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概念は存在しない、時間は存在しない


運転中に閃いたこと

初の哲学的な記事になる。
私は哲学を読んだことが殆どないし、物理学も殆ど知らないが、数学的なことに限らず日常的なことを自己流で哲学をすることが好きである。それは案外数学においても本質を捉える上で成功していると思っている。
最近、運転しながら「概念」という概念について、とりわけその大きさについて気になり考察していたら、その要素については平常の意味においての「存在」という動詞を使うのに相応しくないのではないかと気がついた。
更に考察を深めていくとそのことは「時間の非存在性」の議論に対して近い考え方を齎すことに気がついた。
ただし、一定の物理学者が時間の非存在性を謳っているのは知っているが、私はそれを一切読んだことはない。むしろ「そんなどうでも良いことを考えてどうするんだ?」、「オカルトかな?」くらいにしか思ったことはないのだが、「もしかしたら物理学者が言っているのは、今まさに運転中に私が至った境地のことを言っているのか?」と思ったら途端に面白くなってきた。
しかし前述したようにこれは誰かの思考を一切参考にしていないし、確認もしていなので完全に自己流であるので全く違うかもしれない。
自己流なので私のコンセプトとして数学的な技法も入れていくので読者にはそこを楽しんで欲しい。

概念は存在しない

概念というのは存在しない。
正確にいうと「存在」するとしてもそれは「机」、「ペン」、「草」など実際に物理空間を支配しているものの「存在」と用語を分けることにクリティカルな意味合いが存在するという結論に車を運転しながら至った。前者の存在を第一種の存在、概念に対する存在を第二種の存在と仮に呼んでおこう。
ここで数理哲学的に「概念」への「存在」という用語の奇妙さを論じておこう。もし概念が存在するとするならばそこには所在が無いといけない。つまり一つの「概念」を持ってきたときに、それが正しく「概念」であると言える為には「概念」全体が一つの集合として表記されていなければならないであろう。しかしこれは不可能である。何故ならば概念という第二種のオブジェクトは任意の仮定を含んでおり(※この性質故Virtual Object(VO)と呼ぶことにする)、それは任意集合よりも大きいという誤った性質を内在してしまう。
「概念」は直感的定義でしかないものの、例えば「任意の数学の定理すら数学世界が作成される前に概念として存在している」や、もっというと「第一種のオブジェクト(単にObject(O)と呼んでおこう)が存在する前から既に全てが完備されている」という誰もが思うVirtualに関する不文な概念に対する常識から言って、明確に定義するのであれば(※実際には定義不可能だが、もし定義する最善の努力をするのであれば・・・)任意集合より大きいというのは満たすべき性質である。しかし、集合論にはベキ集合という真に大きい集合を作る手段が存在するので、任意集合より大きいというプロパティは明確に誤りなのである。そもそも概念がvirtualに論じれるもの全てだとしたら、作成されたベキ集合も一つの概念であるから、概念全体はそれすら内在してなければおかしいことからも明らかにおかしいことが分かる。
故に所在の存在しない「概念」には平常な意味での「存在」という動詞は似つかわしくない(ともある意味では見れる)のだ。

第二種のオブジェクトの存在の意味

ここまでで概念というvirtualは第二種のオブジェクトであるから、「存在」という用語を本来は使い分けるべきものであるということを解説したのだが、私は言葉遊びがしたかったり、どうでもいい結論を導きたい訳ではないし、ましてや存在論についてのオカルトを述べたい訳ではない。この存在概念の使い分け部分がある意味でクリティカルな部分があり、時間という第二種のオブジェクトの存在にすぎないものを第一種と混同するから不合理な未解決問題の存在を許してしまうという、誤りを是正する意味で使いたいのだ。
逆にいうと第二種のオブジェクトの存在(※例えば数学的概念が存在する)として第一種のオブジェクトに作用させ帰結を導くことに何らおかしな所はなく、この意味では混同しても全く問題ない。即ち第二種のオブジェクトは確定的な推論を導く射としての意味合いにて有用である。数学っぽくいうとVOはVOに作用する群みたいなもので、当然部分集合であるOにも作用し、作用結果を帰結と見做せる。そしてその帰結を使うことは経験的に有用であることは確信的であるのだ。
ここで2点ほど注意を入れておこう。1つ目の注意としてVOは定義不能であるので数学的群ではないから形式的な意味合いに過ぎないが、各元を与えた時には各論的な観点から意味を持ち、その意味は明らかに明快である(※集合論的に所在無きことと矛盾していない)。2つ目の注意がある意味、第二種のオブジェクトの危うさを意味するのだが、VOをOに作用させる際の有効範囲はほとんどの場合は大丈夫であるものの、少なくとも建前上は考えるべきである。即ち無条件な仮定の元、任意帰結が正しいと見なすことは許されないということである!もちろん普通の取り扱いなら大丈夫だが、これが時間(※VO)の始まり(※極限)的な観点から現実世界(※O)の様相を導出するような場合はやり過ぎであり、何らかの問題が生じ正しい帰結が導けないようである。これを次の節で述べる。
しかし、第二種の存在は概念の存在であり、建前上は所在無きオブジェクトである事により、少なくとも(建前上では)驚いてはいけない事を前節で解説したのである。

時間の不合理

時間とは所在無き第二のオブジェクトであり、存在しない。
誤解しやすい所なので何度も言うが、存在すると思っても良い。VOを持ってして存在すると定義付けても良い。しかし、その場合Oに作用し、推論的帰結を得る射としての存在を持ってして「存在」と呼ぶことに注意すれば存在の概念は真に広がるイメージを持たねばならない。これは平常の使い方にて全く問題が起きない「存在」であるが、微細な議論(※例えば時間の始まりのような極限的議論)をする際には有効範囲を超えてしまうと言うことに注意しなければならない。
ここで時間の存在の不合理を述べておく。それは「時間には始まりが無いのにも関わらず、始まっていて、未来にのみ進行していくものである」と言う所に詰まっている。最初に「始まりがない」と書いたが、もしあるのならば始まりの1秒前は時間が存在していない地点であり、意味不明であるからである。
明らかにこの不合理性を認めることこそレトリックであり、合理的態度ではなくオカルトに過ぎない。故に消極的に「VOは非存在」と言ったほうが、概念の所在のなさを言えてる分マシなのである。さらに副産物として「全てが始まる前から数学的定理はvirtualに存在している」と言うのなどの議論をも否定でき、都合がとても良いことに気付くだろう。

微細な議論に注意

この世界にはOのみ存在する。VOをOに作用させ帰結を導く重要性は明らかであり、この記事はそれについて否定をするものでは全くない。しかし、VOは仮定(if)を基に存在が許されたオブジェクトであり、微細な議論においてその射の有効範囲を超えてしまうようである。
微細な議論とは例えば極限を伴う議論であるが、同じ極限でも時間の始まりのような現時点から何らかの意味において無限方向への極限には注意が必要であり、有効範囲外になることがある。逆にゼノンのパラドックスにおける時間の経過というような何らかの意味における無限小方面への洞察は(理由は分からないが)経験的にどうやら正しいようである。
それはきっと全てはOとその運動しか存在しないという最もシンプルな所にあり、そのカオスを理解するために人間がVOという補助線を引いた行為に対して、それすらOと同一の存在と見做し、それを過剰適用させた帰結がどこかでバグを引き起こしたのだろう。簡単に言うと我々の考えすぎが原因であり、God Givenなこの世界ではオブジェクトは最もシンプルな状態としてそこにあるだけなのだろう。


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