないかと思う。ナオキとホナミは、現実世界そのままのおっさん2人として出会ったとしたら、きっとこんな関係にはならなかった。VRで恋人のような関係になってからも、現実では友達のような関係のままでいる。「体が変われば/心が惹かれ合う場所も変わる」。「現実と違う体で」出会ったからこそ結ばれた縁だ。

確かにナオキは、<少女>の姿になっただけでは幸福になれなかった。1話以前の、ホナミと会う前のナオキは<少女>の姿でもひとりだった。しかし、<少女>の姿になることで、目の前の見知らぬ他者とプラスのコミュニケーションを取るための素質、つまり幸福になるための素質を得ることができたのだ。<少女>になることは幸福の十分条件ではなく必要条件に過ぎなかった。しかし、VRで<少女>になることで、幸福へのスタートラインに立てた。それは、「日本中にいっぱいいっぱいいる」ナオキのような人々にとって大きな意味を持っていると思う。

<少女>についてのまとめ

長々と書いてきたが、論旨はこうだ。現代日本で人々が求めているのは他者とのプラスなコミュニケーションである。そして、それを目指す際最も効果的な属性が「かわいい」=<少女>の姿だ。VRに来ている人たちはコミュニケーションが目的である。だから人々は<少女>の姿になっている。


重ね重ね、『VRおじさんの初恋』はこの1年読んできたなかで最も胸に刺さる素晴らしい一冊だった。まだ未読の方がいらしたら、ぜひ第一部だけでも読んでみてほしい。そして本を買って欲しい。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
面白かったらシェアなどご自由にしてくだされば幸いです。


(引用画像はゼロサムオンラインより。ちなみに本は発売日当日にとらのあなで買った。やっぱり夕暮れが似合うかなと思ったので。)


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